artscapeレビュー

2014年08月01日号のレビュー/プレビュー

大友良英、contact Gonzo「Tokyo Experimental Performance Archive」

会期:2014/07/18

スーパー・デラックス[東京都]

日本パフォーマンス/アート研究所(小沢康夫)が企画する新イベントの第一弾。これはインターネット上にアーカイヴすることを前提として行なわれる上演であり、現在存在する、価値あるパフォーマンス表現を未来へとつなぐための試みであるという。今後は、8/30に室伏鴻と伊東篤宏、9/23に山崎広太と恩田晃のパフォーマンスが予定されており、9/15にはアーカイヴをめぐるカンファレンスも予定されている。さて、今回は音楽家の大友良英、ダンスのcontact Gonzoの上演が行なわれた。両者のパフォーマンスは、当然のごとく素晴らしく、とくに大友の二台のターンテーブルを駆使した演奏は「音を出す」というシンプルな出来事に「人間のあらゆる営み」が表われているように感じられた。たんに審美的な価値ではなく、倫理的な問題や自然との共生への問いが、生半可な通念がはぎ取られた状態で、問いかけられている、そんな気持ちにさせられた。レコードの代わりにシンバルがターンテーブルに乗っている、そんなシンプルな入れ替えがされただけなのにどうして上記したような気持ちが喚起させられるのか、不思議だ。それゆえ、パフォーマーの力量を感じる演奏だった。contact Gonzoは三人のダンサーがこれでもかと互いの体を素手でぶん殴り続けた。その凄まじい音とうめき声が、撮影という特殊な機会に促されてのことなのか、いままで見たなかでもっとも凄惨だった。この凄惨さは、映像に残るのだろうか。そもそもどうすればそうした生々しさが残るのかという課題も含めて、この企画のトライアルは、映像の可能性をめぐっても議論を引き起こすことだろう。約8台ものビデオカメラがパフォーマーを囲んでいた。カメラはなにを映したのか。のちに生み出されるアーカイヴ化された映像を見なければ、この企画を十全に観賞したことにはなるまい。なるほど「一生懸命に練習して、踊れるようになった振り付けを披露する」というだけでは、上演としては不十分なのだ。そういう状況へと突入していることを、この企画は示唆しているのだろう。「上演することに意義がある」という発想では足りないのだ。上演をどう記録・保存し今後の環境につなげていくか、そこまでも含めて上演である、そう考える時代になりつつある、そう予感させられた。

2014/07/18(金)(木村覚)

INLAY 坂本素行展

会期:2014/07/13~2014/07/19

瑞玉ギャラリー[東京都]

ストライプ模様の花瓶や壺、幾何学模様で埋め尽くされたポットやカップ&ソーサー。坂本素行氏の作品を知ったのはLIXILギャラリー★1であったが、最初に作品を見たときは上絵かプリントなのかと思った。しかし絵付にしては非常にシャープなライン。これがすべて象嵌だと知って驚くと同時に納得した。象嵌技法自体は漆工や金工でよく見られるし、陶磁器においても絵付の一技法としてある。しかし器の表面すべてを異なる色土で象嵌する作品は稀ではないか。坂本氏はこれを部分的な絵付として用いられる通常の象嵌と区別して「INLAY」と呼ぶことにしたという。轆轤で挽いたボディに文様を罫描きして、輪郭にナイフを入れ、薄く表面を削って色土で埋める。絵付では不可能なシャープなラインはこうして生まれる。1色を埋めたらまた別の場所を削り、異なる色土で埋める。この繰り返しによって表面はすべて最初に轆轤で挽いた土と別の色土による文様で覆われる。時間がかかる工程なので、途中で土が乾いてしまわないように、霧吹きで水を吹いたり、部分的にラップで覆いつつ作業するという。
 坂本素行氏の経歴が興味深い。元々は日産のカーデザイナー。ある展覧会で象嵌青磁に出会って関心を持ち、独学で陶芸を始め、1980年、30歳のときに陶芸家として独立。その後、灰釉陶器などの技法を研究し、近年になってふたたび象嵌に回帰したという。今回出品されている作品は器のかたちも色彩も西洋的である。それは見た目だけではない。ゲージをあてて罫描きし、ナイフで削って土を埋めてゆくという工程もまた西洋的であり、土や手の痕跡を良しとする日本の陶芸とは異なる美意識の作品だ。デザイナー出身であること、陶芸を独学したことが、独自のスタイルの背景にあると思われる。[新川徳彦]

★1──「坂本素行 展──造り込んだもの」(LIXILギャラリー、2014年4月24日~6月7日)


展示風景

2014/07/18(金)(SYNK)

靖国・地霊・天皇

会期:2014/07/19

ポレポレ東中野[東京都]

美術家の大浦信行による新作映画。美術評論家の針生一郎や韓国の詩人、金芝河、思想家の鶴見俊輔らを手がかりに、日本近代や天皇制の問題について映画をとおして思索を重ねてきた大浦が、ついに靖国神社について映画を撮った。246万の戦没者を「英霊」として祀る靖国神社の問題は根深い。先の戦争にかかわる歴史認識やA級戦犯の合祀、あるいは政教分離や首相参拝などをめぐって、いまも議論は紛糾している。この映画では、靖国についての持論を開陳する右派と左派を代表する2人の弁護士が、左右の対立によって分割されている問題圏としての靖国を象徴的に体現している。それぞれの言い分には、それぞれの論理と正義、そして情緒が見受けられるため、妥結点を見出すことは容易ではないことがわかる。
ただ、この映画の醍醐味は、そうした政治的イデオロギーの対立を再確認させることではない。むしろ、映画の全編にわたって一貫して描写されているのは、左右対立の図式の下に広がる「血の海」である。決して望まない死に方を強いられた日本兵や、靖国での再会を母に誓いながら死んでいった従軍看護婦たちが残した言葉の数々。彼らの生々しくも痛切な声は、「犬死」や「英霊」といった事後的な「死」の意味づけを突き抜け、私たちの心の奥深くに突き刺さる。それゆえ、靖国神社の祭りや二重橋、繁華街を映した赤みを帯びた映像は、血涙を絞った彼らが死してなお現在の都市を彷徨しているように見えてならない。靖国神社の基底にある「血の海」は、現在の都市風景にまで溢れ出ているのだ。
むろん、「血の海」が直接的に目に見えるわけではない。だが、この映画の詩情性は、あたかもそれが目に見えるように錯覚させる。おびただしい「血の海」に木霊する、激しい憎しみや怒り、そして言いようのない哀しみ。映画の随所で幾度も感じられるのは、それらを発する地霊の気配である。劇団態変を主宰する金滿里の踊りは、大地と密着しながら身体を搖動することによって、地霊たちに呼びかけ、身体に彼らを宿らせているように見えた。地霊が見えるわけではない。だが、気配を感じ取ることはできるのだ。
芸術がある種の感性の技術として育まれてきたとすれば、それは死者たちの沈黙の声に耳を傾け、彼らの気配を察知する経験として位置づけ直すこともできよう。戦争がしたくてたまらない為政者に反逆するには、何よりもこのただならぬ気配を感知する技術を研ぎ澄まさなければならない。芸術の意味は、ここにはっきりある。

2014/07/19(土)(福住廉)

プレビュー:開館10周年特別企画展 快走老人録 II─老ヒテマスマス過激ニナル─

会期:2014/08/09~2014/11/24

ボーダレス・アートミュージアムNO-MA[滋賀県]

芸術と老いをテーマにしたユニークな企画展。2006年に第1回展が開催され、大好評を博した。8年ぶり2回目の今回は、美術家の折元立身(画像)、花人の中川幸夫と、自らの欲求にしたがって制作を続けてきた白井貞夫、西之原清香、福田増男、小西節雄が参加する。前回は痛快の一言で、副題の「老ヒテマスマス過激ニナル」を地で行く出来栄えだった。この第2回展が更なるパワーアップを果たすとともに、目前に迫ってきた超高齢化社会に対して示唆的な機会となることを期待する。

2014/07/20(日)(小吹隆文)

プレビュー:サイネンショー

会期:2014/08/26~2014/09/06

MATSUO MEGUMI + VOICE GALLERY pfs/w[京都府]

「サイネンショー」とは、家庭で使われなくなった不要陶器を回収し、再び窯に入れて再焼成したものを、作品として提示する活動のこと。作品の仕上がりは千差万別で、なかには実用品として再使用できそうなものもあるが、大半は絵付けや形態の変貌によりオブジェ化している。陶芸家の松井利夫を中心としたメンバーたちの狙いは、陶磁器が大量生産され死蔵品が溢れ返る現状への危機感、そして中古陶磁器の再生法の模索、さらには売上金から経費を差し引いた利益を東北の芸術活動支援に回すことである。筆者は昨年の展覧会で初めて彼らの活動に接したが(画像は昨年の展示風景)、その作品は上記の理由を抜きにしても面白く、造形活動の新たな地平を切り開けるのではないかと感じた。今年の作品が更なる飛躍を見せてくれるよう期待している。

2014/07/20(日)(小吹隆文)

2014年08月01日号の
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