artscapeレビュー

2015年09月01日号のレビュー/プレビュー

モノクロスナップの魅力展

会期:2015/07/04~2015/08/30

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

入江泰吉が昭和20年代から30年代前半に制作した「昭和大和のこども」と、昭和から平成の大阪の街や人を撮り続けている阿部淳の「市民」、近藤斉の「民の町」を展示。入江73点、阿部740点、近藤106点という大規模な展示となった。入江といえば大和路の美景を捉えた端正な作品の印象が強いが、本展の作品は別物。昔の奈良の風景や生活が活写されており、なにより子供たちが愛らしい。それに対して阿部と近藤の作品は、大阪のぎらついた街と人間に肉薄しており、それでいてどこか夢幻的な風情も感じられるものだった。同館ではこれまでもっぱら入江の作品を展示しており、本展のような企画は珍しい。今年から館長に就任した百々俊二氏の効果だろうか。館の魅力を高めるためにも、他の作家の企画展をどんどん行なうべきだ。

2015/08/09(日)(小吹隆文)

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Chim↑Pom 10周年記念・緊急企画展「耐え難きを耐え↑忍び難きを忍ぶ」

会期:2015/08/07~2015/08/15

Garter[東京都]

Chim↑Pomが結成10周年を迎え、急遽開催した個展。ところが、その内容は「記念」という言葉から連想される祝祭的なものではまったくなく、むしろいつにもましてリアルタイムな問題を来場者に投げかけるものだった。
展示されたのは、彼らがこれまで発表してきた作品の数々。多少のマイナーチェンジが施されてはいるが、基本的には過去作である。だが、あわせて掲示されたテキストを読むと、それらが美術館や主催者からの「作品改変要請」という文脈に位置づけられていることがわかる。この背景には当然、東京都現代美術館で開催されている「ここはだれの場所?」展における会田誠の檄文をめぐる作品撤去要請の騒動があることは言うまでもない。
例えばChim↑Pomの代表的な作品のひとつである《BLACK OF DEATH》。これは録音したカラスの鳴き声を拡声器で拡散しながら各地でカラスの大群を呼び寄せる映像パフォーマンスだが、そのロケーションのなかに読売新聞の会長である渡邉恒雄の自宅マンション前が含まれており、この作品が東京都現代美術館に収蔵される際、美術館から該当部分の削除を要請されたという。美術館はいったいどんな事情があって作品の改変を強いたのか、その理由は知るよしもないが、Chim↑Pomはその要請を条件付きで受け入れたという経緯は明記されていた。
アーティストが表現した作品の内容に踏み込み、その改変を強いることは、要請というかたちをとっているにせよ、実質的には自主規制であり、明らかな検閲である。その経緯と過程は、通常は当事者しか知りえない「裏事情」とされるが、今回Chim↑Pomはそれを白日のもとに晒した。言ってみれば「暴露型の展覧会」である。
その暴露は、しかし、美術館や政府をただたんに糾弾するものではない。Chim↑Pomが、これまでの作品においてつねにそうしてきたように、彼らの批判的な問題提起にはつねに自分たちの身体が賭けられていた。批判の刃をおのれの胸に突き刺し、背中に抜けたその刃先を相手の急所に深く埋めるようなやり方だと言ってもいい。いくつかの不条理な「要請」を受け入れたことを、自ら「黒歴史」として公表していることは、そのもっとも典型的な現われである。
むろん、明示的であれ暗示的であれ、あらゆる検閲は明らかに憲法違反なのだから、徹底して退けなければならない。だが、本展でChim↑Pomが示唆していたように、とりわけ安倍政権下において表現規制の権力が強化されつつある事実を鑑みれば、検閲に対する抗議や反対運動は必要ではあるが、それだけでは不十分であると言わざるをえない。なぜなら自民党の改憲案では、検閲を禁じた日本国憲法第21条は「公益及び公の秩序を害する目的」と判断された表現活動には表現の自由を認めないという項目が追加されているからだ。つまり当人にその意図がなくとも、そのようにお上に判断されれば、たちまち検閲の対象となり迫害されかねないというわけだ。街中にカラスを集結させる作品が公益や公の秩序を害するとみなされる恐れは、非常に高い。
もし、そのような状況に悪化したとき、アーティストはどのように振る舞うのだろうか。江戸時代の浮世絵師たちのように、幕府に対する辛辣な批評性を、一見するだけではわかりにくいような暗示的な方法で作品の奥底に埋め込むのだろうか。それはひとつの態度や方法としてありうるだろうが、より根本的には、美術館や文化行政が牛耳る「現代美術」の世界を見限る身ぶりを整えておくことが必要だと思われる。検閲にさらされようが補助金を打ち切られようが、美術の本質はアーティストが表現した作品を、鑑賞者が見るという、極めて単純明快な原則にしかないからだ。この原則が不本意にも蔑ろにされるのであれば、現代美術のもろもろの制度は遠慮なく廃棄され、私たちはすすんで荒野に立ち返るだろう。Chim↑Pomという同時代を走るアーティスト集団は、そもそもそのような原野から生まれたのだ。

2015/08/12(水)(福住廉)

人生スイッチ

会期:2015/07/25

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

ペドロ・アルモドバル製作、ダミアン・ジフロン監督によるアルゼンチン映画。ささいなきっかけから不運の連鎖に巻き込まれ、人生の軌道から転落していく人々の悲喜劇を、6つの物語によって描いた。いずれの物語も短時間ながら、度肝を抜かれるほど思いがけない展開で、最後まで楽しむことができる。
通底しているのは、いわゆるブラック・ユーモア。山奥の田舎道で交通トラブルに直面した男が相手の男と死闘を繰り広げた末、「心中」してしまう話や、飛行機に乗り合わせた乗客がパイロットによって計画的に乗機させられていた話などは、腹の底から笑いつつも、喉元に一抹の後味の悪さが残る、きわめて良質の暗い笑い話である。
しかし、この映画で考えさせられたのは、ブラックユーモアの鋭さというより、その骨子である物語の強度についてである。例えば、ボンビーナこと爆弾男の話。ビルを爆破する解体職人の男は、駐車違反区域ではないにもかかわらず、路上に停めていた車をレッカー移動されてしまう。不当を訴えるが無視され、窓口で大暴れしたところ大々的に報道。すると妻から離婚を言い渡され、会社からも解雇され、再びレッカー移動。負の連鎖に苛まれた男は、ついに会社の倉庫から大量の爆弾を盗み出し、自分の車のトランクに仕掛ける。カフェで待ち構えていると、案の定、目の前で車がレッカー移動され、陸運局の駐車場に運ばれたところを見計らってスイッチを押す──。
この作品にかぎらず、多くの物語映画は現実と虚構の均衡関係のうえに成り立っている。ところが、本来的に物語映画は虚構であるにもかかわらず、昨今は現実の側に傾いてしまう作品が少なくない。せっかく虚構の世界を突き詰めていたのに、最後の最後で現実の規則に絡め取られる作品に興醒めさせられることが多いのだ。だが、ボンビーナの物語が優れているのは、虚構であることを最後まで貫き、虚構ならではの痛快なカタルシスを観客に存分に与えているからだ。窓口のガラスを粉々に粉砕しながら大爆発するシーンは、不条理なレッカー移動に対して観客の心中に鬱積していた憤懣をきれいさっぱり吹き飛ばしたに違いない。
むろん、とりわけ東日本大震災以後、あるいは昨今の政治状況を鑑みれば、「事実は小説よりも奇なり」と言わざるをえないほど、現実は虚構を圧倒していることは間違いない。けれども、だからこそ、虚構は虚構の力を再定義する必要があるのではないか。ことは映画にかぎらないことは、言うまでもない。

2015/08/12(水)(福住廉)

堂島リバービエンナーレ2015「テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー──同時代性の潮流」

会期:2015/07/25~2015/08/30

堂島リバーフォーラム[大阪府]

大阪・中之島では堂島リバービエンナーレが開催された。第4回となる本展は「テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー──同時代性の潮流」と題して、国内外15組のアーティストの作品で構成された。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」、アーティスティック・ディレクターのトム・トレバーは方丈記の出だしの一節から本展のコンセプトを語りだす。人の時間の感覚が空間の感覚と深く関わっているということはいつの世もかわらないのだろうが、本展では川、水、流動性をキーワードに、現代社会の空間的な広がりが描き出された。
とくに気になったのは映像を使った3作品。いずれも、映像作品の本領が存分に発揮された作品であった。池田亮司の作品は、3台のプロジェクターを使って約22×11メートルの画面を床面に映し出したインスタレーション。鑑賞者は電子サウンドとそれにあわせて川のように流れる光の映像を浴びながら、デジタルデータの内部に入り込んだような感覚にとらわれる。ヒト・スタヤルの作品《リクイディティ・インク》は、大きなスクリーンの前に波状に張ったマットの上に乗って映像を鑑賞するインスタレーション。「Be water」と語りかけるブルース・リー、北斎の《神奈川沖浪裏》の波打つ海、不確定な明日を予想し続けるウェザー・レポート、インターネットという情報の海に次々に身を投じる人々など、さまざまなイメージをつなげた30分間の映像にグローバリゼーションという現代の社会空間の広がりと揺らぎが描き出される。フェルメール&エイルマンスの作品《マスカレード》は、44章からなるドキュメンタリー仕立ての50分間の映像作品。株式と同様に市場で取り引きされる美術作品、その価値は価格によって構築され信用という漠然とした関係性によって成り立っているという実態があらためて知らされる。そして、美術家や美術作品に限らず、誰もがそれと同じような価値の流動性のなかを生きていることを思わせる作品であった。
本展は会場が1カ所で派手なイベントもなく近年の芸術祭のなかでは比較的コンパクトでシンプルなものであっが、作品一点一点を落ち着いてじっくり鑑賞できる、見応え十分の展覧会であった。[平光睦子]

2015/08/13(木)(SYNK)

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舟越桂──私の中のスフィンクス

会期:2015/06/27~2015/08/30

兵庫県立美術館[兵庫県]

日本を代表する彫刻家、舟越桂の仕事を1980年代から今年まで、10年刻みの3期に分けて紹介する展覧会。ドローイングも合わせ約70点が展示された。80年代の大理石の玉眼を入れた独特な「顔」を要とする彫刻から、90年代の胴体を自然の「山」を象る特徴的な作品群や、通常ではありえない体のパーツを再接合したような作品群を通じて、2000年代から現在までの人間でも動物でもないユニセックスなスフィンクスの登場までを通観できる。舟越の第一期の彫刻作品がもつ、なにか宗教的なものを感じさせる静謐なたたずまいをした作品の魅力だけでなく、第二期にみられるボディのマッスと造形的な面白さと、第三期における異形の人像と裸体表現と自由な色使いの斬新さを堪能できる。今回とりわけ興味深かったのは、舟越のドローイング。彫刻制作のために作家の着想を描きとめるためのものであるが、そのドローイングのもつ趣きの深さと完成度に感嘆した。[竹内有子]

2015/08/14(金)(SYNK)

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2015年09月01日号の
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