2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

2013年11月01日号のレビュー/プレビュー

高田瞽女最後の親方 杉本キクイ

会期:2013/08/03~2013/09/29

上越市立総合博物館[新潟県]

瞽女(ごぜ)とは、盲目の女性旅芸人。主として農村や漁村を巡り歩き、各地で三味線を奏でながら唄を歌う。瞽女唄はテレビもラジオもない時代の娯楽として庶民によって大いに楽しまれた。戦後の経済成長とともに瞽女の文化は衰退してしまったものの、とりわけ新潟県の長岡瞽女と高田瞽女はいまもその芸が辛うじて継承されている。
長岡瞽女といえば、美術家の木下晋が描いた小林ハルが知られているが、本展は高田瞽女の最後の親方、杉本キクイを取り上げたもの。キクイの生涯や暮らしぶり、道具、掟を記した式目、そしてキクイに取材した画家の斎藤真一による絵画などが展示され、記録映画『瞽女さんの唄が聞こえる』(伊東喜雄監督)も併せて上映された。
展示を見てひときわ印象に残ったのは、瞽女の世界独自の秩序。親方の家で共同生活を営む瞽女たちの暮らしは、非常に規則正しい。毎朝丁寧に部屋や庭を掃除していたせいか、展示された器物はいずれも輝いており、保存状態が良好である。また式目を見ると、男や子をつくってはならないなど、数々の厳しい掟のもとで瞽女が生きていたことがわかる(掟を破った瞽女は追放され、「はなれ瞽女」となるが、これは映画『はなれ瞽女おりん』[篠田正浩監督]に詳しい)。
瞽女たちの秩序は、おそらく自らの生存のための戦略だったのだろう。盲目というハンディキャップを負った女たちにとって、瞽女という職能と生き方は、按摩と同様、「福祉」という概念のなかった時代におけるある種の「セーフティーネット」として機能していたと考えられるが、その機能を十全に発揮させるためには自らを厳しく律する法が必要不可欠だった。生きるために、いや、よりよく生かされるために、自ら掟に従っていたのだ。
いま瞽女に注目したいのは、その存在が現代におけるアーティストと重なっているように見えるからだ。むろん、その行動様式はレジデンスを繰り返しながら国内外を巡るアーティストのそれときわめて近しい。けれども、より根本的に考えれば、盲目の瞽女と見えないものを可視化するアーティストには通底する次元があるのではないだろうか。残された瞽女唄の音源を聞くと、眼の見えない瞽女の唄い声に、眼の見える者たちが熱心に耳を傾けることで、ともに唄の世界を見ているような気がしてならない。それは、視覚によって見ている通常の世界ではないし、だからといって盲目の世界を想像しているわけでもなく、瞽女の唄声と三味線の音を契機として双方がともに働きかけることではじめて切り開かれる、他に代えがたい特異な世界なのだ。
神にしろ無意識にしろ、いまも昔も、アーティストは見えない世界を見えるように表現してきた。そして優れたアーティストは、いずれも明確な自己規律によって制作を持続させているのだった。社会に直接的に貢献するわけでもなく、他者の求めに応じるわけでもなく、あくまでも自己の必要と充足のために制作を繰り返すアーティストにとって、そうした自己規律があってはじめて制作を前進させることができるのかもしれない。瞽女に学ぶところは大きいはずだ。

2013/09/23(月)(福住廉)

水田寛 展「レトロポリス」

会期:2013/09/21~2013/09/29

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

童画を思わせる画風、複数の時空が複雑に交錯した空間表現、鮮やかな色彩の乱舞といった要素からなる絵画作品30点を、展示室を目いっぱい使ってインスタレーション的に展示していた。こうした最近の水田の作風には、美術教育の影響を受ける前の自分を振り返ろうとする意図が窺える。一度キャンバスに描いた作品を切り取り、別の絵とつなぎ合わせる手法もまた、完成度や構図を気にせず描いていた子ども時代から着想したものだ。描くことへの根源的な欲求に基づきつつ、作品の配置には緻密な計算を凝らしているのも彼らしい。現在の水田の実力を惜しみなく出し切った、気持ちのいい個展だった。

2013/09/24(火)(小吹隆文)

死刑囚の絵画展

会期:2013/09/28~2013/09/29

渋谷区文化総合センター 大和田ギャラリー大和田[東京都]

この春、広島県の鞆の津ミュージアムで開催され大きな反響を呼んだ「死刑囚の絵画」展。ほぼ同じ内容ながら、一部に新作も含めた展覧会が東京で行なわれた。
改めて印象づけられたのは、彼らの絵画から立ち上がる表現欲動。高度な技術や洗練されたコンセプトといった、通常現代アートで求められる諸条件は端から考慮されていない。ただ、絵を描きたい。いや、絵を描くことで何かを伝えたい。いずれの画面からも、それぞれ濃厚な表現欲動が溢れ出ている。
小林竜司の《獄中切手》は切手に見立てた画面に独房の内側を描いているが、これが隔絶された獄中から獄外へ発信する意欲そのものを表現していることは明らかだ。あるいは、岡下香の《司法界のバラ》は、植木鉢の土の下に自分の顔を描くことで、色鮮やかに咲く花の養分になっている自分自身を自虐的に描き出したが、植木鉢の外には硬い鉢を突き崩す小鳥たちが舞っている。幽閉された自分を救出する希望の象徴だろう。彼らの絵を見た瞬間に、そうした表現の内容が確かに伝わってくるのだ。
むろん、こうした絵画の経験は死刑囚という特殊な境遇に由来しているに違いない。明快に伝えることを避けがちな現代アートと同列に論じることも難しいのかもしれない。けれども、人はなぜ絵を描くのかという原点に立ち返って考えてみたとき、その答えを導き出すのは現代アートではなく死刑囚の絵画ではないだろうか。なぜなら、死刑囚たちは必要に迫られたからこそ絵を描いているに違いないからだ。自己表現や自分探し、あるいは現代アートの歴史に接続させることばかりに現を抜かす現代アートが、「必要」を無理やり捏造してまで制作を繰り返しているとすれば、死刑囚たちは望みもしなかった「必要」にかられて、やむなく、しかし切実に絵を描いている。どちらが鑑賞者の心を打つのか、もはや明らかだろう。
死刑囚の絵画は、現代アートの自明性を突き崩してしまう。絵描きはつねに絵を描くものだと思われているが、彼らからしてみれば「必要」もないのにわざわざ絵を描き続けることはいかにも不自然であろう。「必要」がないのであれば絵をやめて、「必要」が生まれるまで試行錯誤する。それこそ絵描きの王道ではなかろうか。

2013/09/29(日)(福住廉)

島崎信+織田憲嗣が選ぶ──ハンス・ウェグナーの椅子展

会期:2013/09/27~2013/10/14

スパイラルガーデン[東京都]

生涯に500脚以上の椅子をデザインしたと言われる、デンマークを代表する家具デザイナーの一人、ハンス・ウェグナー(1914-2007)。彼のデザインした「Yチェア」は、世界で50万脚以上が販売されているという。本展は、北欧デザイン研究で知られる島崎信氏と、椅子の研究家・蒐集家である織田憲嗣氏の監修によりウェグナーの椅子60脚余を集めた展覧会。ウェグナーの「チャイナチェア」のインスピレーションの源となった中国明代の椅子「圏椅(クワン・イ)」を中心に、その仕事の系譜が系統樹の様式で体系づけられている。島崎氏はウェグナーのデザインの手法を「リデザイン」とするが、明代の椅子をオリジンとするリデザインのプロセスゆえ、また木という素材の特性と技術とを熟知するがゆえ、彼の仕事は進化のアナロジーとして体系づけることができるということになろうか。
 今回の展覧会で特筆すべきは、ほとんどの作品に手を触れ、腰掛け、その座り心地が体験できた点である。見た目の美しさだけがデザインではない。「使ってみる」にまでには到らないにせよ、体験可能な展示はデザイン展の望ましい姿だと思う。[新川徳彦]

2013/10/01(火)(SYNK)

起源を歩く|Jomonと原田要の庭

会期:2013/09/30~2013/11/01

京都造形芸術大学芸術館[京都府]

花や食虫植物を思わせる立体の支持体(寄木を彫刻したもの)を制作し、その表面にペインティングを施した原田要の作品。絵画と彫刻の要素を兼ね備えたそれらが、縄文土器との共演を果たした。この組み合わせは一見奇異に思えるが、本展の企画者は、イメージと形態の一体感や表面(=物事が生起する場)へのこだわりに、両者の共通性を見出したようだ。その主張には議論の余地があるかもしれないが、古代の遺物と現代美術が等価に並ぶ様は非常にエキサイティングかつ美しかった。時空を超えた美術表現の邂逅は大歓迎だ。今後も同様の企画を継続してほしい。

2013/10/01(火)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00023534.json s 10093125

2013年11月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ