artscapeレビュー

2014年03月01日号のレビュー/プレビュー

Re: Planter exhibition「宇宙」

会期:2014/02/05~2014/02/18

DMO ARTS[大阪府]

エコ思想を背景に持つ21世紀型盆栽とでも言おうか、とにかくユニークな作品だった。Re: planterこと村瀬貴昭は京都在住の植栽家で、本展では球形のガラスケースの中に植物や苔を植えた作品を多数出品していた。ケースの屋根部分には光源となるLED照明が仕込まれており、植物は数週間に一度程度の水やりだけで成長する。不完全ではあるが、閉じた循環系をつくり上げているのだ。また、ケースを机上に置くためのスタンドや栽培道具一式など、全体のパッケージやデザインにも深いこだわりが感じられた。優れたデザイン性を伴うことで、本作は盆栽やガーデニングに馴染みがない人にも十分アピールするだろう。

2014/02/06(木)(小吹隆文)

PARASOPHIA 京都国際現代芸術祭2015[プレイベント作品展示] ウィリアム・ケントリッジ《時間の抵抗》

会期:2014/02/08~2014/03/16

元・立誠小学校 講堂[京都府]

来年に予定されている「PARASOPHIA 京都国際現代芸術祭2015」のプレイベントとして開催された本展。ケントリッジが2012年の「ドクメンタ13」(ドイツ・カッセル)のために制作した映像インスタレーションの大作《時間の抵抗》が本邦初公開された。本作は、科学史家ピーター・ギャリソンとの近代物理学史を巡る対話と、南アフリカのダンサー、ダダ・シマロとのワークショップの過程から生み出されたもの。5面のスクリーンに映し出される映像と多重音響、運動機械などからなり、映像を投影する壁面には古い倉庫のようなセットが組まれていた。実はかなり難解な作品だが、同時に豊かな詩情をたたえており、筆者は主に後者の観点から本作にアプローチした。純度を落とすことなく多様な知識レベルの人に対応できるケントリッジは、本当に懐が深い。なお「PARASOPHIA~」は今後も次々とプレイベントを開催する予定。来年の本番に向け、徐々に関心が高まることを願う。

2014/02/07(金)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00025020.json s 10096563

田村一行(大駱駝艦)『又』

会期:2014/01/31~2014/02/09

壺中天スタジオ[東京都]

しばしば大駱駝艦の壺中天公演は、舞踏の基礎を身に宿したダンサーたちが、既存の「舞踏らしい舞踏」とは別のところに舞踏を導こうとする場だ。今作もそうだった。挑戦的で挑発的でもあるプログラムは、舞踏かどうかと聞かれれば、「舞踏じゃない」と答えるべきかも知れない。ただしそれは、ややもすればダンスの死せる古典としてとらえられかねなくなった日本の前提的なダンス(=舞踏)を、あくまでも現在も生きて働くものとして現代の社会のなかに躍動させる実験として評価されるべきだろう。冒頭、ウエディングドレスを纏った田村一行がうつぶせでうずくまる。その周りに、ガラスの入った杉の戸が田村を囲む。真冬の突風の音。ベタなくらいに「東北」(舞踏の世界)がこうして舞台に置かれるのだが、しかし、あくまでもさらっとしていて、泥臭くない。舞踏のイメージに寄り添いながら、それに耽溺しない。当たり前と言えば当たり前だ。日本人と言えど、現代の私たちは、土方が参照した東北の生活のリアルな面を知らない。いや、土方が取り上げた時点でも、それは忘れられつつある情景だった。それは、モダンな芸術世界を生きる土方が、モダンな芸術を活性化させる試みとして巧みに参照したものに相違ない。杉の戸がカタカタと風に揺れるさまは、過去の日本の世界である以上に、とくに若い観客にとっては、未知の世界への入り口なのだ。田村以外の若いメンバーたちは、柔らかい動きを重ねていく。音楽のニュアンスがそう連想させるのかも知れないけれど、冒頭の北風の音が想像させた寒さよりも、彼らからは熱帯の雰囲気が漂う。彼らの見せ場が、両手で鎌を手にしダンサーの首を刎ねる場面だったことも、そうした印象を強化した。南方性の舞踏というのは、これまた矛盾と言える。ただし、具体的などこかの少数部族の文化を再現するなどと言ったものではなく、あくまでも、「鎌」の扱いが観客に与える「ショック」というものに、焦点が置かれている。戸のガラスに田村が自分の顔を映して、古いガラスの歪みで顔が歪むのを見せた場面でも同じことを思った。つまり、田村は、舞踏のなかのとくに「ショック」の効果を抽出して、世界に歪みを与え、世界の見え方を一瞬変えようとしたのではないか。その目的のためには、舞踏的なアティテュードは、目的に奉仕する部分以外は必要ない。そう考えているのではないか。舞踏とは、この社会においてどんな効果ある役割を担いうるのか、そのひとつのアイディアをこの作品は提出していた。この試みは、まだ実験的なものに見えたけれど、社会のなかに深く入り込んで行こうとする誠実な野心を感じた。

2014/02/09(日)(木村覚)

ハイレッド・センター──「直接行動」の軌跡

会期:2014/02/11~2014/03/23

松濤美術館[東京都]

ハイレッド・センターは、1963年に高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之らを中心として結成された前衛的芸術家グループ。名前の由来は高松、赤瀬川、中西ら3人の最初の一文字を英語に置き換えたもの。狭義にはその活動期間は1963年5月の「第五次ミキサー計画」から1964年10月の「首都圏清掃整理促進運動」までの1年5カ月であるが、展覧会では1962年8月の「敗戦記念晩餐会」から1967年8月の「表現の不自由展」までの約4年間を取り上げている。活動の中心は、山手線の駅ホームや車内で行なわれた「山手線のフェスティバル」(1962年10月)や、池坊会館屋上で行なわれた「ドロッピング・ショー」(1964年10月)のように美術館や画廊という空間に限定されず、また観客をもイベントの内部に取り込んでしまう「直接行動」。展覧会に出品された作品やイベントに使用されたオブジェが遺されているものの、彼らの活動はその場限りで消えてしまうものばかりである。幸いなことに「ハイレッド・センター」についてはかなりの資料が遺されている。それは「メンバー各自の個人的な性癖もさることながら、後にはじまる『千円札裁判』への証拠固めとして、その周辺よりいやおうなく要請されたところのモーメントに負うところが多い」★1。展覧会の案内状などのほか、イベントを撮影した写真等が大きなスクラップブックにまとめられ、赤瀬川原平の千円札裁判において開陳されたのである。また裁判の過程において、「公式部員」のひとりである中西夏之が被告赤瀬川原平の証人としてハイレッド・センターの活動の全貌について証言しており、それが裁判記録として残されている★2。この展覧会は、そうした多数の「証拠物件」によって彼らの活動の軌跡の検証を試みる。興味深いのは、この展覧会ではその検証が観客たる私たちに委ねられている点にある。物的な「証拠」の一部は当時の展示風景を再現するかたちで提示され、それらの間が関連物件や写真等の資料で関連づけられる(写真1,2)。展示解説パネルには、それぞれのイベントに関する「件名」「事実」「当事者」「出品者」「目撃者」「証拠」等が列挙されている(写真3)。個々の「証拠物件」に付されたキャプションの台紙は図書館で用いられる目録カードだ(写真4)。図録には同時代の「目撃者たちの証言」が収録されている。すなわち、当事者でもなく目撃者でもない現代の私たちは、提示された「事実」や「証拠」「証言」に基づいて、まるで裁判員のように自らハイレッド・センターの「直接行動の軌跡」を再構成し、彼らの行動を理解することを試み、現代美術における位置づけを判断するという仕掛けなのだ。[新川徳彦]

★1──赤瀬川源平『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984、234頁)。
★2──「《千円札裁判》における中西夏之証言録」(『美術手帖』347号、1971年10月、348号、1971年11月)に収録。



1──会場風景


2──会場風景


3──展示解説パネル


4──展示品キャプション
*写真はすべて美術館の許可を得て撮影

2014/02/10(月)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00024761.json s 10096697

捩子ぴじん『空気か屁』

会期:2014/02/11

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんがまず舞台に入る。ふわふわと踊りだす。真後ろに白いカーテンが揺れる。その揺れと捩子の動きが重なり響きあう。大駱駝艦に所属したこともあるその身体は、十分に見応えのある「曖昧さ」を見せ続ける。そのダンスの密度にあっけにとられていると、不意に踊りは止み、次に音楽家のカンノケントがあらわれる。背の高いカンノがじっと立つ。何もしない。舞台上の身体とは不思議だ。何もしなくても、いや、何もしないときに、見ないではいられない質がうまれることがある。なんとなく、そんな「質」に見とれているときに、不意に「ばあ!」とカンノはふざけたポーズを見せた。驚かされるが、そこに演劇的なあるいはダンス的な質はない。むしろ個々の観客たちと地続きの身体がそこにあるということに、観客は気づかされる。捩子とカンノはしゃがんで指で数を数えたり、床を軽く手で叩いたりした。次に、さっきまで寝ていたようなぼんやりした顔の男(篠原健)があらわれて、言葉みたいだけれど無意味な音を口にし続けた。最後に女(若林里枝)があらわれる。無意味語を発し続ける男の脇で、声を出して笑う。彼女はリラックスしていて、この場を相対化してゆく。出演者が全員舞台に登場したあとで、寸胴に溜まったヨーグルトらしき液体に一人一人顔を浸けた。白いカーテンとも呼応する、柔い白塗りが生まれた。おかしな化粧はテンションを微妙に上げた。4人は、さっき捩子とカンノとで行なっていたリズムの生成を始めた。ケチャのようでもあるが、静かで、あまり複雑にはならない。個々のリズムに没頭して、全体で音楽みたいなものになっていった。若林が篠原を被介護者に見立てて介護の動作をはじめた。これもまた日常と地続きの行為。それに音楽みたいなものが重なる。日常の光景から立ちあらわれるロー・テンションの祭り。そう、見ていてずっと感じていたのは、ここにある独特な祭り性だった。この独特さに似ているのは、最近の手塚夏子の上演だ。一般的な伝統の継承とは異なる仕方で、あくまでもコンセプチュアルに、純粋に方法的に、祭りをいまここに立ち上げること。手塚の最近の試みをそう称するならば、捩子はまさにそれを実践しようとしているのではないか。派手さはない「ロー・テンション」は、「空気」とみなしてしまうほどの「屁」なのかもしれないけれど、どうしたらいま・ここで祭りが立ち上がるのかという問いは、わかりやすい「派手」さから距離を取らずには、問うべき意義を見失うだろう。横浜ダンスコレクションの受賞者公演として上演された本作。ダンスのメインストリームからかけ離れているかに見えるこうした上演こそが、評価されるべきまったくユニークな試みであり、日本の未来のダンスにとっての道標であるかも知れない。ただし、その道標は、いままだ微かにしか、人には見えていない。

2014/02/11(火・祝)(木村覚)

2014年03月01日号の
artscapeレビュー