artscapeレビュー

2013年12月01日号のレビュー/プレビュー

龍野アートプロジェクト2013 刻(とき)の記憶

会期:2013/11/15~2013/11/24

ヒガシマル醤油元本社工場、龍野城、聚遠亭、他[兵庫県]

兵庫県南西部に位置する、たつの市の城下町を舞台に行なわれたアート・イベント。3年目の今年は、過去2回の出品者に、ミロスワフ・バウカ、松井智惠、さわひらきを加えた21作家が出品。醤油会社の元工場や資料館、古民家、龍野城、図書館、カフェなどで展示が行なわれた。今年は全国各地で大規模な地域型アートイベントが行なわれたが、「龍野~」は、規模や知名度の点で決してメジャーとは言えない。しかし、作品・展示・ホスピタリティが上質で、歴史ある城下町の魅力も手伝って素晴らしい仕上がりとなった。「瀬戸内」や「あいち」と比べても、決して引けを取っていないと思う。来年以降の予定は不明だが、願わくば継続してほしい。現在のレベルで回を重ね、適切な広報活動を行なえば、きっと地域の文化資産になるはずだ。

2013/11/17(日)(小吹隆文)

ゲンビ:New era for creations──現代美術懇談会の軌跡1952-1957

会期:2013/10/19~2013/11/24

芦屋市立美術博物館[兵庫県]

「今回同じエスプリをもって新しい造型を志す人々が、各所属団体を考えずに自由な個人の立場からお互いに忌憚なく語り合う会をつくる事になりました。ついては毎月十三日午後二時より五時まで朝日新聞貴賓室で懇談会を開くことに決定致しました」。これは、1952年、大阪で発足した研究会「現代美術懇談会(ゲンビ)」の設立趣意書である。吉原治良(二科会)須田剋太(国画会)、山崎隆夫(同左)、中村真(モダンアート協会)、植木茂(同左)、田中健三(自由美術協会)、6名の連名。当時の関西における美術界のリーダーたち(40代の作家)は、絵画・彫刻・工芸・書・いけばなといった芸術のジャンルを超えて、議論を交わし、そのゼミのような討論を以て若手の育成も図った。ここから、展覧会「ゲンビ展」も行なわれるようになった。興味深いのは、1954年、同展から派生した「モダンアート・フェア」が開催され、そこにインダストリアル・デザインが含まれていたことだ。モダンアートの隆盛がデザイン製品に与えた影響について考慮され、優れたデザイン──いわゆる西洋諸国で戦後に推進された「グッド・デザイン」運動と同等の動きである──が展示された。これらの諸活動を通じて、「新しい造型」を探求した作家たちは、ジャンルの垣根を超えて「造型の根本」は同じである、という認識を共有したのであろう。本展からは、戦後の関西芸術界の熱い息吹を感じ取ることができる。[竹内有子]

2013/11/17(日)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00023942.json s 10094060

田中正造をめぐる美術

会期:2013/10/12~2013/11/24

佐野市立吉澤記念美術館[栃木県]

田中正造の没後百年を記念した展覧会。田中正造の肖像画をはじめ、丸木位里・俊による《足尾鉱毒の図》、小口一郎による連作版画《野に叫ぶ人々》、さらに田中正造自身による墨竹図や、田中正造が奮闘した渡良瀬川流域で現在制作している下川勝と光山明の作品も併せて展示された。小規模とはいえ、非常に充実した展覧会だった。
なかでも特筆したいのは、小口一郎の版画である。画面の大半が黒い版画は、必然的に主題に暗鬱とした空気感を添えているが、それだけではない。小口の版画の画面構成には、おそらくルポルタージュ絵画の中村宏にも通底する映画的な感性が大きく作用しているように思われる。《直訴》は、官憲による制止を振り払って直訴状を届けようとする田中正造の姿を描いた作品。動く被写体にカメラが寄っているような臨場感がある。しかも中央に握りしめた直訴状、右側に押し寄せる官憲、左側にムシロを掲げて行進する農民たちを置いているため、画面には左方向へ突き進む力と右方向に引き戻す力が拮抗しているようにすら感じられる。また、《川俣事件その2》は、請願に向かう被害農民たちと彼らを弾圧する官憲たちの乱闘を描いた作品だが、これは中村宏の《砂川五番》と同じように、画面の両端に奥行きをもたせた魚眼レンズで見たような構図を採用しているため、黒澤映画のような迫力があるのだ。
小口一郎の黒い版画が表現しているのが、止むに止まれず直訴という直接行動を実行した田中正造の緊迫した心情であることは間違いない。それが、東日本大震災以後の私たちの暗い心情と大きく共鳴することも疑いない。会場には鉱毒によって毒された土を除去する農民を写した写真が展示されていたが、これを見た誰もが放射性物質によって毒された土地を除染する今日の現代人を重ねざるをえないだろう。「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という箴言も、今となってはこれまで以上に広く行き渡るに違いない。
ただ、田中正造にそうした今日的なアクチュアリティが認められることは確かだとしても、その一方でアクティヴィストという定型的なイメージには収まりきらない田中正造を見ることができたのも事実である。
たとえば、官吏として東北に赴任した頃に描かれた《田中正造御用雑記公私日記》。小さな紙面に微細な文字と図で農具や用水についての記録が丁寧に取られていて、田中正造の律儀な仕事ぶりが伺える。今日で言うところの民俗学者のような身ぶりを体現していたのだ。あるいは、自筆による《墨竹図》が展示されていたように、田中正造は少年時代に同館の由来である吉澤松堂に画を学んでいた。ところがうまく習得できなかったというから、いわば絵に関しては劣等生だったのだ。
絵描きになり損なった者が、絵描きに描かれるほど、絵以外の領域で大成する。つまり絵描きは民俗学者になりうるし政治家にもなりうる。本展で照らし出されていた田中正造のイメージが示しているのは、言ってみれば敗北の歴史である。しかしそれは必ずしも屈辱的なものではない。田中正造は敗北の先を切り開き、後続の者がさらにその先を目指しているからだ。

2013/11/19(火)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00023267.json s 10094049

うさぎスマッシュ展──世界に触れる方法(デザイン)

会期:2013/10/03~2014/01/19

東京都現代美術館[東京都]

「うさぎスマッシュ展」。サブタイトルには「世界に触れる方法」とあり「方法」には「デザイン」とフリガナが振られている。ということは、これはデザインの展覧会なのか。しかし、ここには自動車や家電のような工業製品があるわけではない。企業や商品のポスターがあるわけでもない。ということは、今日の職業デザイナーの大多数が日常的に関わっている「デザイン」ではない。21組の出品作家には、デザイナーばかりではなく、アーティストと呼ばれている人も多い。それでは、この展覧会でいうところのデザインとはどのような行為なのか。それはアートとは違うものなのか。
 もとより、デザインはかつて「応用芸術(applied art)」と呼ばれたように、造形的な手法を商業的な広告やプロダクトに応用する活動を指し、アートから分化した存在である。しかし、その後デザインはアートから距離を置き、アートとの違いを強調するようになっていった。すなわち、デザインは美という抽象的な存在、感性に訴えるものではなく、合理的な思考プロセスのもとにクライアントの抱える問題を見出し、それを造形的に解決する手段であるとする。デザインはプロダクトの機能性を改善し、消費者を魅了する外観を与え、クライアントの利益向上に資する存在であるとして、自らを商業的なシステムに組み込んでいったのである。
 しかし近年、再びデザインとアートとの接近が言われてきている。ただし、そのときの「デザイン」は、量産可能なカタチを考えるとか、付加価値のある商品を設計するというものではない。デザインという行為の根本にある、他者の抱える課題を探り、それを解決するための方法を見出す、あるいは問題を提起する行為を指している。大多数のデザイナーにとって「他者」とはクライアント企業でありプロダクトの使用者・消費者であるがゆえにデザインは商業と不可分の関係にあると思われがちであるが、その手法は社会、あるいは世界が抱えている問題にも適用できる。アートとデザインの接近はこのフィールドで生じているのである。とはいえ、このような手法はけっして新しいものではない。イラストレーションによるカリカチュア、ポスターによるプロパガンダはこの分野の先駆者であり、本展に出品されている木村恒久の予言的なモンタージュ・フォトもそのような文脈に位置づけられよう。かつてこの分野が主としてグラフィックの世界に留まっていたのは、それが比較的コストのかからないメディアであったからであり、情報技術の発達がもたらしたメディアの拡張や、生産技術の革新は、このようなデザインのフロンティアをさらに開拓しつつある。
 本展では、英国王立芸術学院(RCA)のアンソニー・ダンが主唱するクリティカル・デザイン★1という概念を中心に、世界に対する人々の認識の転換をうながす種々の「デザイン」が紹介されているが、それらの作品の種類は大きく三つに分けられる。ひとつは「データの視覚化」。社会や経済のデータをさまざまな手法でマッピングし、複雑な構造を解き明かそうとするものである。ライゾマティクスの《traders》は金融取引におけるデータを可視化する試み。ビュロ・デテュード《世界政府》は、国家という枠組みではなく国際的な企業(群)のネットワークによって世界が動いている様を示している。OMA*AMO《EUバーコード》は、EU加盟国の国旗を縦に引き延ばしてひとつのシンボルとしたもので、加盟国が増えるとアップデートが可能な構造は、合衆国の星条旗にも類似する優れたCIである。ブラク・アリカン《モノバケーション》は観光や休暇をテーマとした各国のコマーシャルを集め、そのイメージの類似性を見せつける。いずれもデータの丹念な収集と緻密な分析に基づき、グローバライゼーション(あるいはそれは単なるアメリカナイゼーションにすぎないのかもしれないが)が進行する世界の見方を私たちに提示している。
 もうひとつは「科学との新しい関係」。おもにフィクションの方法を用いて、私たちに科学の未来を考えさせる。アレキサンドラ・デイジー・キンズバーグ&サシャ・ポーフレップの作品は、遺伝子操作された植物によって作られる「除草剤散布機」(《栽培─組立》)や、顔料を生成するバクテリアを摂取することによって排泄物で病気の診断を行なうシステム(《イークロマイ:スカタログ》)。リヴィタル・コーエン&テューア・ヴァン・バーレン《ライフ・サポート》は他の動物の身体機能を、腎臓病患者や呼吸器障害を持つ人の生命維持装置として使用する姿を描く。いわばSFの世界なのだが、その結末が明るい未来なのか、それともカタストロフをもたらすものなのか。作品の本質は見る者の想像力を刺激することにあり、その結末は鑑賞者に委ねられている。
 三つめは「認識の転換を触発する方法」。イギリスでは街頭に膨大な数の監視カメラが設置され、日常的に監視され記録されていることが知られている。 キャンプの《CCTVソーシャル》は通常は監視されている側の人々をCCTVカメラの制御室に招き、オペレーターたちと語り合う姿を記録したドキュメンタリー映像。見られる側が見る側になったとき生じる認識の転換が淡々と綴られる。ジュディ・ウェルゼイン《ブリンコ》は、メキシコからアメリカへの不法移民にサバイバルツールを仕込んだスニーカーを無償で提供し、他方で同じものをアメリカの高級ショップで売るというプロジェクトによってもたらされる人々の評価の差異を、このプロジェクトを取り上げたさまざまなニュース、コメンタリーの映像によって炙り出す。
 世界に対する認識はその人が依って立つ文脈によっても、国家や地域の歴史的背景に依っても多様であるが、その多様な認識はまたささやかな刺激によって転換しうる。現実の世界は固定的なものではなく容易に変わりうるものであり、そのような変化は私たちの未来像をも描き換える。デザインにはそうした転換をうながすメディアとしての力があることを示す展覧会である。[新川徳彦]

★1──「クリティカル・デザインは、抽象的な課題を具体的に把握させ、人々に思考や意識改革をうながし、行動や理論を誘発するデザインであり、現状をより強固にするアファーマティヴ・デザインの対極にあるものである」(『うさぎスマッシュ──世界に触れるアートとデザイン』、フィルムアート社、2013年、139頁)。


OMA*AMO《EUバーコード》(2001- )


ビュロ・デテュード《世界政府》(2013)


マーニー・ウェーバー《丸太婦人と汚れたうさぎ》

2013/11/19(火)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00023299.json s 10094061

吉岡徳仁──クリスタライズ

会期:2013/10/03~2014/01/19

東京都現代美術館[東京都]

エスカレーターを降りて地下の会場に入ると、真っ白い部屋。積み上げられた膨大な数の白いストローが渦を巻くなかに、ガラスのベンチ《Water Block》が据えられている。チャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れる次の部屋の中央には透明な液体が入った大きな水槽がしつらえられ、その中では結晶絵画《Swan Lake》が育てられている。壁面にはそれぞれ「白鳥の湖」の異なる楽章が流れるなかで生成された作品が展示されている。その奥の部屋には薔薇の花を核に生成した《ROSE》。ほのかな色味は、花の色素だという。展示室は再び白いストローの竜巻《Tornado》で満たされ、その間の細い道を進むと椅子の形に張り渡した細い糸に結晶を生成させた《蜘蛛の糸》が、その生成途中の姿とともに配されている。圧巻は、高さ12メートルの吹き抜け空間を使用した虹の教会《Rainbow Church》。ガラスのプリズムを通して差し込む光が、周囲に虹色の色彩を投影している。アンリ・マティスのロザリオ礼拝堂に衝撃を受けて着想したという教会建築を念頭においた、ガラスと光によるインスタレーションである。
 その規模や物量に圧倒される側面はあるが、吉岡徳仁の空間デザインに共通する魅力は、人の手によって固定化された造形ばかりではなく、チューブやストローなどの集積によってつくられる不定型な空間、結晶による造形、プリズムによる光の演出など、自然の力を借りつつも極めて純粋なオブジェ、純化された空間を生み出している点にある。自然の力を借りるといっても、すべてを委ねるのではなく、実験やシミュレーションによって明確な設計がなされている。しかし、特殊な水溶液によって結晶ができることがわかっていても、音楽を聴かせることでそれがどのような形に生成するかまではコントロールできない。羽毛に風を送ったときに、一つひとつの羽根がどのように舞うのかまではわからない。すなわち吉岡徳仁がデザインしているのは形ではなく、方法なのである。
 1階会場では、ハニカム構造を持つ紙を素材とした椅子《Honey-pop》と繊維の塊を焼いて作る椅子《PANE chair》が展示されているほか、過去の空間デザインの仕事を約50分の映像で見ることができる。またショップ奥ではヤマギワの照明《ToFU》や《Tear Drop》、ISSEY MIYAKEの腕時計などプロダクト系の作品も紹介されており、吉岡徳仁のこれまでの仕事を展望できる。東京都現代美術館で開催されている「うさぎスマッシュ展」と「吉岡徳仁展」。両展覧会の同時開催が意図されたものかどうかはわからないが、いずれも近代デザインの枠組みとは異なるアート・デザインの方法論を見せているという点で、とても興味深い組み合わせの企画である。[新川徳彦]

2013/11/19(火)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00023298.json s 10094062

2013年12月01日号の
artscapeレビュー