2018年10月15日号
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artscapeレビュー

2015年07月01日号のレビュー/プレビュー

天才ハイスクール!!!!展覧会「Genbutsu Over Dose」

会期:2015/04/17~2015/04/23

高円寺キタコレビルほか[東京都]

「天才ハイスクール!!!!」が終わった。2010年以来、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務めた美学校のクラスからは毎年のように数々の異才が輩出され、とりわけ美術大学の教育を経由しない表現のあり方は、東京のアートシーンに物議を醸しながら新たな局面を切り開いてきた。その功績は間違いなく大きい。
ただ、既存の美術大学と対照的な教育を実践してきた「天才ハイスクール!!!!」とはいえ、卒業と同時に社会の荒波に揉まれることになる多くの美大生と同じように、卒業後に孤独な闘いに挑むことを余儀なくされる点は変わらない。今後アーティストとして大成するかどうかは、それぞれ一人ひとりが、「天才ハイスクール!!!!」という集団性で得た経験をもとに、どのように闘いながら生き残っていくかにかかっているだろう。
そのために重要な点は、おそらく3つある。
第一に、先人との関係性。「天才ハイスクール!!!!」は、Chim↑Pomの卯城竜太を講師にして始められたということもあり、もともと上下の関係性が乏しい。むろん、そこには不必要な束縛からは無縁であるという利点があると同時に、ほどよい緊張関係にある先人のアーティストからの激励や批判を受けにくいという弱点も抱えている。むろん会田誠やChim↑Pomなどの先人たちに恵まれていないわけではないが、それにしてもある種の偏りは否めないし、とりわけコミュニティが細分化されている東京では、そのような縦の関係性の恩恵はもたらされにくい。Chim↑Pomが彼らの師匠にあたる会田誠の芸風に影響を受けつつも、同時に軽やかに乗り越え、独自の芸風を確立したように、「天才ハイスクール!!!!」もまた、Chim↑Pomの影響圏内から鮮やかに脱出することが必要となるはずだ。
第二に、地方との関係性。「天才ハイスクール!!!!」とは、よくも悪くも、きわめて東京的な運動体だった。東京のアートシーンは、世代や美術大学、趣向などの条件によって細かく分割されており、その細分化された環境がある種の快適な自由を担保することは事実だとしても、その反面、外部との接点を見失いがちだという欠点も否定できない。外部とは、すなわち自分が帰属する世界以外の世界であり、外部を見失うとは、それらを視野に収めることなく、例えば東京という舞台を全国と錯誤することにほかならない。改めて言うまでもなく、東京とは日本の首都機能を担っているものの、少なくとも美術に限って言えば、全国にあるアートシーンのひとつにすぎない。東京のある部分で評価されたからといって、勝ち誇ったように振る舞うのは、まさしく「井の中の蛙」である。Chim↑Pomが広島という地方都市で決定的な挫折を味わい、その後自力で復活を遂げたように、「天才ハイスクール!!!!」のメンバーは、あえて東京から離れたところでの活動に身を投じるべきだ。東京とはまったく異なる、それぞれの土地の事情を肌で感じれば、自らの表現を根底から見直さざるをえないし、そのことを契機として、さらなる展開を期待できるからだ。
第三に、より根本的には、直情的かつ単発的な表現のあり方をどのように発展させ、展開していくか。「天才ハイスクール!!!!」にしばしば浴びせられがちな批判として、それらの表現がきわめて単純明快であり、まるで思いつきをそのまま可視化したような作品が多いという点が挙げられる。表現の初期衝動を具体的な作品として結実させる点では、なんら問題はない。他の文化表現に比べると、とりわけ現代美術は歴史や文脈、技術などの専門知によって不必要に初心者を遠ざけてきたことを思えば、むしろそのような直接性は推奨されるべきだろう。けれども、「天才ハイスクール!!!!」が解散したいま、彼らはもはや「初心者」ではありえない。少なくとも、そのようなアート・コレクティヴを経験したアーティストとしてみなされるとき、直情的かつ単発的な表現だけではあまりにも物足りない。それらを出発点としつつも、独自の方法を練り上げ、自らの世界観を深めていくことが必要とされるに違いない。
本展は、「天才ハイスクール!!!!」の最後の打ち上げ花火としては、じつに華々しいものだった。しかし、その華やかさの先へ伸びる道はすでに始まっているのだ。

2015/04/20(月)(福住廉)

昔も今も、こんぴらさん。─金刀比羅宮のたからもの─

会期:2015/05/22~2015/07/12

あべのハルカス美術館[大阪府]

讃岐(香川県)のこんぴらさん(金刀比羅宮)といえば全国的に有名な社だが、美術ファンにとっては日本美術の宝庫でもある。筆者も、円山応挙、伊藤若冲、高橋由一を目当てに過去に何度も訪れたことがある。その名宝の数々が大阪まで出張し、万全な環境で見られるのだからたまらない。出品物は近世・近代絵画を中心とした43件。なかでも円山応挙の障壁画《稚松丹頂図》《芦丹頂図》《遊虎図》《竹林七賢図》を現地と同じ配置で見られたのは嬉しい限り。伊藤若冲の《花丸図》は襖4面が来阪し、高橋由一も《豆腐》《なまり(なまり節)》など8作品が並んだ。他にも、狩野永徳・探幽をはじめとする狩野派、岸岱、長澤芦雪、司馬江漢、伝ではあるが巨勢金岡と土佐光元、浮世絵の歌川国芳など巨匠のオンパレード。珍しい船絵馬や船模型、海難図絵馬も見られ、眼福の極みであった。

2015/05/21(木)(小吹隆文)

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showcase ♯4 つくりもの Constructs

会期:2015/05/08~2015/05/31

eN arts[京都府]

清水穣キュレーションによる、写真に特化したグループ展の第4弾。「つくりもの Constructs」をテーマに、中島大輔と山崎雄策をピックアップした。中島の作品は庭の植え込みなどに一本の棒を渡したものだが、構図と光の妙により植樹林の斜面を見下ろしているかのような巨視的スケールの風景へと変換する。一方、山崎の作品は街路で撮影した人物の連続写真だ。同じ人物を撮っているはずなのに、顔つきが1点ずつ微妙に異なる。画像加工をそれと気づかぬほど巧みに施した作品であり、その事実に気付いた時の気持ち悪さは半端ない。2人の作品は写真に加工を施す、施さないの違いはあるものの、「つくられた」情景であることに変わりはない。そして「つくりもの Constructs」が写真の本質であることを雄弁に語っている。

2015/05/23(土)(小吹隆文)

琳派四百年 古今展 細見コレクションと京の現代美術作家

会期:2015/05/23~2015/07/12

細見美術館[京都府]

琳派の祖とされる本阿弥光悦が洛北・鷹峯を拝領してから400年にあたる今年、京都市内では琳派400年にちなんだ多彩な催しが行われている。本展もその一つだが、必ずしも琳派にこだわった企画ではない。京都ゆかりの現代美術作家、近藤 弘、名和晃平、山本太郎が、細見コレクションから共演してみたい作品を選び、自作とのコラボレーションを繰り広げたのだ。近藤はセルフポートレイトの磁器オブジェを平安・鎌倉期の仏具と組み合わせるなどし、名和は鹿とカナリアをモチーフにした「Pix-Cell」を館蔵の《金銅春日神鹿御正体》や円山応挙の《若竹に小禽図》に並置させるなどした。また山本は、敬愛する神坂雪佳、中村芳中、鈴木守一といった琳派の画家たちと共演することにより、自身に内在する琳派的素養を明らかにした。「古」と「今」の共演がこれほど面白いとは。本展は、数ある琳派400年の催しのなかでもトップクラスの成功例と言えるだろう。

2015/05/23(土)(小吹隆文)

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稲村米治 昆虫千手観音巡礼ツアー

会期:2015/05/31

群馬県板倉町中央公民館ほか[群馬県]

現在、鞆の津ミュージアムで開催中の「スピリチュアルからこんにちは」展の関連企画として催されたツアー。いまもっとも「やばい」企画を次々と打ち出して高く評価されている同館学芸員の櫛野展正が、参加者10名ほどを引率しながら、群馬県に在住する稲村米治のもとを訪ねた。
稲村米治は今年で95歳。いわゆるアーティストではないが、いまからちょうど40年前の1975年、ひとりで昆虫千手観音像を制作した。これは文字どおり数々の昆虫を素材とした千手観音像で、おびただしい数のカナブンやクワガタ、カブトムシ、タマムシなどを表面に貼りつけ、構成することで、千手観音像を立体的に造形化したものだ。その数、じつに2万匹。制作期間に6年もの時間を費やしたのは、一夏で採集できる昆虫の数に限界があったからである。その持続的な執念に圧倒されるばかりか、クワガタを組み合わせることで千手や後輪を表現した造形上の工夫や、本体ばかりか台座までも昆虫で埋め尽くした徹底的なこだわりに、大変な衝撃を受けた。この昆虫千手観音像を最後に、同様の造形物は一切制作していないという逸話は、その執着心を極限まで突き詰めたことを如実に物語っている。
昆虫を用いたアーティストといえば、ヤン・ファーブルがいるが、稲村の昆虫千手観音像はヤン・ファーブルの作品より時期的に先駆けているし、その質的な差も歴然としている。ヤン・ファーブルの作品は多彩な昆虫の配列によって色彩の美しさを洗練させることに力点が置かれているが、稲村はクワガタの鋭角的な顎を千手に見立てたように、むしろ昆虫の形態を活かしながら立体的に造形化することに心を砕いているからだ。前者はより平面的で、後者はより立体的と言えるかもしれない。
かつて岡本太郎は、今日の芸術の条件として「いやったらしさ」を挙げていたが、稲村の昆虫千手観音像を見ると、まさしく「いやったらしい」感情がふつふつと沸き上がってくる。いわゆる美や醜といった価値基準を超えて、有無をいわさずに、見る者を圧倒してくるからだ。それは、2万匹もの昆虫が集合しているという事実だけではなく、それ以上に、一つひとつの昆虫が文字どおり「生きている」ように見えることに由来しているように思われる。稲村によれば、死んだ昆虫は一切採集しなかったという。生きた昆虫に注射をすることで、生命のある形態を留めることに腐心していたのだ。樹木にへばりついた昆虫のかたちが認められるからこそ、結果として昆虫千手観音像には、躍動するような迫力のあるイメージが醸し出されていたのである。
惜しむらくは、この大傑作が正当に評価されているとは言い難いことだ。無料で誰でも鑑賞できる地元の公民館に常設されている点は、決して悪くない。だが、平凡な蛍光灯のもと、天板のあるガラスケースの中に収められた状態で鑑賞するのがベストであるとは到底考えられない。もし入念につくりこまれた照明で照らし出されたとすれば、いったいどのように見えるのだろう。カナブンの緑色やクワガタの赤茶色がいま以上に妖しく光り輝き、クワガタの顎が背景に鋭い影を落とすのではないか。稲村は昆虫を供養するために千手観音像を制作したというが、私たちにできる供養とは、これを鑑賞して正当に評価を与えることにあるはずだ。

2015/05/31(日)(福住廉)

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