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2015年04月15日号のレビュー/プレビュー

《国父記念館》

[台湾台北市]

《国父記念館》(1972)は、孫文を顕彰する建築で、やはり巨大な像が鎮座し、その手前で護衛が直立不動する。反り上がった伝統的屋根の正面をさらにめくり、孫文の像に街の発展を見せる。巨大デザインは大雑把だが、庶民的な場で、休日に多くの人々が思い思いになごみ、使い倒す風景は好感がもてる。

2015/03/15(日)(五十嵐太郎)

《台中国立歌劇院》

[台湾台北市]

《台中国立歌劇院》を見学する。ここは現場の段階で、二度訪れていたが、現物が目の前にあっても、CGがそのまま立ち現われたような不思議な感じがする。工事前から周囲の開発が起き、高層マンションが次々と林立し、公式オープン前のいまも観光客がやってくる。ひょうたん型の空間形式が一番わかるのは、外観の切断面かもしれない。内部は、大中小の3つの劇場をおさめるが、空間の伸縮がかわる垂直の吹抜けがないために、形式は観念的に理解される。もっとも、1階を反復する5階、または1階の反転としての屋上など、体験を記憶しながら歩くと興味深い。むろん、うねる空間が内外に連続したり、未来的な迷宮感もある。現在、内装や舞台装置・機器の工事を継続しており、オフィス、店舗、カフェ、レストランが入り、ちゃんとオープンするのは来年の春らしい。安東陽子、藤江和子、廣村正彰らのデザイナーが入り、アーティストが壁画を描くという。

2015/03/16(月)(五十嵐太郎)

《台中庁連合会事務所》《台中庁庁舎》《専売局台中支局台中酒廠》ほか

[台湾台北市]

《台中庁連合会事務所》(1911)、《台中庁庁舎》(1913)、《台中警察署庁舎》(1934)は、いずれもちゃんと保存され、とく庁舎が積極的に活用されている。《台中駅》(1917)は小ぶりだが、密度の高い意匠である。また1920年代の《専売局台中支局台中酒廠》は、台中の華山1914創意文化園区と同様、工場の一帯を文化施設として残している。ただ、こちらの方が思い切ったリノベーションを幾つか試みている。倉庫の端部に嘴のように鋭角的な部位を付けたり、スケルトン化して、その内部にOMA的なデザインを挿入していた。

写真:左上から、《台中庁連合会事務所》《台中庁庁舎》《台中警察署庁舎》《台中駅》 右上から、《専売局台中支局台中酒廠》

2015/03/16(月)(五十嵐太郎)

龍山寺

[台湾台北市]

台北に戻り、龍山寺へ。隣駅の西門は、若者ばかりの渋谷・原宿みたいな感じだが、ここは高齢者が多く、浅草のような雰囲気になる。龍山寺にいくと、観光以外で訪れる人も絶えることがなく、日本の寺と違い、宗教が生きていることを実感させられる。今回はここから少し足をのばして、剥皮寮歴史街区を初めて訪れた。商店が続く街並みをまるごと残しており、保存への意志の高さをうかがい知る。

写真:上=《龍山寺》 下=剥皮寮歴史街区

2015/03/16(月)(五十嵐太郎)

VOCA展

会期:2015/03/14~2015/03/30

上野の森美術館[東京都]

「現代美術の展望──新しい平面の作家たち」という枠組みで、1994年から毎年開催されている「VOCA展」も22回目を迎えた。めったに足を運ばないのだが、ひさしぶりに展示を見てみると、写真と絵画を巡る状況が既に大きく変わってしまったことに強い感慨を覚えた。
今回「写真作品」を出品しているのは、川久保ジョイ、岸幸太、ジョイ・キム、福田龍郎、本城直季の5人。34名の出品作家のうちの5名だから、極端に多いとはいえないが、決して少なくはない数といえるだろう。気がついたのは、写真というメディウムが決して特殊なものではなく、むしろ他の平面作品とまったく違和感なく同居していることで、そのような感触は1990年代まではなかったことだ。かつては、写真と絵画、あるいは版画との異質性が、もっとせめぎあいつつ際立っていたように思う。これは2000年代以降に、「写真の絵画化」、「絵画の写真化」が急速に進んだことの端的なあらわれといえるだろう。
とはいえ、名前を挙げた5人の「写真作品」を、単純に絵画と同じレベルで評価していいのかといえば、そうではないと思う。VOCA奨励賞を受賞した岸幸太の「BLURRED SELF-PORTRAIT」は、壁に貼り付けた印画紙に画像を投影し、スポンジで現像液を塗布するという手法で制作されたものだが、1871年のパリ・コミューン時に撮影された労働者たちの群像写真と、自分のシルエットを重ね合わせることで、写真ならではの物質感と偶発性を取り込んでいる。また、大原美術館賞を受賞した川久保ジョイの「千の太陽の光が一時に天空に輝きを放ったならば」は、福島第一原発に隣接する帰宅困難地域の地下に、8×10インチの印画紙を埋め、放射性物質で「撮影」するという作品である。これもまた、むしろ自己表現を放棄し、写真のイメージ形成能力を最大限に活用することで、見えない「光」を捕獲しようとする試みといえる。写真という媒体そのものが本来備えている可能性を、作品作りのプロセスに積極的に導入していこうとする方向性は、他の出品作家の作品にも見られた。
「現代美術」と「現代写真」との境界線が消失したというのはよくいわれることだが、逆にその境界線に目を凝らし、こだわっていく作業も大事になっていきそうな気がする。

2015/03/16(月)(飯沢耕太郎)

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