artscapeレビュー

2015年08月15日号のレビュー/プレビュー

バケモノの子

細田守作品に外れなし。『バケモノの子』も傑作だった。母を失った少年と天涯孤独のバケモノ、それぞれに欠損を抱えた両者が、補いあうように、師弟となる。そして互いに教育し、高めあう。成長物語だが、直接的に役立つ「勉強」だけが推奨されるいま、学ぶことそのものの悦びに触れていることが素晴らしい(細田の前作『おおかみこどもの雨と雪』の前日譚にも感じられる)。また渋谷の街と、最終決戦の場となる代々木競技場の描き方もとてもリアルである。

2015/07/15(水)(五十嵐太郎)

大森克己「"When the memory leaves you"-sounds and things vol.2」

会期:2015/07/11~2015/08/09

MEM[東京都]

大森克己がMEMで「sounds and things」展を開催したのは2014年2月~3月だったということを聞いて、軽いショックを受けた。ずいぶん前の展覧会だったような気がしていたのだ。それだけ多くの出来事が、目の前を通過し続けているということであり、逆に日々の出来事を記録(記憶)していくスナップショットの持つ意味について、もう一度考えてみたいとも思った。
前回の個展でも感じたのだが、大森にとってのスナップショットの意味合いが、かなり変わってきているように思う。以前は彼の周辺の現実を全身感覚的に受け止め、切り取っていくことに精力が傾けられていた。彼自身もそれが何を意味しているかわからないままに、出来事の断片を撒き散らしていたのではないだろうか。ところが、「sounds and things」のシリーズでは、むしろ「事後」に写真を選択、プリント、配列していく過程で育っていく思考と認識に大きく比重がかかってきている。スナップショットを、世界のあり方を考察していくための材料としてとらえることを、自然体でやりきっているように思えるのだ。
それをよく示しているのが、写真1枚1枚につけられたタイトル(むしろキャプションに近いものもある)である。石に刻まれた「LEHMAN BROTHERS」の文字を、モノリスのように撮影した写真には「“When the memory leaves you”」というタイトルが付され、祭りの法被を着た一団の写真には「すべての女は誰かの娘である」と記されている。千葉県浦安市の駅前のショットにつけられたのは「鳥と魚は恋に落ちることができるのか?」という謎めいたメッセージだ。写真が言葉を触発し、奇妙にユーモラスな画像とテキストとのアマルガムが形をとる。それらは確実に、この2010年代の、「震災以後」の世界の像を浮かび上がらせつつあるように思える。
なお、同時期に山梨県高根町のギャラリートラックスでは、「#soundsandthings」展が開催された(2015年7月4日~26日。iPhone6で撮影して、ハッシュタグをつけてInstagramで公開している写真による展示である。

2015/07/16(木)(飯沢耕太郎)

Nerhol「01」「01 Scape」

会期:2015/07/11~2015/08/29

YKG Gallery/G/P GALLERY[東京都]

写真とグラフィックデザインの領域が最も近づいたのは、1920~30年代だったのではないだろうか。バウハウスのラースロー・モホイ=ナジの『絵画・写真・映画』(1925年)などを見ると、フォトグラム、フォト・モンタージュ、そして文字・記号と写真とを組み合わせるティポ・フォトなどの新たな技法が、写真家とデザイナー(両方を兼ねる場合もある)の相互交流によって生み出されていったことがわかる。小型カメラの登場やグラフマガジンの興隆など、同時代の視覚世界の急速な拡張が、果敢な造形の実験に結びついていったのだ。
その意味では、1990年代以降のデジタル化の進行は、20~30年代の状況と重なりあって見えてくる所がある。インターネットとスマートフォンの時代における視覚表現も、写真とグラフィックデザインと境界領域を溶解、浸食しつつあるのではないだろうか。Nerhol(田中義久+飯田龍太)の作品を見ていると、彼らとモホイ=ナジやマン・レイを比較したくなってくる。今回の作品は、ある一日にインターネットに上がった画像を紙に印刷し、厚く重ねて、「0」と「1」という数字の形が浮かび上がるようにカッターで彫り込んでいったものだ。東京・六本木に新たに開設したYKG Galleryでは、その「写真彫刻」の実物が、恵比寿のG/P GALLERYではその一部を拡大して撮影した写真作品が展示されていた。
現代社会の断面図を指標化して提示しようとする意欲的な試みではあるが、それが「写真の可能性をラディカルに拡張」した「クリティカリティの冒険」(後藤繁雄)であるかどうかについては、判断を保留しておきたい。モホイ=ナジやマン・レイの作品は、まさに世界の眺めを更新するような「ラディカル」な試みであったわけだが、Nerholの二人の作品がグラフィカルなセンスのよさと、手業の極致という段階に留まるのか、そうでないのか、まだ確信が持てないのだ。
YKG Gallery:2015年7月11日~8月29日
G/P GALLERY:2015年7月11日~8月9日

2015/07/16(木)(飯沢耕太郎)

鈴木理策「意識の流れ」

会期:2015/07/18~2015/09/23

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

2015年2月1日~5月31日に丸亀市猪熊源一郎美術館で開催された鈴木理策「意識の流れ」展が東京オペラシティアートギャラリーに巡回してきた。同展のカタログにおさめられた倉石信乃との対談「写真という経験の為に」で、倉石の「鈴木さんはわりと、経験主義者なわけですよね」という問いかけに対して、鈴木は「はい、とても」と答えている。だが、この場合の「経験」というのは、微妙なバイアスがかかった概念だと思う。
ひとつには、今回の展示作品のテーマとなる熊野(鈴木の故郷でもある)の自然や祭礼を、直接的ではなく、あくまでも写真を通じて「経験」しているということだ。むしろ、現実と写真との間のズレこそが鈴木の最大の関心のひとつになる。同カタログに「人間の目とカメラの目には必ずズレが生じるという事実は、私が写真に魅かれる最大の理由である」と書いている。もうひとつは、あくまでも自分の個人的な「経験」にこだわりつつも、それを狭隘な「経験主義」に封印することなく、より広く開いていこうとする態度が見られることだ。鈴木の写真を見ていると、むしろ彼自身の眼差しや身体性が消え去り、より普遍的な、人類学的とすらいいたくなるような「経験」が姿をあらわすように思えてくる。
それにしても、鈴木の写真作品の展示には、ある程度以上の大きさを持つ器が必要になるのではないだろうか。今回は「海と山のあいだ」の連作を中心に、「水鏡/Water Mirror」「White」「SAKURA」「 tude」の5作品、約150点が並んでいたのだが、プリントを「見せる」ことを作品発表の基本と考える彼にとって、作品をインスタレーションする環境のあり方が大事な要素となることがよくわかった。全体にバランスのとれた展示だったが、むしろそのバランスを突き崩す仕事、近作の花のシリーズ「 tude」(2010~14年)や動画作品「The Other Side of the Mirror」(2014年)などに、この写真作家が止まらずに動き続けていることが、くっきりとあらわれてきている。さらなる「経験」の広がり、深まりが期待できそうだ。

2015/07/17(金)(飯沢耕太郎)

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おとなもこどもも考える ここはだれの場所?

会期:2015/07/18~2015/10/12

東京都現代美術館[東京都]

「このまっしろな空間は、わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所にだってなることができます」と書いてあるが、図らずも美術館がどんな場所であるかを議論する場になってしまった。出品はヨーガン・レール、おかざき乾じろ、会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)、アルフレド&イザベル・アキリザンの4組。ヨーガン・レールが昨年亡くなったのは知らなかったが、晩年は石垣島に住んでいたという。その石垣島の海岸で拾い集めたゴミを使って美しい照明オブジェを制作。トニー・クラッグと藤浩志を合体させたような作品だが、本人は別に現代美術の文脈で評価してもらおうと思っていたわけではないだろう。おかざき乾じろは「子どもしか入れない美術館」を制作。ぼくはたまたま監視員がいなかったので入ってしまったけど、内覧会といえども大人は入っちゃダメなんだそうだ。内部には子どもはおらず(内覧会だもんね)、同館のコレクションのホックニーやスミッソンらの作品が何点か飾られていた。次の会田家の部屋は暗く、インスタレーションやら映像やらでにぎやか。天井から「文部科学省に物申す」と題した巨大な檄文が垂れ下がり、壁には首相に扮した会田が「日本は鎖国すべき」とかヘタクソな英語で演説する姿が映し出され、奥では会田本人が寡黙になにやらこしらえている。よくやるなあと思ったが、まさか美術館側から横槍が入るとはね。そもそも会田を選んだらどうなるか、ある程度想像がつきそうだし、覚悟もしておくべきだったし、なにをいまさらって感じ。まあ結果的に動員が増えたうえ、「ここはだれの場所?」って「おとなもこどもも考える」ことになったから、美術館は会田家に陳謝・感謝しなければならない。

2015/07/17(金)(村田真)

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