artscapeレビュー

2014年08月01日号のレビュー/プレビュー

ART with CHISO YUZEN: Create a New Sense

会期:2014/06/13~2014/09/30

千總ギャラリー[京都府]

友禅はグラフィカルである。そのことを確信した展覧会だった。2005年、京友禅の老舗、株式会社千總は創業450年を記念して現代アーティストやファッション・デザイナーとのコラボレーションを企画した。本展は、世界7カ国から30名余りのアーティストを迎え四つのプロジェクトのもとで行なわれたその企画を、10年後のいま、あらためて振り返る展覧会である。会場は、軸装、額装された数々のテキスタイルと、きもの、サーフボードで構成されている。
参加アーティストはじつに多彩。ルイ・ヴィトンとのコラボレーションで知られる村上隆、ヒステリック・グラマーのデザイナーの北村信彦、海外のファッション誌にも数多く起用されてきたイラストレーターのEd TSUWAKI(エドツワキ)、A BATHING APE®の創設者のNIGO®(ニゴー)など、ファッションの世界で「時の人」として注目されてきた人ばかりである。北野武監督作品『Dolls』(2002)の衣裳でも千總と製作協力していた、ファッション・デザイナーの山本耀司はすでに別格であろう。さらに、FUTURA2000(フューチュラ2000)やSHAG (シャグ)、KAWS(カウス)など、海外で活躍するイラストレーターやグラフィティ・アーティストたちが加わる。その多くは、サブウェイ・グラフィティやストリート・グラフィティ、インディーズレコード・レーベルのディレクションなど、いわゆるサブカルチャーの出身である。ファッションブランドやスポーツブランドとのコラボレーションといった社会的認知度の高さを示す経歴の持ち主ばかりとはいえ、京友禅とは対極的な存在といえよう。人選だけ見ても、この企画にかけた千總の意気込みが感じられる。友禅の視覚表現としての可能性はきものという媒体にとどまるものではないという主張がはっきりと伝わってくる。10年後の総括を経て、千總の今後の展開に期待したい。[平光睦子]

2014/07/15(火)(SYNK)

現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより

会期:2014/06/20~2014/08/24

東京国立近代美術館[東京都]

台湾のヤゲオ財団が保有する現代美術のコレクションから選ばれた、フランシス・ベーコン、ザオ・ウーキー、アンディ・ウォーホル、ゲルハルト・リヒター、杉本博司、蔡國強、ロン・ミュエク、ピーター・ドイグ、マーク・クインらの作品74点による展覧会。1999年にヤゲオ財団を創設したピエール・チェン(Pierre T.M. Chen、陳泰銘)氏は、チップ抵抗やコンデンサを製造する台湾の受動部品メーカー、ヤゲオ・コーポレーションの創業者であり会長である(ちなみに社名の中国語表記「國巨」は「抵抗器」の意)。『ARTnews』誌で2012年、2013年と世界のトップアートコレクター10人のひとりに挙げられているチェン氏は、大学生のころにコンピュータのプログラミングで稼いだお金で作品を買い始めたという生粋のアートファン。本格的な蒐集を始めてから25年のうちに世界でも有数のコレクターになった。蒐集の対象は最初は台湾、中国出身のアーティストの作品から始まり、近年は西欧の作品へと拡大しているという。チェン氏にとって作品の購入は投資ではなく、アートともに暮らす生活を実践している。展覧会会場や図録では作品が飾られたチェン氏の自宅、ゲストハウス、オフィスの写真を見ることができる(バスルームにまで作品がある!)。具象的なモチーフの作品が多いコレクションは、美術評論家やギャラリストのアドバイスに依らず、自分自身で判断して購入しているという。それぞれのアーティストの代表作といえるすばらしい作品が集まっているが、美術史的な意味で系統立った蒐集品ではない。そのような個人コレクションを美術館の展覧会でどのように見せるのか。
 もちろんコレクション展自体は珍しいものではない。国別、作家別、時代別、様式別、モチーフ別……。切り口はさまざまに考えられよう。本展でも「ミューズ」「崇高」「記憶」「新しい美」といった10のキーワードを切り口として74点の作品を分けて展示している。しかし、それだけではなく、もうひとつの切り口が設定されている。それはこの20年ほどのあいだに大きく変化してきたアート・マーケットの問題である。かつて絵画はおもにギャラリーと個々のコレクターとのあいだで行なわれるクローズドな環境で取引されてきた。しかし、近年取引の場として重要になってきたのがオークションである。しばしば高額な落札額がニュースにもなるように、美術品の価格形成のありかたや、コレクターのタイプが変化しているのである。とくに中国の新興アート・マーケットではその傾向が顕著である。チェン氏が投機的な目的で美術品を購入しているわけではないとはいえ、この25年ほどのあいだに蒐集されたコレクションが、変化しつつある市場環境のもとで形成されたことは間違いない。そして市場の変化によってもたらされた問題のひとつが、作品の落札価格と美術上の価値の乖離である。一般的に市場に流通する作品が稀少であればオークションでの価格は上昇する。それは美術上の価値とは別の話である。しかしいったん価格が示されると、それ自体が作品の評価の基準になりかねないという現実がある。美術館の展示に値札は付いていないので普段来館者が作品の価格を意識することは少ないかも知れないが、現代アートの価格と価値の差、市場の変化が価値のあり方に影響を与えていることを、コレクションの実例を通じて示しているのである(展示パネルでは上に美術上の解説、下に経済的価値についての解説が書かれているほか、50億円の予算でアートを集めるというゲームが用意されている)。
 展示ではさらにもうひとつの問題提起がなされている。それは美術館とコレクターとの関係である。元来美術館は作品の価値をつくる場でもある。それは歴史的な位置づけを与えるというばかりではなく、美術館で個展が開かれる、あるいは美術館に購入されるという事実が作品の価格形成に大きな影響を与えてきた。しかし、いまや価格形成の主導権を握るのは市場である。高騰する価格と迅速な判断が求められる場で、莫大な資金を持ったコレクターに対抗して公的な美術館がそこに参加することはとても難しい。ならば美術館にはなにができるのか。本展の企画者である保坂健二朗・東京国立近代美術館主任研究員はいくつかの可能性を示している。ひとつは美術館とコレクターの役割の分担である。公的な美術館が蒐集できる作品と個人が求める作品には違いがある。あるいは政治的、倫理的に公的美術館では購入が難しいものがあるが、コレクターは自身の好みに従って作品を選ぶことができる。しかし美術館とコレクターが協力し合えば、企画展というかたちで互いのコレクションを補完し合うことができる。価値を作り出す場としても美術館はいまだに重要である。美術館は新しいアーティストの発表の場であり続けるし、作品を異なる作品と組み合わせたり、新しい文脈を示すことで、新たな価値をつくり出すことができる。人々に開かれた美術館は日常とアートとを結びつけることで、新たな愛好者を育てる場でもある。新たな愛好者の一部はやがてアーティストになり、あるいはコレクターになり、次の世代のアートワールドのプレーヤーになるうる。そのような課題の存在を踏まえると、この展覧会自体、現代のアートワールドが抱えている問題の提示と、コレクターと美術館との新しい関係を考えるひとつの 試みであることがわかる。
 本展の広告クリエイティブは山形孝将氏と川和田将宏氏が担当。ポスターやチラシに用いられた金色に輝くマーク・クイン《ミニチュアのヴィーナス》(2008)のヴィジュアルと周囲のキラキラが強烈な印象を与える。美術館前庭には同じくクインの《神話〈スフィンクス〉》(2006)が配置され、ヨガのポーズをとるケイト・モスは本展のシンボルだ。これに対して林琢真氏によるデザインの図録は非常に落ち着いたイメージ。パール印刷されたカバーにはチェン氏のモダンなオフィスの写真。中は布張りのハードカバーで高級感がある。チェン氏のコレクション全体のイメージは図録の雰囲気に近いのだが、保坂主任研究員のキュレーションは広報デザインのほう。ふたつのデザインは意識して分けたという。すなわちこのデザインの二重性にもコレクターと美術館の関係が示されているといえるかもしれない。[新川徳彦]


図録表紙

2014/07/15(火)(SYNK)

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石井陽平 個展「最高に生きる」+ひろせなおき個展「GYARU儀葬儀式展」

石井陽平 個展:2014/7/11~17、ナオナカムラ(素人の乱12号店)/ひろせなおき個展:2014/7/11~20、ナオナカムラ(音二番)[東京都]

ナオナカムラは、主に高円寺の「素人の乱12号店」を一時的に借り上げながら、なおかつ都内のギャラリーを転々としながら、各地で展覧会を断続的に開催している、新しいタイプのギャラリーである。テンポラリーに徹することで場所を維持するための経費を最低限に抑えるという点で、ギャラリストを志望する学生はひとつのモデルとして積極的に見習うべきだろう。だが、ナオナカムラの本質的な魅力は、有望で力のある若いアーティストを次から次へと輩出している点である。なかでも傑出しているのが、石井陽平とひろせなおき。この4月に行なわれた佐藤翔との三人展「ゲームボーイ」(HIGURE 17-15 cas)から間髪を入れず、はやくも新作展が催された。
石井陽平が発表したのは、みずからの祖母をモチーフとした映像インスタレーション。高齢のため認知症が進行し、身体の自由もままならない祖母を生まれ故郷に連れ帰る旅の行程を映像に収めた。そこから感じられるのは、おそらく人生最後の里帰りとなるであろう濃密な時間。「はじまり」に立ち返りながらも、「おわり」へと向かっていく。いや、「おわり」を迎えるために「はじまり」に立ち戻る。石井が映像化したのは、きわめて個人的な事例ではあるが、そこには人生の先で誰もが行き当たる普遍的な問題が映し出されていたのである。
興味深いのは、その普遍的な問題の導き出し方である。会場の中央に設置したベッドの上にモニターを置き、そこで石井が手を添えながら祖母に習字を書かせる映像を見せる作品がある。一見すると書が得意だった祖母の身体の不自由さを、石井が介助することで補っているように見える。つまり大半は石井が書いているように見える。だが、完成した書の「最高に生きる」というたどたどしい文字を見ると、じつはそのようなメッセージを石井に着想させたのは、ほかならぬこの祖母だったのではないかと思えてならない。石井が祖母に「最高に生きる」姿を見たのではなく、祖母が石井に「最高に生きる」よう仕向けたのではなかったか。普遍的な問題は、おうおうにして主体と客体が反転するような関係から獲得されるのだ。
一方、ひろせなおきは渋谷のギャルたちの葬式を彼女たちとともに同地で敢行した一連のプロジェクトを映像インスタレーションによって発表した。ふだんから渋谷のネットカフェで暮らすひろせにとって、90年代以後かたちを変えながら生きながらえてきた、そしていまも生きている渋谷のギャルは、決して無視することはできない主題であり、近しい同類だった。ひろせは彼女たちとの持続的な関係性を築くことから始め、粘り強く交渉を重ねながら生前葬とも言うべきパフォーマンスの内容を共同で決定していく。当日は、彼女たちとともに制作した棺桶をみんなで担ぎながら渋谷の街中をハチ公前まで練り歩いた。ひろせ本人が話す映像には映っていない体験談や裏話があまりにも面白いので、映像だけ見るとプロジェクトの本質が伝わりにくいという難点が否めないが、それにしても渋谷のギャルをここまで正当に作品化した例はほかにない。画期的な作品である。
ひろせの真骨頂は、明らかにリアルタイムの主題であるにもかかわらず、現代アートの主題としてはまったく取り上げられていない問題をいちはやく作品化する、その手並みの鮮やかさである。「フィールドワーク」や「リサーチ」という言葉では到底収まらないほど深く、長く対象に没入する並々ならぬ持久力もすばらしい。昨年後半のデビューから1年も経たないうちに、これほどの高い水準に到達した、自分で自分を教育する力もずば抜けている。
美術大学の学生はひろせや石井のようなアーティストを模範とすべきであり、美術大学の教員はひろせや石井のようなアーティストをひとりとして育てられないカリキュラムと指導法を根本から猛省しなければならない。そして、美術館の学芸員も、現代アートのキュレーターを自称するのであれば、コマーシャルギャラリーばかりに顔を売るのではなく、ナオナカムラのようにほんとうに新しいアートが生まれる現場を自分の眼で目撃しなければならない。

2014/07/16(水)(福住廉)

神村恵「訪問者vol. 7」

会期:2014/07/16

SNAC[東京都]

SNACで連続公演していたこの「訪問者」シリーズを、ぼくは今回初めて見た。前回は田畑真希が担当したというのだが、今回は、畦地亜耶加が招かれ、神村恵の与える「指示書」に従ってパフォーマンスを遂行した。「指示書」は観客にも配られる。その最初には「X(エックス)は、身体の中にある何かである」と記されている。この「X」をダンサーが自由に設定しその後の指示を遂行する。指示は五つに分かれていて、たとえば「1」にはまず「Xを身体から掘り起こす」とあり、具体的には「3種類の動きによって身体を物質的に確かめる(持ち上げて落とす/引っ張って伸ばす/縮める)/これらの動きにはそれぞれ方向を持たせ、空間のどこかの点に差し向ける/動きはその都度Xに響かせるようにし、そのありかや感触を確かめる/Xに仮の名前を付け、その名前を呼ぶ」と書かれている。畦地はこれを舞台に置いて時折読んで確認しながら指示を実行していった。ぼくが見たときには「ゼリー」と畦地はXの名前を声に出して呼んだが、その行為も含めて、すべてを畦地は即興で行なったという(アフタートークでの畦地の発言に基づく)。数日前に見た篠田『機劇』でも、スコアが配られ、観客の目は舞台とスコアを行ったり来たりしていたのだけれど、その点で本作は『機劇』ととてもよく似ていた。たんに「神村が振り付けし、ダンサー畦地が踊る」というベタな公演ではなく、「神村の指示に畦地がどう応答したか」といったメタ・レヴェルを観賞する公演なのだ。だから、畦地の動作の審美性は観客にとって見所の一部でしかなく、むしろなぜそこで畦地はそう動いたのかと問うことこそ観客の楽しみとなる。「指示とはなにか」あるいは「指示されるとはどういう事態か」そうした問いも観客のうちに生まれるだろう。観客は、頭に浮かぶそうした数々の問いを、畦地の身体の状態を通して惹起させられる。その意味で、最大の謎は身体そのものだ。指示書は言語で書かれるが、それが実現される場(身体)のうえに言語ははっきりと現われない。このもどかしく、判読し難い身体とどうつき合っていくか。アフタートークで、複数の観客が「これは(観客に)見せるものになっているのか」と神村に質問をしていたことは示唆的だった。こうした上演を観客が楽しむ際の方法的錬磨はさらに求められるだろう。ただし、これはたんに習慣の問題でもあろう。こうした上演が当たり前になるならば、ダンスをメタ・レヴェルで観察し、楽しむ習慣が浸透するのも、案外そう遠くないのかもしれない。

2014/07/16(水)(木村覚)

こども展 名画にみるこどもと画家の絆

会期:2014/07/19~2014/10/13

大阪市立美術館[大阪府]

パリのオランジュリー美術館で2009年から10年にかけて開催され、約20万人を動員した企画展をもとに、日本向けに作品を選定し直し再構成した展覧会。19世紀初頭から20世紀の画家47名による、自分や知人の子どもたちを描いた作品86点で構成されている。その多くは個人コレクションで、約2/3の作品が日本初公開だ。作品を見て気付いたのは、時代を経るごとに子どもの描き方が自由になっていくこと。昔の作品ほどモデルは大人のようなポーズでたたずんでいる。これは子どもへの眼差しの変化を表わしているのだろう。また、ひとりの子どもを複数の画家が描く、幼少時と成長後の作品が並置されるなど、子どもを巡る人間関係が垣間見えるのも興味深かった。そして何よりも痛感したのは、親が子に注ぐ愛情は、時代や洋の東西を問わず普遍的だということ。会場全体が親子愛に包まれているようで、心地よい幸福感に浸れる展覧会であった。

2014/07/18(金)(小吹隆文)

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2014年08月01日号の
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