artscapeレビュー

2016年03月15日号のレビュー/プレビュー

村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」

会期:2016/01/09~2016/02/13

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

村越としやは2006年頃から故郷の福島県を撮りはじめ、東日本大震災以後もその仕事を継続している。中判~大判カメラで、あまり特徴のない風景を、細部まで丁寧に目を凝らしながら撮影するスタイルに変わりはないが、その作品にはどうしても「震災の影」を感じてしまう。それは写真を見る観客が、福島県須賀川市出身という彼のキャリアに過剰反応してしまうということだけでなく、彼自身もあらためて撮ることの意味を問い続けなければならなかったということのあらわれといえるだろう。村越は震災後、「被災地としての福島を撮ることを試した」のだが、結局うまくいかず、「目の前にあるどんなことでも、どんなものでも自分の目で見て写真に撮って考えること」を課すようになったという。その覚悟と緊張感が、写真に自ずとあらわれてきているのではないだろうか。
今回のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムの個展では、大判のパノラマサイズ(イメージサイズは60×180センチ)に引伸された作品、7点が展示された。その横長の風景作品を見ていると、画像の強度がより増してきているように感じる。樹のあいだから見える海、ひび割れた岩の後ろの茫漠とした空間、湿り気が立ち上がってくる水面──画面構成はむしろ単純化しているが、タブローとしての完成度が格段に上がってきているのだ。ただしこのような絵画的な美意識の浸透は、「どんなものでも自分の目で見て写真に撮って」という撮影時のリアリティを弱めることにもつながりかねない。そのあたりの隘路をどう切り拓いていくかが、次の課題として見えてきている。


© Toshiya Murakoshi / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film


2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

金子國義写真展

会期:2016/01/29~2016/02/21

AKIO NAGASAWA Gallery[東京都]

2015年3月に逝去した金子國義は、日本を代表する画家、イラストレーターとして、素晴らしい作品を発表し続けてきた。その金子が、一時期写真にかなりのめり込んでいたことは、それほど知られていないかもしれない。1980~90年代にかけて多数の写真作品を制作し、写真集『Vamp』(新潮社、1994)、『お遊戯 Les Jeux』(同、1997)などを刊行している。今回のAKIO NAGASAWA Galleryでの個展には、お気に入りの男女モデルに、自作の絵画作品そっくりのメーキャップを施し、パリなどにロケして撮影した代表作約70点が展示されていた。
小道具のセッティングやモデルのポージングは、絵と見まがうほど凝りに凝ったものだが、それでも彼自身、写真の限界を感じていたのではないかと思う。どんなに気を遣っても、写真にはさまざまな夾雑物が写り込んでくるし、最終的な仕上がりも絵画ほど理想化して表現するのはむずかしいからだ。だが、金子の写真を見ていると、そのコントロールがうまくいかないことを、逆に戸惑いつつも愉しんでいたようも思えてくる。彼の絵につきまとう、痛々しいほどにこわばった緊張感が、写真にはほとんど感じられず、むしろリラックスした雰囲気になっているのだ。残念なことに、金子の「写真時代」はそれほど長くは続かなかった。デジタル化以降にも写真を続けていれば、また違った可能性が見えてきたのではないだろうか。
なお、東京・神田神保町の小宮山書店でも、同時期に「金子國義ポラロイド展」(1月29日~2月28日)が開催された。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

高橋恭司「夜の深み」

会期:2016/01/22~2016/02/27

nap gallery[東京都]

高橋恭司は、1990年代に雑誌、広告等でカルト的な人気を博した写真家である。『THE MAD BLOOM OF LIFE』(用美社、1994)、『Takahashi Kyoji』(光琳社出版、1996)、『Life goes on』(同、1997)といった写真集では、放心と疾走感とがない交ぜになった、独特の映像の文体を確立していた。ところが、2000年代になると心身の不調が写真にあらわれてくるようになり、長い停滞期に入り込む。彼はどうやら、時代の悪意や閉塞感を鋭敏に感じとり、取り込んでしまうアンテナの持ち主だったようだ。2009年頃から活動を再開し、『流麗』、『煙影』、『境間』(いずれもリトルモア)といった写真集を発表するが、表現意識の空転が無惨に露呈するだけだった。
今回のnap galleryでの個展は、商業ギャラリーではひさびさの発表になる。どんな作品なのか半信半疑で見に行ったのだが、新たな方向へ踏み出していこうという意欲が、しっかりと感じられる展示だったことに安心した。「夜の深み」をテーマとする写真群が並ぶ壁の反対側に、裸電球が吊るされ、その下に楕円型の鏡が置かれている。鏡の反射は、向かい側の壁を区切るように投影されており、その光によって写真群が照らし出されていた。ややトリッキーなインスタレーションだが、仕掛けに無理がなく、夜の雨に滲むイルミネーションや、闇に沈み込む「眠る人」などのイメージも、たしかな説得力を備えていた。まだ断言するには早いが、「復活」を強く印象づける展示だったと思う。
次は、以前のように伸びやかなイメージが連なる写真集をぜひ見てみたい。焦らずにゆったりと仕事を続けてほしいものだ。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

烏丸ストロークロック『国道、業火、背高泡立草』

会期:2016/02/06~2016/02/07

AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)[兵庫県]

共通のテーマや登場人物を扱った短編作品の上演を数年にわたって積み重ね、長編作品へと集成させる創作形態をとる劇団、烏丸ストロークロック。本作も、互いに関連する短編の上演を2010年から積み上げてきた集大成的な作品であり、約2時間半にわたって、テンポのよい関西弁による会話劇が展開される。
舞台は、国道沿いの架空の町、「大栄町」。高度経済成長期に地元出身の国会議員の土木利権で繁栄した町だが、バブルの崩壊後、政治家の死とともに経済基盤や活気を失っている。そこへ、20年前に山火事を起こして町から追放されるように去った男、「大川祐吉」が突然帰ってくる。前半では、「ビンボーのユーキチ」と呼ばれ、忌み嫌われている男の帰還にとまどう住民たちの姿を通して、彼の過去が次第に明らかになっていく。正方形の枠で囲まれた舞台装置が秀逸だ。それは、スーツケースを引きずる主人公がグルグルとあてどなく歩く国道になるとともに、閉塞感で閉ざされた町や出口のない状況を象徴する。また、床との「段差」は、それぞれに身を置く登場人物どうしの力関係や優越感を示す。火事の焼け跡に、寂れた風景の中に生い茂り、風に揺れる「背高泡立草」。それは、戦後日本の象徴として作中で言及される。終戦後、アメリカから渡来した背高泡立草は、アメリカの庇護の下での経済発展とともに大繁殖するが、根に毒があるため、50年後、60年後には自らの毒で弱っていき、自滅の道をたどるというのだ。また、タイトルのもうひとつの単語、「業火」は、劇中の「火事」と「業(ごう)」の両方を意味する。登場人物はみな、何かしらの業を背負い、地方の疲弊を体現する人物として描かれる。助成金や補助金頼みの地方の経済、派遣切り、若者の貧困、離婚やアルコール中毒、親の介護、痴呆、右翼の活動家、カネと性への執着……。息苦しいまでに閉塞した現代の日本社会の縮図ともいえる地方の小さな町が、現在と過去を行き来しながら描かれる。
後半では、町に帰ってきた「祐吉」の目論みが、人々を巻き込んで展開する。マルチ商法で金持ちになった「祐吉」は、町の人々に金儲けのプロデュースを行なう。離婚してアル中になった中年の男が、会えない娘を想って彫った稚拙な木彫りの人形を、「ここには本物の心がある」と評価し、商品化に乗り出す。新規就農者に支給される補助金で暮らすヤンキーの若者や、地元再生を期待されて町議選に出馬する元国会議員の娘といった人物を巻きこみながら。同時に、彼の台詞が急に宗教・説教臭くなっていく。「売るものに魂を込めているか」「どうすれば(資本主義のシステムから)自由になれるのか」「父親になるんだから、自分で考えろ。それが自由だ」といった具合だ。だが、木彫りの量産を頼まれた中年の男は、「つくる度に娘への想いが軽くなっていく」「娘が欲しがるものを買ってやって、これ以上何をしてやれるのか」と疲弊していく。そして、大人のオモチャとの「コラボ」を勝手に進めた若者に「祐吉」は激怒し、悲喜劇の終盤を迎える。
彼の語る言葉の「胡散臭さ」を強調することで、「資本主義の価値観が元凶」というメッセージは非常に分かりやすく提示される。ラストで「祐吉」は、どんなにカネがあっても「たった1人の母親さえも幸せに出来なかった」ことに絶望し、首吊り自殺を図るが死にきれず、高校時代の元恋人の手で縄を絞められる。しかし、皆が退場したあと、彼はゆっくり起き上がり、再びスーツケースを引いて歩き去っていくのだ。「祐吉」という「亡霊」は再び何度でもよみがえることが示唆される。それは、戦後日本の資本主義社会が罹患した病である。
だが、ストレートな資本主義社会批判だけが本作の主題だろうか。むしろ真の主題は、親=先行世代から否応なしに背負わされた負の遺産という構造にあるのではないか。それはメインの登場人物3人に仮託されている。分かりやすいのが、「祐吉」の元恋人が、彼の首を絞めるラストシーンで歌う軍歌だ。この軍歌は、寝たきりで痴呆になった父親を彼女が絞め殺すシーンでも歌われていた。彼女の父親は、元右翼の活動家であり、家に街宣車や日の丸の旗があったと話されていたので、父親が歌っていた軍歌を物心つく前から聴いて覚えてしまい、感情が高ぶると口をついて出てしまうのだろう。「いざ行け つわもの 日本男児」のリフレイン。その回帰性は、親=先行世代から背負わされた負の重荷を象徴する。「カネさえあれば豊かで幸せになれる」という「祐吉」の幻想は、母子家庭に育った貧困から来ており、元国会議員の娘は「私たちは親の世代のツケを払わされている」と冷静に自覚しつつも、資金集めに奔走する。個人が親から背負わされてしまうものと、社会が前の時代から受け継ぐ重荷や保守的な価値観。群像劇という手法で重層的な構造を描いた力作だった。

2016/02/06(土)(高嶋慈)

碓井ゆい「SPECULUM」

会期:2016/01/20~2016/02/20

studio J[大阪府]

鏡に自分の姿を映す。それは、自分の存在を視覚的に認識する手段のひとつだ。そして「わたし」という言葉は、言語による認識である。碓井ゆいは、視覚と言語による自己認識を奇妙なかたちで入れ替え、美しく親密な作品のなかに閉じ込めてみせる。壁に掛けられた数十個の、陶製のフレームの手鏡。淡い色彩で彩色され、手製のいびつな形の一つひとつには、世界中のさまざまな言語で「わたし」を指す言葉がエッチングで記されている。ただし、左右反転した「鏡像」として。日本語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ハングル、タイ語、アラビア文字……。何語か判別できない文字もある。パールがかった、淡く輝く表面の上に、たくさんの「わたし」が映っている。だが、鏡に映った「わたし」の像は、常に歪みやひずみをはらみ、他者の承認がなければ、「わたし」は空虚な記号でしかない。碓井のインスタレーションは、自己認識やアイデンティティの危うさを問いかける。
碓井の過去作品《empty names》は、従軍慰安婦に付けられていた「日本語の名前」を、美しい字体でラベルに記して香水瓶に貼りつけた作品である。手鏡と同様、香水瓶もまた女性の身だしなみに関わる持ち物であり、曲線的な瓶のボディラインは、しばしば女性の身体と同一視されてきた。そこに、他者から押し付けられた「日本語の名前」をまさに「レッテル」として貼りつけることで、男性から女性への、そして植民地への二重化された支配関係をあぶり出す。決して声高でなく、美しい碓井の作品は、親密さのなかにこそ政治性が宿ることをそっと差し出してみせるのだ。

2016/02/06(土)(高嶋慈)

2016年03月15日号の
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