2018年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

2016年03月15日号のレビュー/プレビュー

レーモンドホール(旧三重県立大学図書館)

[三重県]

竣工:1951年、移築:1969年

JIA主催のシンポジウムで登壇するため、三重の津市に向かう。開始まで少し時間に余裕があったことから、三重大学で保存されているレーモンドホールを訪れた。あいにく閉鎖中であり、カーテンによって内部も隠されていたが、透明感あふれる木造のモダニズムなのは十分にうかがえる。おそらく、建築が小さいからこそ、キャンパスの隅に残すことができたのではないかと推測するが、地元の大学が、こうした1950年代の建築を保存しているのはよいことだ。

2016/02/06(土)(五十嵐太郎)

作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg

会期:2016/02/02~2016/02/28

京都芸術センター[京都府]

「作家ドラフト」は、若手アーティストの発掘・支援を目的に、隔年開催される京都芸術センターの公募企画。アーティスト、建築家、劇作家・演出家など、各分野で活躍する表現者1名によって、提出された展示プランの審査が行なわれる。今回の審査員は小沢剛で、近藤愛助とBARBARA DARLINgのプランが選出された。本評では、プロブレマティックにして秀逸なBARBARA DARLINgの映像作品《BETWEEN #01》についてレビューする。
《BETWEEN #01》は、1組のカップルが、東京・新宿から、本州最北端に位置する青森・大間崎までの海岸沿いをドライブする旅を撮影し、「愛している」以外のふたりの会話を削除して編集した映像作品であり、上映時間は約10時間に及ぶ。彼らが通過する地点は、一時間ごとのタイムスケジュールとして記され、「10:00 東京都新宿区」から始まり、「11:00 福島県双葉郡楢葉町」といった原発周辺地域を通過し、「14:00 宮城県牡鹿郡女川町」「15:00 岩手県陸前高田市気仙町」「16:00岩手県下閉伊郡山田町」といった津波の被災地を経て、青森県へと北上する。
壁面いっぱいに投影される映像は、「ロードムービー」という(青春)映画の形式を借りながら、しかし、劇的な出来事は一切起こらない。後部座席に固定されたカメラは、フロントガラス越しに流れていく道路と沿線の風景を淡々と捉え、カーナビ画面とハンドルを握る手が映るだけで、運転席と助手席の人影はほとんど映らない。時折、サイドウィンドウからの映像に切り替わり、下車したふたりがタバコを吸って休憩したりする場面が挟まれるが、遠景からのショットのため、表情も不明で会話も聞こえない。つまりここに映し出されているのは、ドラマの圧倒的な不在であり、全編を通して見ることがほぼ不可能な長尺の「上映時間」が、見続けていても「特に何も起こらない」退屈な時間を引き延ばしていく。
全てを見続けることが苦痛を強いるほどの、上映時間の長尺さと退屈さ。それは、「物語」として消費されることへの抵抗であるとともに、5年前は多くの救急車両が行き交い、冠水や地割れで分断された道が、今や「ロードムービー」が撮れるほどになった、その平和な忘却の明るさを映し出す。ドラマの圧倒的な不在は、「もしかすると、見られなかった他の時間帯では何か出来事が起きているかもしれない」という期待を抱かせ、「目の前で今起きていること」よりも、「ここで起こらなかったこと」へと意識・想像を向かわせる。しかしそれが、スクリーンの表面を流れていく、更地になった土地や復興工事の現場と伴走するとき、かつて「ここで起きたこと」の想起へと、反転してねじれを伴いながら差し戻されていくのだ。
しかし車中のカップルは外の風景に無関心で、微温的な空気だけが覆っていく。《BETWEEN #01》の「主人公」たちは、1960年代~70年代のアメリカン・ニューシネマの主人公たちの逃避行のように、ロックカルチャーやドラッグカルチャーとも関わりながら、自由や性の謳歌、暴力的行為を通して、社会制度への反抗を表わしているわけではない。彼らが下車したときだけ、海岸の波の音や通り過ぎる車の音が聴こえるが、映像の大半を占める「車内」は無音であり、「外部」から完全に遮断された空間であることを示す。つまり、「外」の風景に関心を示さず、車の中という居心地よく密閉された個人的空間にいるカップルは、震災と原発事故を忘却しつつある今の日本社会の鏡像である。そう、この「ロードムービー」は、震災以降という「現実」からの逃避行なのだ。そこでは、恋人という親密な関係や「車内」という空間のプライベート性/震災という出来事の社会性、恋人どうしの旅というフィクション/風景の記録としてのドキュメントといった界面が衝突し、裂け目を露わにしている。
また、機械的に淡々と車窓の風景を映し取っていくカメラは、Googleストリートビューの撮影車の存在を想起させる。その風景が「普通の住宅地」であろうと「被災地」であろうと、データを集めるだけのカメラにとっては変わりない。「通行可能な道」として視覚化し、シームレスに連続したものとして平坦化し、所有しようとする欲望。それを、パソコンや携帯電話の画面上に「開いた窓」として召喚し、部屋にいながらでも「車窓の風景」のように楽しみ消費することができてしまう私たちの視覚環境や映像メディアについての批評としても、本作は機能していた。

2016/02/07(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00034338.json s 10120641

stereotypical:西山美なコ・川内理香子展

会期:2016/01/26~2016/02/07

Gallery PARC[京都府]

西山美なコと川内理香子による二人展。川内の平面作品では、即興的な鉛筆の線で描かれたラフな人体の一部が生肉のように赤黒く着色され、性器を思わせる肉の割れ目や突起が、よく見るとグロテスクな人の顔になっている。肉を食べることと、相手の肉体の一部を体内に取り込む/取り込まれること。食べることとエロスの同質性。乾いた筆致のなかに、性器が顔と人格をもってしゃべり出し、相手の肉を食いちぎるかのような、性的な妄想が描き出される。
西山美なコは、シュガーペーストでつくったピンクのバラの花を2ヶ月半放置し、空気中の湿気で次第に溶けていく過程を写真に収めた。実際のインスタレーション作品《~melting dream~》は、2014年の「六甲ミーツ・アート芸術散歩2014」で展示されている。森の中のガラスの温室内に、結婚式の披露宴のような豪華なテーブルセッティングがなされ、ファンシーな色彩のバラが、ウェディングケーキのようにこぼれんばかりに盛り付けられている。しかし時間の経過とともに、腐りかけの生肉のように水滴を滴らせ、腐臭の代わりに甘美な砂糖の匂いを漂わせながら、グロテスクに溶け合って色が混濁していく。西山は、ピンクという色彩、「女性への贈り物」を連想させるバラの花、披露宴の演出スタイルといった要素を組み合わせ、砂糖でできたバラが溶けていく様子を見せることで、「幸せな結婚」「幸せな花嫁」という甘い幻想やステレオタイプが儚く溶けていく過程を、甘美にしてグロテスクに出現させている。

2016/02/07(日)(高嶋慈)

河合政之「natura : data」

会期:2016/02/06~2016/03/19

MORI YU GALLERY KYOTO[京都府]

宇宙空間に輝く星や銀河のように、無数の白い光が暗闇で瞬いている。床に敷かれた白い砂は、凍りついた雪原のように見える。月面に立って星の瞬く宇宙を眺めているような感覚。映像インスタレーション《Calcium Waves》は、美しいが、静寂と死の世界を思わせる。だが実はこの作品には、「カルシウムウェーブ」という、人間の肝臓やすい臓などの分泌細胞内で起こっている現象を光学顕微鏡で捉えた映像が用いられている。床の砂や小石は、炭酸カルシウムの結晶でできた石灰石や大理石だ。
一方、対置された《Video Feedback Configuration》シリーズの作品では、20~30年前の中古のアナログヴィデオ機器が無数のケーブルで接続され、中央のモニターにサイケデリックで抽象的なパターンが生成されている。「ヴィデオ・フィードバック」の手法、すなわちアナログなヴィデオ機器を用いて閉回路システムをつくり、出力された電子信号をもう一度入力へと入れ直し、回路内を信号が循環・暴走する状況を作り出すことで、無限に循環するノイズが偶然に生み出すパターンが、多様な形や色の戯れる画面を自己生成的に生み出していく。それは、極彩色の色彩とあいまって、下から上に吹き上げる生命エネルギーの噴出のようだ。また、箱の中に収められ、絡み合うコードに繋がれた機器は、血管や神経で接続され、人工的に培養された臓器のようにも見えてくる。それらが、もう製造されていない古いアナログヴィデオ機器であることを考えれば、技術の進展とともに古びて「死」へ向かう旧メディアを、つかの間「延命」させる装置であるとも言えるだろう。
無機質で生命のない世界に見えたものが、実はヒトの体内細胞の現象であり、有機的に見えたものが電子的なノイズである、という逆転。河合政之は、電子信号/生体反応という違いはあれ、微細なパルスを拾ってデータとして可視化することで、無機と有機の世界を架橋し、「データの交通」という共通性のもとに捉えてみせる。その手つきは、データの観測・認識という科学的手法を取りながら、絶対的で単一の客観性へと向かうのではなく、可視化された世界を微分し、私たちの認識を複数性へと開いていく。普段は意識すらされない体内の生体反応も、「意味の世界」として受容している映像も、その表層を剥いだ下には、見えていないだけで微少なデータの波や流れが行き交っているのだ。


河合政之《Calcium Waves》
©Masayuki Kawai photo:Kenryu Tanaka
Courtesy of MORI YU GALLERY


河合政之《Video Feedback Configuration no.5(Fudo-myo-o)》
©Masayuki Kawai photo:Kenryu Tanaka
Courtesy of MORI YU GALLERY

2016/02/07(日)(高嶋慈)

第19回 文化庁メディア芸術祭

会期:2016/02/03~2016/02/14

国立新美術館[東京都]

いつものように漫然と会場を一周してみたが、いい悪いはともかく「おっ!」と引っかかる作品が少ない。まあそれもいつものことだが、今年はとくに少なく感じる。そのなかでひとつだけよくも悪くも引っかかった作品が、アート部門で優秀賞を獲った長谷川愛の《(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合》だ。通常同性カップルでは子供はできないが、ふたりの遺伝情報を調べて掛け合わせればヴァーチャルな子供はできる。ここでは女性同士のカップルがそれぞれの遺伝データを組み合わせ、子供ふたり(つまりふたつの可能性)をつくるという映像。だが、彼女たちによく似たヴァーチャル・チルドレンを見て一瞬気持ち悪くなってしまった。もしこれが「アート」ではなく現実だとしたらおぞましいこと。同性カップルにとって子供がほしいというのは切実な願望かもしれないが、それは自然の摂理に反することであり、生理的に受け入れられない。でもそれを「アート」としてシミュレーションしてみるのは許されるし、むしろどんどんやってみるべきだと思う。つまりアートは、例えば戦争や災害、表現の抑圧といった現実に起きたらマズイ社会的問題を、あらかじめシミュレーションして世に問うことができるメディアなわけだ。たぶんメディア・アートの役割のひとつはそんなところにあるんだろうね。

2016/02/07(日)(村田真)

2016年03月15日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ