artscapeレビュー

2013年09月01日号のレビュー/プレビュー

宮沢賢治 詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心 展

会期:2013/07/13~2013/09/16

世田谷文学館[東京都]

宮沢賢治の没後80年を記念した展覧会。賢治直筆の手紙や葉書、絵本の原画をはじめ、賢治の童話を題材とした絵本の原画や挿絵が展示された。
その原画や挿絵を描いたのは、いわさきちひろ、スズキコージ、田島征三、司修、堀内誠一、棟方志功、矢吹申彦ら錚々たる面々。とりわけ興味深かったのは、そのなかに高松次郎、中西夏之、李禹煥も含まれていた点である。前者のクリエイターたちが描いたのは具象的で写実的な絵画であるのに対し、後者の現代美術家たちが見せたのはあくまでも抽象画。曲線が入り乱れていたり、色が重なっていたりしているだけなので、一瞥したところでは、どこが宮沢賢治の物語と照合しているのか、まったくわからない。抽象化したのだから当然と言えば当然だが、あまりにも超然としたその構えには、ある種の潔さすら感じる。挿絵やイラストレーションとは異なる現代美術の矜持ここにありということなのだろうか。
ただ、抽象化が悪いとは言わないが、これではあまりにも芸がないのではなかろうか。池田龍雄や中村宏、あるいは桂ゆきといった先達がすぐれた絵本の原画や挿絵、ないしは童画を描いていたことを考えると、現代美術家といえども、いやだからこそ描くことができる絵は十分にありうる。ジャンルの問題というより、描き手が潜在させている芸の幅の問題ではないか。

2013/08/11(日)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00022138.json s 10090357

ミュシャ──くらしを彩るアール・ヌーヴォー

会期:2013/07/13~2013/09/01

大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)[大阪府]

19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリで活躍した、アルフォンス・ミュシャの作品を通して、都市生活におけるアール・ヌーヴォーの拡がりについて紹介する展覧会。ポスター等のグラフィック作品だけでなく、彼のパッケージデザインによる菓子の缶や、ポストカード・切手・紙幣・絵皿などの日用品が展示されている。さらに、当時流通した立体物の例(机、ファブリック製品・金属製品等)も見ることができる。エミール・ガレによる木製小椅子から、日本の建築家/武田五一による木製花台・安楽椅子・花瓶まで、日本におけるアール・ヌーヴォーの作例まで展観される。パリ時代のミュシャの製作基盤は、大量に消費される品々にある。本展を通して、大衆の生活に寄り添うデザインを見るならば、ベル・エポックの時代にアール・ヌーヴォー芸術が暮らしのなかに浸透していった様子を、いきいきと読み返すことができるだろう。[竹内有子]

2013/08/12(月)(SYNK)

Will Eisner: Father of the Graphic Novel(ウィル・アイズナー──グラフィック・ノベルの父)

会期:2013/07/27~2013/11/10

カートゥーン・アート・ミュージアム[サンフランシスコ]

ウィル・アイズナー(Will Eisner, 1917-2005)は米国・ニューヨーク市生まれの漫画家。私たちには馴染のない名前だが、アメリカ・コミック史においてはもっとも重要な人物の一人として考えられている。サンフランシスコ市内にあるカートゥーン・アート・ミュージアムで彼の回顧展が行なわれていたので、訪ねてみた。サブタイトルにある「グラフィック・ノベル(Graphic Novel)」とは、複雑なストーリーの、大人向けのアメリカン・コミックを指すようだが、少々曖昧な定義で、ほかのコミックや漫画との違いはつかみ難いところもある。ただ、「グラフィック・ノベル」というジャンルは、ウィル・アイズナーが設立したスタジオと作品シリーズによって確立されたというのが定説。「グラフィック・ノベルの父」というサブタイトルとおりだ。展示はアイズナーの代表作の原画をいくつか紹介するもので、思ったより小規模だった。彼の作品は鋭いペンのタッチと、ブラックユーモア、ときには哀愁溢れるストーリーが絶妙に相まってアメリカ社会、ひいては現代社会を鋭く風刺していた。時が経ても、国が変わっても人間の日常や悩みは変わらない気がした。[金相美]


カートゥーン・アート・ミュージアム外観


展示風景


展示風景


展示作品

2013/08/13(火)(SYNK)

Richard Diebenkorn: The Berkeley Years, 1953-1966(リチャード・ディーベンコーン──バークレーの時代 1953-1966)

会期:2013/06/22~2013/09/29

デ・ヤング美術館[San Francisco]

サンフランシスコ滞在中(ちょうど原稿の締切日と重なった)、デザイン関連の展覧会をみる機会がなかったため、展覧会ではなく美術館を紹介したい。サンプランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内に位置する、デ・ヤング美術館は、1895年に開館したが、現在の建物は1989年に起きた大地震以後、再築などを経て2005年に完成、新しくオープンした。設計はロンドンにあるテート・モダンも手かげた、ジャック・ヘルツォーク(Jacques Herzog, 1950- )とピエール・ド・ムーロン(Pierre de Meuron, 1950- )が担当した。建物の外壁を覆っている、銅版は海風に酸化され赤みを帯びていて、その銅版に掘られた7,200個の穴からは光が入り、時間とともに変化する。北側にある塔に登ると市内が一望できる。文化人類学的に価値の高い作品を多く収蔵しており、また印象派の作品も多い。現在は、米国出身の画家リチャード・ディーベンコーン(Richard Diebenkorn, 1922-1993)のバークレー(サンプランシスコ)時代の企画展が行なわれている。ディーベンコーンはアメリカ・モダニズム絵画に大きく影響した人物だそうで、初期はニューヨークで抽象画を描いていたが、その後、人物画を経て、具象へと移る。本展ではサンプランシスコ時代の抽象画と人物画が130点余り紹介されていた。[金相美]


デ・ヤング美術館、外観


同、内観


同、内観


「リチャード・ディーベンコーン──バークレーの時代 1953-1966」エントランス

2013/08/14(水)(SYNK)

『吾妻橋ダンスクロッシングファイナル!』

会期:2013/08/17

アサヒ・アートスクエア[東京都]

タイトルに「ファイナル」とついた吾妻橋ダンスクロッシング(以下「吾妻橋」)が上演された。前半と後半(「コンピレーション・アルバム」の体裁を模した吾妻橋らしく「DISK 1」「DISK 2」と呼称)でトータル約7時間(!)。とはいえ、18組のパフォーマンスとChim↑Pomによるインスタレーションは、ほぼ10年続いた吾妻橋を総括するというよりも、いまの旬のパフォーマンスをキュレーターの桜井圭介による独特のセレクションで集めており、その意味で相変わらずの吾妻橋だった。桜井は、これまでの10年をまとめ、今後の10年を予感させるつもりで選んだと筆者に話してくれたが、なるほどKATHY、黒田育世、身体表現サークルというチョイスは、「The Very Best of AZUMABASHI」★1が上演された2007年頃を思い起こさせて、懐かしさを感じさせるものだったし、ただそうした観客側の懐古的な思いを打ち消すように、ロロ、ピグマリオン効果、hyslom(ヒスロム)、ダンシーズ(皆木正純+山田歩+唐鎌将仁)のような新しいラインナップも加わわっていた。
今回の吾妻橋にぼくが見た特徴は二つ。
ひとつは、身体という存在の不確かさ・不安を訴えているような作品が目立ったこと。DISK 1のトップバッター、音楽家の安野太郎は、4本のリコーダーをPCの制御のコンプレッサーが奏でるという実演を行なった(タイトルは「ゾンビ音楽」)。空気圧で鳴る音色の非人間的な感触は、パフォーマンスにおいて人間の肉体が不在であることの無気味さを強く印象づけた。ほかにも、かつて大分で遭遇した心霊体験を語り、その際撮影した写真を紹介した捩子ぴじんの上演は、目の前に存在しない(いや、存在するかどうか不確かな)霊的な存在をめぐってのものだった。KATHYは美術家の水野健一郎とともに、普段ぼくたちが知覚せずにいる次元に迫り、見えないものを観客に感知させるパフォーマンスを行なった(タイトルは「確かにみえている」)。ルックスからしてそうであるが、かねてから踊る身体の存在の不確かさ、曖昧さについて自覚的であったKATHYのさらに一歩超常現象へと進んだ表現を見た後では、快快の山崎皓司によるパフォーマンスもいつも以上に、存在の不安に迫っているように見えてしまう。山崎はユニクロとダイソーを愛する中年女性に扮した。自分を見過ごす社会への不満が演じる山崎自身の抱く役者生活への不安と重なる。余剰的存在として役者を提示することは快快の舞台に時折盛り込まれるものだ。昨今の、三次元よりも二次元、現実よりもヴァーチャルを志向する社会の傾向にあって、パフォーマンスする身体の価値はそれほど自明ではなくなっている。そうした状況が滲んで見えたのが、今回の吾妻橋に目立った特徴だった。
もうひとつは、冷笑的な傾向だ。ダンシーズの男3人が野良犬のようにうろうろする舞台、そこに尾崎豊のライブ語りを流したのだが、尾崎の真っ直ぐさを冷やかしているように見えたし、DISK 2のラストで有志の観客100人を斬り続けた悪魔のしるしの危口統之は、観客を愚かな死体と化してその状況を高みから笑っているように見えた。ひたすらくだらないだしゃれを口にし、まとまらない状態を演出したライン京急も、とくに今回は、くだらないことをあえて強調している気がした。舞台を、ダンスや演劇を、あるいは観客を嗤う批評性は、どうしても笑う者の優位と笑われる対象の劣位が際立ってしまい、破壊のダイナミズムに乏しい。その意味では、最近の吾妻橋に頻繁に出演していた遠藤一郎の不在が寂しかった。彼の度はずれた真っ直ぐさこそ、優劣を超えた場を引き出す力となるのではないか。それは吾妻橋が示す倫理的態度でさえあった、そう思っていたから。

★1──木村覚「アメーバ化したぞ『吾妻橋』」(吾妻橋ダンスクロッシング「The Very Best of AZUMABASHI」レビュー、ワンダーランド、2007)

2013/08/17(土)(木村覚)

2013年09月01日号の
artscapeレビュー