2018年10月15日号
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artscapeレビュー

2013年06月01日号のレビュー/プレビュー

黒田辰秋・田中信行│漆という力

会期:2013/01/12~2013/04/07

豊田市美術館[愛知県]

とてつもなくすばらしい展覧会を見ると、しばらく言葉を失って茫然自失とすることが、ままある。黒田辰秋と田中信行による二人展は、ほとんどマスメディアの注目を集めることはなかったが、両者によって表現された漆という力とそれらを巧みに構成する展覧会の力が絶妙に調和した、近年稀に見る優れた企画展だった。
黒田辰秋(1904-1982)は木工芸で初めて重要無形文化財に認定された漆芸家。木工の指物をはじめ、乾漆や螺鈿による漆芸を数多く手がけた。本展の前半は、同館が所蔵する黒田の作品をはじめ、黒田が直接的に影響を受けたという柳宗悦が私蔵していた朝鮮木工や、親交のあった河井寛次郎による焼物や木彫も併せて、展示された。
一見して心に刻み込まれるのは、黒田の作品から立ち上がるアクの強さ。木工芸にしろ漆芸にしろ、大胆な文様と造形を特徴とする黒田の作品には、一度見たら決して忘れられないほどの強烈な存在感がある。それは、表面上の装飾や技巧に終始しがちな伝統工芸とは対照的な、まさしく「肉厚の造形感覚」(天野一夫)に由来しているのだろう。《赤漆捻紋蓋物》や《赤漆彫花文文庫》などを見ると、まるで内側の肉が反転して露出してしまったような、えぐ味すら感じられる。それを「縄文的」と言ったら言い過ぎなのかもしれないが、岡本太郎が好んだ「いやったらしい」という言葉は必ずしも的外れではあるまい。
そして、会場の後半に進むと、一転して田中信行による抽象的な漆芸世界が広がる。鋭角的な造形の黒田に対し、田中の漆芸を構成しているのは、柔らかな曲線。しかも従来の漆芸のように支持体としての木工に依存せず、表皮としての漆だけを造形化しているところに、田中の真骨頂がある。だから広い会場に点在する漆黒の造形物は、造形としては薄く、儚い。にもかかわらず、その黒光りする表面を覗きこむと、どこまでも深く、吸い込まれるように錯覚するのだ。とりわけ《Inner side-Outer side》は、それが湾曲しながら自立しているからだろうか、自分の正面に屹立する漆黒の表面の奥深くに全身で飛び込みたくなるほど、魅惑的である。
黒田辰秋の作品が外向的・遠心的だとすれば、田中信行のそれは内向的・求心的だと言える。双方が立ち並んだ会場には強力な磁場が発生していた。いや、むしろこう言ってよければ、芸術の魔術性が立ち現われていたと言うべきだろう。それは、近代芸術が押し殺してきた、しかし、かねてから私たち自身が心の奥底で芸術に求めてやまない、物質的なエロスである。本展は、物質より概念を重視するポスト・プロダクトへと流れつつある現代アートに対する批判的かつ根源的な一撃として評価できる。

2013/03/30(土)(福住廉)

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つくることが生きること東京展

会期:2013/03/09~2013/03/31

3331 Arts Chiyodaメインギャラリー[東京都]

大規模な自然災害からの復興支援活動をサポートしている「わわプロジェクト」による展覧会。東日本大震災からの現在進行形の復興に焦点を当てている点は、昨年に同会場で催された展覧会と変わらない。異なっていたのは、それらを3.11以前の復興の歴史に位置づけようとしていた点だ。
本展の最大の見どころは、阪神・淡路大震災と新潟中越地震、そして東日本大震災からの復興活動を時系列でまとめた年表にある。つまり、1995年から2004年を経て2011年にいたるまでの16年間、全国各地で展開してきた復興支援活動を一挙に視覚化したのである。むろん、それらの詳細な内実を年表から伺い知ることは叶わない。けれども、年表に記された文字の羅列と集合からは、復興に注がれた人々の熱意がまざまざと感じられた。
とはいえその一方で、時間の経過とともに復興支援活動が減少していく様子が一目瞭然だったことも事実だ。何も記述されない空白が復興の実現を意味していることは間違いない。ただ、その空白の先に新たな自然災害が必ず発生していることを考えれば、そもそも何をもって「復興」とするのか、その定義について再考せざるをえない。
年表から理解できるのは、1995年以来、この国は自然災害が周期的に発生しているという厳然たる事実である。だとすれば、近い将来、新たな自然災害が発生することは避け難いと考えるのが論理的な必然だろう。このような「震災間の時代」において、「復興」とはある特定の自然災害によって破壊された文化的な生活の回復や精神的な辛苦の治癒を明示しているだけでなく、それと同時に、私たちが無根拠に内面化してしまっている自然災害とは無縁の都市生活というイデオロギーの見直しを暗示しているのではないか。アートの創造性や想像力を前者の「復興」に活用するアートプロジェクトは数多い。けれども、それ以上に重要なのは、創造性や想像力によって後者の「復興」を再検証しながら震災と震災のあいだを生き抜く持続的な身ぶりと知恵を練り上げるアートではないだろうか。

2013/03/31(日)(福住廉)

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極限芸術~死刑囚の表現~

会期:2013/04/20~2013/06/23

鞆の津ミュージアム[広島県]

死刑囚たちが描いた絵画を集めた展覧会。実名と匿名合わせて37名によるおよそ300点の作品が一挙に展示された。同類の展覧会としては、例えば「獄中画の世界 25人のアウトサイダーアート展」(Gallery TEN、2010年)などが先行しているが、これだけ大規模な展覧会はおそらく初めての試みではないか。
会場を一巡してたちまち理解できるのは、いずれの作品も「死刑囚」という不自由な境遇で描写された絵画であること。画材はほとんど色鉛筆やボールペンであり、支持体もノートや色紙などに限られている。いずれも絵画のサイズが決して大きくないことも、その不自由の象徴だろう。いつ訪れるともわからない死刑執行への不安や恐怖がそれぞれの絵画の根底にひそんでいることも、大きな共通点だ。
とはいえ、そのようにして表現された絵画は、じつに多種多様。死刑囚である自分を具象的に描く者がいれば、抽象的に描く者もいるし、あるいは漫画として表現する者さえいる。死刑制度への反対を訴えるポスターもあれば、死刑によって命を落とす自分を象徴的に描く者もいる。技術的な面でも、稚拙なものから職人的な完成度を備えているものまで、さまざまだ。
例えば、林眞須美の《青空泥棒》。青い背景に黒い枠組みが描かれ、その中に赤い丸が一点置かれた、じつにシンプルな絵である。タイトルが暗示しているように、この赤い丸が青空から隔離された作者自身であることは、想像に難くない。青空の見えない三畳一間で365日を送る非人間的な日常。それを、直接的に描写したのであれば、とくに感慨も想像も生まれたなかったに違いない。情緒性を一切排除した抽象的な記号表現だからこそ、私たちはそれらの奥に向かって具体的に思いを馳せるのである。
あるいは、闇鏡の《100拝》は、ノートを日付によって分割し、それぞれの枠に野菜などのイラストを3つずつ記したもの。ネギ、大根、ナス、じゃがいも、豆腐などのイラストが細かく並んだ絵は、「死刑囚」という条件が連想させるシリアスなイメージとは裏腹に、何ともかわいらしい。これは、その日の食事で供された味噌汁の具材を記録したものだという。死刑囚による絵画表現には、考現学的な調査報告も含まれていたのだ。
本展で浮き彫りになっていたのは、単に死刑囚という特殊な境遇にある者が描いたアウトサイダーアートではない。それは、むしろ人が絵を描く原初的な動機である。これほど、切実に、純粋に、真正面から、絵を描くことができるアーティストが、現在どれだけいるだろうか。アートマーケットなどには目もくれず、アイロニーという逃げ道を拵えることもなく、絵画を理論武装するわけでもない。ただただ、絵を描きたかったのだ。いや、描かざるをえなかったのだ。そのあまりにも透明度の高い絵画は、私たちの不純な視線をあらわにする鏡のようでもあった。思わずたじろぐ私たちを、彼らはどんなふうに想像しているのだろうか。

2013/04/20(土)(福住廉)

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三喜徹雄/GERDEN

会期:2013/04/16~2013/05/12

楓ギャラリー[大阪府]

1967年の結成以来、関西を拠点にしながら野外での表現活動を一貫して継続している前衛芸術運動「THE PLAY」。その主要なメンバーである三喜徹雄の個展。「THE PLAY」と同様、三喜個人の表現活動も海岸や山間部などで催しているが、本展も画廊の軒先と庭に作品を展示した。
緑が生い茂る庭に設置されていたのは、巨大な球状のオブジェ。最低限の竹を湾曲させながら組み合わせているため、後景を見通すことができるほど、量塊性には乏しい。けれども、背景に溶け込むかのような物体のありようは、求心的な造形によって自然と対峙する西欧彫刻の伝統とは異なる立体表現の可能性を示していた。しかも、西欧彫刻の伝統とは異なる立体表現を志向したにもかかわらず、依然として重力に従順だったもの派とは対照的に、その圏外からも軽やかに脱出する遠心性を造形化していたところがすばらしい。文字どおり、庭からも転がっていくような自在な運動性が感じられたのだ。
その身軽な運動性は、形式的にも内容的にも、三喜徹雄の表現活動の全般に通底する大きな特徴だが、軒先にずらりと展示されたこれまでの作品を記録した資料を通覧すると、そこには現代アートに対する根源的な批評性が含まれていることに気づく。それは、私たち鑑賞者のなかに認められる、美術作品と美術家を同一視する視線である。
私たちは、美術家の内的な必然性にしたがって表現された造形を美術作品として考える傾向がある。美術家は自らの思想なりメッセージを作品に埋め込んでおり、それゆえ私たち鑑賞者は想像力を駆使してそれらを掘り起こし、読み解かなければならないというわけだ。これは一見すると当たり前の考え方のようだが、じつは近代という時代に特有の芸術観念にすぎない。軒先の壁に貼りつけられたノートに記された三喜徹雄の次の言葉は、その芸術観念に毒された私たちの脳天を揺さぶるほどの強い衝撃があるに違いない。
「よく『意味』など聞いてくるアホもおるけど、意味なんかおまえが考えろと返事することにしてます。もしそいつに意味などというもんがあるんやったら、それはおまえの中にあるんであって、俺に聞くな!!」

2013/04/20(土)(福住廉)

ニューシティー・アートフェアOSAKA

会期:2013/04/24~2013/04/28

阪急うめだ本店9階 阪急うめだギャラリー[大阪府]

日本の現代アートを紹介するアートフェアとして、ニューヨークや台北で行なわれてきた「ニューシティー・アートフェア」が、国内でも始動。東京、大阪、京都、金沢、札幌の17ギャラリーが出店し、それぞれのおすすめ作家たちの作品を展示・販売した。内容はオーソドックスなれど、交通至便な会場、ギャラリーや作家の質の高さなど、評価すべきイベントだったと思う。しかし、内容に比して反響が小さかったように思えるのはなぜか。その理由は広報の遅さ。ネットでの情報配信が主流となったいま、広報も直前の露出が増えている。しかし、広範な地域や人々に周知させたいなら、もっと早い時期からの広報が必要だ。また、百貨店でアートフェアを行なう以上、外商のお得意様を対象としたプレビューやパーティーなどは行なわれたのだろうか。私は真相を知らないので断言できないが、ちぐはぐな印象が拭えなかった。

2013/04/25(木)(小吹隆文)

2013年06月01日号の
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