artscapeレビュー

2015年01月15日号のレビュー/プレビュー

大江慶之 個展「Yアトリエ」

会期:2014/11/21~2014/12/20

TEZUKAYAMA GALLERY[大阪府]

体操服姿のナイーブな少年をモチーフにした立体作品(作家自身を投影?)で知られる大江慶之が、3年ぶりの個展を開催。頭部が鶏や花束の髑髏になった少年(画像)、アゲハチョウの羽根を広げて新聞を読む仕草をする少年、アカエイを持つ少年など、さまざまなポーズの立体作品が展示された。彼の作品は、顔や手足など身体部分の造作が極めて緻密であり、そこに布地製の体操服や運動靴のリアリティが加わることにより、彫刻と人形の要素を兼ね備えた独自の世界をつくり出している。アゲハチョウやアカエイなどの仕上がりも見事で、細部まで一切隙がない。また本展では、彼の作業場の一部を画廊に持ち込み、制作の現場を見せる演出も行なわれた。この演出は評価が分かれるところだが、どこか超然とした作品に人間臭い一面を付与する効果はあったのではないか。

2014/11/28(金)(小吹隆文)

砂連尾理(振付・構成)『とつとつダンスpart. 2──愛のレッスン』

会期:2014/11/28~2014/11/30

アサヒ・アートスクエア[東京都]

この上演は、京都府舞鶴市の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」で進められてきた「シリーズとつとつ」の延長線上で行なわれた。振付家・ダンサーの砂連尾理、看護師・臨床哲学者の西川勝、文化人類学研究者の豊平豪による活動(ワークショップや勉強会など)は、四年半に及んだという。さて、本作で注目すべきは、岡田邦子という電動車椅子のダンサーが砂連尾理とデュオを踊るというその趣向。いま岡田のことを「ダンサー」と書いたが、今回砂連尾に誘われたから舞台にいるだけで、もともと岡田はダンサーではない(ゆえに私も岡田に「さん」をつけないで文を進めることに、若干の躊躇を感じつつ書いている)。この上演を意義深くまた悩ましいものにしているのが、この微妙な関係である。コンテンポラリー・ダンスの上演の舞台に踊り手として一人の素人を、しかも障害をもっていることを理由に老女を招くこと。これが、老女を無条件に讃えるつもりで呼ぶのであれば、観客は安心する。そうした態度のひとつの極端はテレビ番組『24時間テレビ 愛は地球を救う』のなかでしばしばかいま見られる類いの「ドラマ」かもしれない。そこでは障害者は尊重されているようで、しばしば「可哀想」で「人柄が良く」「努力している」など〈ステレオタイプの障害者像〉を体現する人形として招かれる。砂連尾の岡田への態度は、そうしたステレオタイプとは縁遠い。とはいえ、リアルな「岡田邦子」を引き出そうというのでもない。砂連尾はあるイメージを取り上げ、そのイメージに岡田を置く。そのイメージが喚起するテーマは「愛」。ほぼ冒頭のあたりで映された映像には驚かされた。舞鶴なのかどこかの街を俯瞰した光景。そこに砂連尾と車椅子の岡田が浮かぶ。ファンタジックなイメージには、さらに二人の手と手が雲間から伸び結びあうクロースアップまで付け加えられる。この甘いファンタジックな光景は、正直、観客の度肝を抜いたに違いない。さらに、愛がテーマの音楽とともに、二人が踊るなんて場面や、終幕近くには「十牛図」をモチーフにして、二人が牛になって踊る、しかも背景に爆音のノイズが鳴っているという場面もあり、さらに観客は不安にさせられた。岡田が若い健常者でさらに訓練されたダンサーであれば、観客はどんな不安も生じまい。そうか、と思う。岡田の脆弱さは、舞台というものがそもそももっている暴力性をあらわにしてしまったわけだ。砂連尾の導きにぼくらが不安にさせられるのは、岡田と共存しているのが、ファンタジックなイメージであり、爆音の音響であるということ、すなわち、舞台空間にうごめく暴力的性格であることゆえなのだった。ところで、砂連尾は知的な作家だが、だからといって舞台の暴力性を露出させて「反舞台」あるいは「反上演」なるものを訴えたいわけではないはずだ。ぼくが推測するに、むしろこの暴力性を踏まえまた抱えた状態で、砂連尾は岡田とダンスを踊る可能性を求めていたのではないか。電動車椅子でカーヴを描く岡田に、砂連尾が手回しの車椅子で追従する場面があった。それはじつに美しいデュオの瞬間だった。でも、二人の身体性の違いが目につき「岡田は結局、踊っているというよりも踊らされているのでは」との疑念も浮かんでくる。その最中、小さなリモコン操作の車椅子が二人に割り込んできた。救いの神だった。救いの神は、二人の実像をキャンセルし、二人を再びイメージのなかへと誘った。砂連尾の試みは、こうして「異なる」二人の関係を「リアル」を基に引き裂くのではなく、「異なり」をときにキャンセルすることで二人のあいだに物語を成立させることだった。ぼくはそう受け取った。それは現実を見ない身振りではないだろう。でも現実を見ること以上に大切なものがあるのではないか、たとえばそれは二人のあいだに物語を置くことではないか、そう砂連尾は舞台を通して語っている気がした。そうであるならば、砂連尾の挑戦にぼくはほとんど賛成だ。ただそのうえで、どんな物語を語るのかの選択権が岡田にもあってもよかったのかもしれない(今回どこまで創作に岡田が関わったのかの詳細を筆者は知らないのだけれど)。その選択で砂連尾が岡田の論理に巻き込まれるという力関係が露呈するなんてことになったら、舞台という暴力装置にひとつの風穴が空く気がするから。


とつとつダンス part2-愛のレッスン/巡回公演予告

2014/11/30(日)(木村覚)

高松次郎ミステリーズ

会期:2014/12/02~2014/11/22

東京国立近代美術館[東京都]

高松次郎がイジられてる。タイトルからして高松らしくないし。導入はだれでもわかる「影」シリーズから。子どもの影を二重に描いた《No.273(影)》や、立てかけた板の裏から光を当てた《光と影》などの後に、観客が自分の影で遊んだり写真を撮ったりできる「影ラボ」が続く。まだ序盤なのに、ここまで遊ぶか。仮設壁を取っ払った大きな展示室には、60年代の「点」「遠近法」シリーズ、70年代の「単体」「複合体」シリーズ、そして98年の死まで続く絵画が一堂に並べられ、中央に設えた高松のアトリエと同じサイズ(意外と小さい)の物見台からすべてを見渡せる仕掛け。なるほど、こうして見ると、あれこれ手を替え品を替えやってきた仕事が「点」ではなく「線」で結ばれることが了解できるのだ。高松次郎の「ミステリーズ」を解きほぐす試みと見ることもできる。さすが、イジリがいのあるアーティストだ。ただ残念なのは、作品が60-70年代に偏りすぎて、80-90年代を費やした絵画がきわめて手薄なこと。もちろん現代美術への貢献度からすればこれで「正解」かもしれないが、しかしそんなに高松の絵画はイジリがいがないのか。

2014/12/01(月)(村田真)

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「逆転移」リギョン展

会期:2014/10/31~2015/01/07

銀座メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

光をテーマとした大がかりな空間のインスタレーションであり、何度も訪れて見慣れたレンゾ・ピアノの建築を劇的に変容させる。ガラスブロックを通じて入る太陽光がキラキラ反射する作品は、昼に見たほうが良いかもしれない。もう一方は、白い面が強い電光で照らされるために、部屋に入ると、一瞬空間の輪郭がわからなくなる。ただし、一部、面にひびが見えなければ、完璧だった。

2014/12/03(水)(五十嵐太郎)

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「ジャン・フォートリエ」展

会期:2014/09/27~2014/12/07

国立国際美術館[大阪府]

戦後のヨーロッパで興った前衛芸術運動「アンフォルメル」の作家として知られるジャン・フォートリエ(1898-1964)の没後50年を記念し、日本で初めての回顧展が開かれた。油絵と彫刻を含む116点が、時系列に三つの構成のもとに展示された。第1章は、「レアリスムから厚塗りへ(1922-1938)」と題され、《管理人の肖像》のような写実的な作品から始まって暗い色彩を用いた抽象的表現の作品へと変化してゆく画風を見ることができる。第2章は「厚塗りから『人質』へ」(1938-1945)」で、厚く塗り重ねられた独特の絵肌をもつ静物画から、戦時下を反映した画題の連作《人質》までが扱われる。ほかの展示室と打って変わって暗い室内に浮かび上がる、マチエールの顕わな「人質」たちの頭部を表わした作品群は、観る者の眼だけでなく触覚をも刺激する。変わって第3章では「第二次世界大戦後(1945-1964)」をテーマとして、《黒の青》のような、軽やかな抽象の世界が繰り広げられる。見どころの代表作《人質》だけでなく、全仕事を通覧することで、フォートリエの抽象表現をより深く理解・堪能できる展覧会だった。[竹内有子]

2014/12/03(水)(SYNK)

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2015年01月15日号の
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