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2014年03月15日号のレビュー/プレビュー

あなたの肖像──工藤哲巳回顧展

会期:2013/02/04~2014/03/30

東京国立近代美術館[東京都]

大阪の国立国際美術館からの巡回。工藤哲巳というと、ペニスとか脳とか眼球とか作品のモチーフはいたずらにセンセーショナルだし、「インポ哲学」や「腹切り」などのハプニングもあざとさを感じてしまい、ちょっと腰が引けていた。でもこうして年代順に並べられた展示を見ると、50年代のアンフォルメルに触発された渦巻くような抽象絵画に始まり、その線描が立体化して糸やヒモがからみついたオブジェとなり、そのヒモの結び目からペニス状の突起がぶら下がり、やがて身体の部分模型を箱や椅子や鳥カゴなどに収めた作品に発展し、最後は再び糸が渦巻く作品に戻っていくという変遷をたどると、けっしてセンセーションを狙ったものではなく、必然的な展開だったことがわかる。また彼特有の鼻につく泥臭さも、パリを活動拠点に選んだ工藤にとって西洋モダニズムへのアンチテーゼとして必要な行為だったことが納得できるのだ。そして驚くべきは、ほとんどの作品が美術館所蔵か個人コレクションに入っていること。とりわけ大作やインスタレーションはポンピドゥー・センター、アムステルダム市立美術館、ウォーカー・アート・センターといった海外の主要美術館に収まっているのだ。近年の戦後日本の前衛美術の再評価の機運もあるが、ここまで高く評価されていたとは正直いって意外。

2014/02/03(月)(村田真)

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週刊ダイヤモンド(2014年2/22号)

『週刊ダイヤモンド』がマーケティングの特集を組むということで、ヤンキーに関して取材を受ける。以前、某誌でヤンキー研究者と書かれたのだが、実際は筆者から一言もそう自称せず、『ヤンキー文化論序説』の編著をしただけで、専門ではないが、それでもよいかと、いつも事前に確認している。そのうえで、この本を刊行した2009年と現在の違いを改めて考えた。この本を出したときは「文化」論がメインだった。が、その後、斉藤環が『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、2012)において、橋下現象をヤンキーと結びつけたように、政治上でも前面化している。橋下自体の勢いはかつてより衰えたが、橋下的なるものはむしろ広がっているのではないか。根性と精神で乗り切れる、売られたケンカはやり返せ、キリッ! 内向きには、それで政治家の人気は上がるだろう。しかし、権力者が、国際政治も、気合いのヤンキー・スピリットでのりきれると思われては困る。どこの国にも内向きのヤンキー精神はあるだろうし、それはそれで一定の意味はあると思うが、外交の場において、むきだしにするものではない。そうした意味で、ヤンキー論は「政治」の問題にも、リアルに射程が及ぶようになった。

2014/02/03(月)(五十嵐太郎)

クリスチャン・ボヌフォワ展

会期:2013/12/13~2014/02/28

メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

メゾン・エルメスのクリスチャン・ボヌフォワ展を見る。マティスの作品との出会いを契機に、美術史の研究からアーティストに転身した作家だ。彼は、フランスの現代美術運動シュルファスに影響を受けつつ、キャンパスの枠組を解体し、コラージュと透明性の操作を行う立体絵画を追求する。仮設壁がジグザグしながら、そこに開口部を設ける会場構成を中山英之が担当しているが、作品との相性が抜群によい。

2014/02/03(月)(五十嵐太郎)

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TORAFU ARCHITECTS「ここをホッチキスでとめてください。」

会期:2014/01/17~2014/02/13

クリエイションギャラリーG8[東京都]

クリエイション・ギャラリーG8のトラフ展「ここをホッチキスでとめてください。」を見る。これまでのプロダクト、舞台美術、建築などの活動を多面的に紹介したものだ。小さな空間ながら、そこをさまよい、注意書きに従い、鑑賞者も能動的に参加しつつ、作品を1/1で体験するような遊びに満ちた仕掛けが満載である。奥のトイレにも作品が隠されている。展覧会のデザインにも、トラフの持ち味が充分に発揮されている。

2014/02/03(月)(五十嵐太郎)

永遠の0

映画『永遠の0』を見る。山崎貴の過去作『ALWAYS』などと同様、特撮/CGは見応えがあり、日本映画としてかなり頑張った作品だと思う(もっとすぐれた原作がつけば、本当に傑作がつくれるのでは)。が、物語の内容は、『ALWAYS』と同様、のれない。なるほど、内容は必ずしも好戦的ではないが、自己犠牲の美化ではある。そして、なぜ若者が絶望的な特攻を強要されたのかという当時の背景や社会が説明されないために、結局、不治の病にかかった現代の純愛物語(これも社会を描かない)のようだ。すなわち、死を避けられない特攻は、不治の病と同様、ロマンティックに涙を流させる装置であり、大ヒットするのもうなずける。もうひとつ気になったのは、歴史への態度である。戦時下を描いた最近の最高峰の歴史/小説であるローラン・ビネの『HHhH』と、エンタメの『永遠の0』を比較するのは申しわけないが、やはり歴史を遊んでいると思うのだ。つまり、現代の視点から都合のいいありそうな登場人物をつくり、作家が自分の意見を彼らに語らせ、過去を理想化するフィクションである。一方、『HHhH』は、プラハに送り込まれた二人の青年によるナチスの「野獣」ハイドリッヒの暗殺事件を描いたものだが、著者が歴史と葛藤しながら、著者の都合のいい想像を入れることを、いかに避けながら執筆するかを苦しみながら書いたものだ。歴史を扱うことに関して、頭が下がるような労作である。

2014/02/03(月)(五十嵐太郎)

2014年03月15日号の
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