2018年10月15日号
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artscapeレビュー

2013年05月01日号のレビュー/プレビュー

超・大河原邦男 展 レジェンド・オブ・メカデザイン

会期:2013/03/23~2013/05/19

兵庫県立美術館[兵庫県]

ファースト・ガンダム世代にもかかわらず、ガンダムをあまり知らない筆者にとって、アニメ界における大河原邦男のステイタスなど知る由もなかった。しかし、本展を見て自分の無知を恥じた。「機動戦士ガンダム」はもちろん、「科学忍者隊ガッチャマン」や「タイムボカン」シリーズも彼の仕事だったとは。何よりも「メカニカルデザイン」という新たな職種を一代でつくり上げた事実がすごい。本展ではそんな彼の業績を、設定資料やポスター原画など約400点で紹介。アニメだからと言ってオタク仕様やエンタテインメント寄りにせず、あくまで美術館の流儀を貫くことで大河原へのリスペクトを示したのは正解だった。展示以外では、図録の出来が素晴らしかった。将来コレクターズアイテムとして高値が付くのではなかろうか。

2013/03/22(金)(小吹隆文)

記憶写真展─お父さんの撮った写真、面白いものが写ってますね

会期:2013/02/16~2013/03/24

目黒区美術館[東京都]

いわゆる市井の人びとによる写真展。目黒区めぐろ歴史資料館が所蔵する目黒とその近辺で撮影された写真、およそ200点が、「交通」や「工事中」、「都市と農村」などのセクションに分けて展示された。
写されているのは、主に1960年代の目黒の街並みや人びと。アマチュア・カメラマンによる写真だから、とりわけアーティスティックというわけではないが、昭和30年代の古きよき時代を感じ取ることができる清々しい写真が多い。質実剛健と言えばそうなのかもしれない。だが、それより深く印象づけられるのは、彼らがシャッターを切る前に、その対象を写真に残そうと思い至った心の躍動感である。
一見すると日常の何気ない風景を撮影した写真のように見えるが、よく見るとそれらの根底には撮影者にとっての新鮮な驚きや発見があることがわかる。工事によって激変する目黒駅や碑文谷八幡神社の例祭、あるいは大雨や大雪にみまわれた街などの写真の奥に、「あっ、撮りたい!」という純粋な欲望が垣間見えるのだ。本展で展示された写真に漂う清々しさは、写された風景に思わず感じ取ってしまう私たち自身の懐古趣味などではなく、撮影者が写真に向き合う実直な態度に由来しているのではないだろうか。
有名性を求める芸術写真に対する、無名性によって成り立つ限界芸術としての写真。これまでの写真批評や写真史研究は、これを検討の対象から外してきた。しかし、誰もがカメラを日常的に持ち歩き、誰もが撮影者でありうる現在、これを内側に含めない写真批評や写真史研究にどれだけのアクチュアリティーがあるのだろうか。これは純粋な疑問である。

2013/03/22(金)(福住廉)

二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年

会期:2013/01/12~2013/03/24

パナソニック 汐留ミュージアム[東京都]

建築写真家・二川幸夫の回顧展。1957年から59年にかけて発行された『日本の民家』に掲載した二川のモノクロ写真から選び出した70点と、関連する資料を併せて展示が構成された。
展示を見てまざまざと理解できるのは、一口に「民家」と言っても、その内実はじつにさまざまだということ。民家の建材や全体的なフォルムはもちろん、屋根の形状や柱の組み方、さらには民家と民家のあいだの距離感や路地の動線にいたるまで、文字どおり多種多様な民家のありようが、面白い。しかも、二川の写真には民家の造形的な美しさだけでなく、その土地土地の風土に適したそれぞれの合理性が表われているところが、すばらしい。
おそらく、「民家」にさまざまな民家があるように、「日本」にもさまざまな日本がある。それを無理やり十把一絡げに共通の規格によって塗りつぶしてきたのが、近代化の歴史だった。どこに行っても同じような建売住宅が建ち並び、どこの駅で降りても同じような駅前広場が広がる現在の建築風景は、その結果にほかならない。むろん、そのことによって暮らしの利便性が高まったことは事実だが、同時に、その暮らしを支えているテクノロジーや知性に大きな疑いが生じてしまったいま、これ以上「近代」を信奉することはできないという限界に、じつは多くの人びとは気がついているのではないか。
二川が撮影のために訪れた集落で、当初は「とても見せられるものではない」と撮影を断られたというエピソードがある。しかし、共同体の内部にとって美しくはないものが、外部にとっては美しいということは十分にありうる。二川の写真の今日的なアクチュアリティーが、私たちの想像力を「近代」とは別の針路に押し進めることにあるとすれば、それを強力に担保するのは、近代文明への危機感というより、むしろ二川の写真のなかに見出すことができる美しさだろう。

2013/03/22(金)(福住廉)

戦ったあとの美術─1950年代を中心に─

会期:2013/03/16~2013/03/31

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

日本の美術の歩みを京都市立芸術大学同窓会員の作品でたどるシリーズ企画の第3弾。終戦から1960年までの流れを19作家の作品で振り返った。残念ながら筆者が知る作家は少なかったが、それでも、柳原良平や林剛の初期作品を見ることができたのは収穫だった。また、戦中戦後の一時期に見られるセメント彫刻が2点展示されていたのも目を引いた。このような活動は本来なら美術館が行なうべきものだ。しかし、近年の美術館にそれを望むのは難しい。その意味で本展は、一美術大学の資料と但し書きはつくものの、高く評価されるべきであろう。同シリーズは今後、1960年代、70年代と続編があるらしい。その開催がいまから楽しみだ。

2013/03/26(火)(小吹隆文)

ウラサキミキオ展

会期:2013/03/25~2013/03/30

Gallery K[東京都]

銀座の画廊をていねいに見て歩くと、美術館やコマーシャル・ギャラリーでは決して出会えない作品を目にすることができる。これらを端から度外視するから、総じて言えば、今日の美術評論はかつてとは比べ物にならないほど浅薄で脆弱なものになり下がったのである。美術評論の基礎体力を蓄えるには、美術館や画廊の外部、すなわちストリートにおける表現活動を視野に収める必要があるし、同時に、それらの内部におけるさまざまなアートをいかなる偏りもなく均等に鑑賞しなければならない。これは最低条件である。
ウラサキミキオは、ここ数年、同ギャラリーで定期的に新作の絵画を発表しているが、今回の個展はこれまでの作風を持続させながらも、それらがある一定の高みに到達したことを証明した。日常的な風景を主題とした具象性の高い画面に、しかしその主題とはまったく無関係な紙片を貼りつける。その紙片にはデカルコマニーで色彩が施される場合もあるし、白い無色のまま貼付される場合もある。そうして構成された絵画は、これまでは具象性に重心が置かれることが多く、紙片はあくまでも従属的な立場にあった。ところが、今回の個展で発表された新作では、その紙片が具象性の画面を縦横無尽に暴れまわったり、あるいは紙片の上にさらなる色彩と形態が塗り重ねられたり、主題と紙片の関係性がよりいっそう複雑に錯綜していたのである。しかも一点一点の作品が、相互の類似性を見出すことが難しいほど、それぞれ自立している点もすばらしい。ウラサキは、絵画の成熟を手に入れたのではないか。
「VOCA」にしろ「シェル美術賞」にしろ、現行の美術制度は実年齢の若さと新人を同一視しているが、ウラサキのような中堅層にも有望で実力のあるアーティストは確かに存在している。ウラサキ以外で類例を挙げるとすれば、コバヤシ画廊で発表している永原トミヒロの仕事も、いま以上に注目されるべきである。それらをみすみす見逃すのは、大いなる損失というほかない。

2013/03/29(金)(福住廉)

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