2018年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

2016年04月15日号のレビュー/プレビュー

《西茂森の家》

[青森県]

弘前へ。前田卓による《西茂森の家》は、すぐ近くのベンガラ色の栄螺堂を意識し、同じ色や回り込む階段を用い、さらに2階からお堂と山の風景を望む。環境を味方につけた家である。室内は施主が世界各地のモノを飾り、空間が生き生きとしていた。

写真:左=西茂森の家、右=《栄螺堂》

2016/03/04(金)(五十嵐太郎)

《斜光の家》

[青森県]

続いて、蟻塚学による《斜光の家》へ。道路側からは細長い直方体のヴォリュームである。しかし、庭側から見ると、メガホン型に膨らむサンルームと子ども部屋に挟まれたサンルームを効果的に挿入し、内部に豊かな光を導く。リビングの大開口は窓側にのみ2階があり、物干しの場所にも使える。これまでの蟻塚建築の発展形と言うべきプロジェクトだ。

2016/03/04(金)(五十嵐太郎)

《朽ちる家》

[青森県]

さらに青森市まで移動し、稲見公介の《朽ちる家》を見学する。彼の両親と暮らす二世帯住宅で、隣が事務所である。コールテン鋼やウッドロングエコの外壁は、経年変化をポジティブに受け止めるための素材だった。室内は環境性能と省エネに配慮しつつ、地産の材料や職人の技術を徹底的に活用する。

2016/03/04(金)(五十嵐太郎)

ダヴィデ・ヴォンパク「渇望」

会期:2016/03/05~2016/03/07

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇1本目。
背丈より高い、2mほどの壁が半円形状に弧を描いている。金屏風のようにまばゆく輝く壁は、開演と同時に照明が切り替えられ、冴え冴えとした銀色に変わる。すると男が一人、現われた。ダイバースーツを思わせるゴムっぽい素材の黒い服。その上に、無言のまま開いた口からヨダレが滴り落ち、幾本もの筋をつくる。ガッゴッ、ズゥー、ズルズルズル……。うがいやゲップ、咀嚼のような耳障りな音が喉から漏れる。誇張というよりは、顔全体の筋肉が無理やり動かされているかのように、大きく歪む表情。登場した男女2名ずつのダンサーたちは、原始的な言語のような音を漏らし、笑い合い、唾をかけ合い、奇妙な会話を交わしているようにも威嚇し合っているようにも見える。痙攣した笑いが全身へと波及し、硬直した手足を引きつらせる。その様子を、壁から上半身を出した女性と男性が、彫像のように冷ややかに、黙した番人のように見守っている。

動物化した非理性的な状態は、相手の目玉や手足に食らいつくような仕草や、鳥のような鳴き声を発しながら、はだけた乳房を手で捏ねくり回すなど、発情期の動物の異性アピールのような仕草へと発展する。性愛への示唆は濃厚だが、どこかコミカルだ。剥き出した腹をパン、パン、パンとぶつけ合って奇妙なスキンシップを交わし、向き合った身体を密着させ、互いの尻の肉をつかみ合う。男女かまわず交わされるキスは、愛撫というより、互いの口から相手を食い合い、むさぼり尽くそうとしているように見える。性愛と食人。その境界は、人間と動物の境界と同様、ひどく曖昧だ。やがて彼らは全員、尻を剥き出しにしたまま、組んずほぐれつの行為を繰り広げ、「観察者」あるいは「番人」然として外部からの眼差しのフレームを体現していた男女2名まで飲み込んでしまう。気がつくと、壁の上には剥き出しの尻が二つ乗っかっているのだ。即物的な「肉」の提示と、それへの渇望。理性の番人が不在のまま、舞台上の4名は泣き、叫び、痙攣したように笑い、動物の鳴き声や咆哮を上げ、遂には自慰や性交、出産を擬似的にパフォームする。

終盤では、互いのエネルギーを消尽し尽くしたかのように無人になった空間が、激しいビートに合わせて強まっては弱まる照明に照らされる。呼吸や脈動を思わせる有機的な光の明滅。私たち観客もまた、得体の知れない巨大な生き物に食べられて体内に取り込まれた感覚に襲われた。ガァー、ゴッゴッ、ヅルヅルヅル、ピィ~ピピピピ、アァ~、ギャァー……。言葉にならない無数の声だけが、残響のようにいつまでも耳の奥にこだまする。それは本能に回帰した叫びなのか、言葉=理性を奪われた叫びなのか。何が彼らをそのように変容させたのか。説明が一切ないことが、見る者の想像力をかき立てる。

理性的な言語を話すことを封じられた「口」。しかし発話への従属・拘束を解かれた「口」の運動が、全身へと波及するさまざまな動きを引き出していく。通常のダンス作品では前景化されることのない「口」をムーブメントの基点に据える、つまり「口」の物理的・身体的前景化によって、音やヨダレが内部から漏れる開口部、泣く、笑う、叫びや恐れといった根源的な感情の表出、食物の摂取、性愛行為、といった発話以外の機能が最大限に提示される。声や感情を外へと吐き出す開口部であるとともに、異物を内部へ取り込むための器官でもある「口」。その怪物性。ペルソナとしての顔の表面に開けられた「口」は、食物の摂取を通して性的エネルギーを充填させる、こんなにも猥雑で貪欲な器官なのだ。そこでは、互いを貪り合うようなキスが象徴するように、食人も性愛も、相手の肉体の所有・同一化への欲望という点では同質である。その欲望が、内部/外部、自/他の境界を脅かす侵犯へと向かうからこそ、文化的な「タブー」が発生する。本作は、「口」という普遍的でシンプルな器官から出発して、理性的な言語の発話を封じることで、逆説的にその豊かな運動や音響性を示すとともに、タブーとその侵犯という人類学的な射程を、ダンス=身体の芸術として浮かび上がらせていた。


ダヴィデ・ヴォンパク「渇望」
(c) Marc Coudrais

2016/03/05(土)(高嶋慈)

地点「スポーツ劇」

会期:2016/03/05~2016/03/06

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇2本目。
「光のない。」(2012年初演)に続く、地点×三輪眞弘によるイェリネクの戯曲の上演第2弾。
「血管が破裂する、パパー!」「スタートです」「赤と緑のチョークで星印を描いてチーム分け」「いつだってプレイ」。そう、試合は既に開始されている。選手入場のパレードも華やかなファンファーレもない。プレイ=スポーツの試合/演劇/テクストとの遊戯的な戯れ、という多義性が告げられる。複数のスポーツの「舞台」を組み合わせた、奇妙な舞台空間が広がっている。部分的な要素は見知っているが、全体としては見たことのない空間。バレーボールやテニスのネット、サッカーの緑のピッチ、スキーのジャンプ台。7名の俳優たちは何度も急勾配の斜面を駆け上がり、転げ落ち、ネットに激突し、反復横跳びを繰り返し、激しく突き飛ばし合い、倒れ込む。

地点「スポーツ劇」
Photo: Takuya Matsumi

断片的な、抽象的な、比喩的な、官僚的な、卑近なほど日常的な、寓話の一部のような、扇動的な、自嘲的な、異議申し立てのような、嘆願するような、過剰なまでの言葉の奔流が、圧倒的な量とスピード感で肉体から放たれる。脈絡や整合性を欠き、ときに同時多発的で、言いよどみや反復を繰り返し、単線的には進まない声と時間。語り手と声の一致は解体し、無数の異質な声が溢れかえる。モノローグの並置、つまり多声と多層構造によってしか語れないこと。「スポーツ劇」の主旋律は、ナショナリズムや戦争の代替装置としてのスポーツ批判と、家族との愛憎関係である。最愛の息子を失った母親の嘆き。シュワルツェネッガーに憧れてボディビルダーの鍛錬に励む青年は、「強い肉体」の獲得によって母親に愛されることを望んでいる。ナチスに協力したため強制収容所行きを免れた、イェリネク自身の父親に対する告発。神経を病んだ父親を精神病院に追いやった母親との確執。それらは、父親を殺害した母殺しを実行するギリシャ悲劇の登場人物、エレクトラに重ね合わせられ、古代ギリシャに端を発するオリンピックにおけるスポーツ選手=兵士について語られる。「ママ」への憎しみは、取り替えがきかず、スター選手のものとは程遠い肉体を自分に与えた憎しみ、変更不可能な起源への憎しみでもある。肉体改変への強い願望と、同一化の絶望的な不可能さ。「強い健康な身体」への脅迫観念と男性中心主義。メディアを通して神格化されるスポーツ選手と、ヘラクレスなど神話上の英雄。栄光と名誉に包まれた死。「国家のために死んだ」栄誉ある兵士たちの死。メディアの中で反復される死。スペクタクルとして上演され続ける死。俳優たちは、激しいつばぜり合いを繰り広げるサッカー選手よろしく突き飛ばし合って倒れ、頭上を戦闘機の轟音がかすめる度に倒れ、発話を終えると力尽きてくずおれていく。

地点「スポーツ劇」
Photo: Takuya Matsumi

ここで浮かび上がるのは、スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」という同質性である。有象無象の声、死者の声、引き受けきれない声たちの重み、「わたし(たち)」の不透明性が、俳優たちの滑らかな発話に負荷をかけ続け、どもり、言いよどみ、穴あき状態にちぎれた発話をもたらす。それは言語からの物質的な抵抗であるとともに、「自然な発話」とは程遠い、地点独特の発話─不自然なアクセントや分節化、音響的な発話や変速によって、「声」を一方的に所有・簒奪しないという倫理的な態度表明の遂行でもある。一方で、言葉遊びの挿入によってイェリネクのテクストと遊戯的に戯れ、変形させることによって、テクストの重みを解体しようとする抵抗が果敢に試みられる。ボディビルダーに励む青年は、マッチョポーズをキメて叫ぶ。「動きをうまくできターミネーター」「カーミ、神、カーミネーター」。死者への償いは、「もうはちきれんバカ、バカ、ばかりに」なっている。戦争責任、トラウマと精神分裂、家庭のTVの中に映る戦争、管理される身体、群衆心理の形成と「よそもの」の排除。

俳優たちは倒れ込んではゾンビのように何度でも起き上がるが、それでも供給できる身体の資源は限られている。次第に、緑の人工芝の平和なピッチが、死体の折り重なる戦場と多重化して見えてくるのだ。突き飛ばされて痛めた部位を大げさに指差し、相手のファールを取ろうとするサッカー選手の姿は、戦場で倒れた兵士と見分けがつかなくなる。しかし、ゲームの虚構性と現実の戦闘とを判別不可能にするものこそ、TVに流れる映像ではないか。メディアによって虚構化される現実。いったいなぜ、そして誰と、彼ら俳優たちは「戦って」いるのか。試合終了=終幕が一向に見えない中で、私たち観客はうすうす気づき始める。なぜ舞台前面にネットが張られているのか。なぜ緑のピッチが真ん中で途切れているのか。そしてなぜ、客席と舞台双方を見下ろす二階ボックス席に、「コロス」としての合唱隊がいるのか。なぜ合唱隊は、カラフルなチアスティック(スポーツの応援棒)=サイリウム(アイドルなどのオタ芸で振られる光る棒)=警棒を振って音を出しているのか。
彼ら合唱隊こそが、2時間に及ぶ、高密度の発話を発射し続ける俳優と無言のまま座席に身体を拘束された観客との「戦い」を高見から「応援」する「観客役」であったのだ。こうした「合唱隊」の身体性に対する意識は、舞台前面の床下に寝転び、裸足の足だけを舞台上に露出させて「転がる死体」を物理的に表象させた「光のない。」においても共通している。ただし「スポーツ劇」においては、合唱隊は硬直した足以外を床下に潜り込ませて視覚を遮断された状態ではなく、俳優VS観客の(しかし圧倒的に非対称な)対峙の光景を、高見から見守り、全貌を見渡せる特権的な位置にいる。しかし、私たち観客が客席に拘束された不自由な身体を引き受け続けざるをえないように、彼ら合唱隊もまた、音楽監督の三輪眞弘によって設定されたルールに従い、外部からプログラムされた身体の非自律性を引き受けねばならない。私たち観客には不明の「ルール」に従って、合唱隊は敬礼のように棒を掲げ、笛のように吹き、足踏みで盛り上げ、かすかに漏れる息の音で「君が代」の旋律をきれぎれに奏でるのだ。ここで、軍隊のように整然と規律化された合唱隊の身体が表象するのは、軍隊やマスゲームと、スポーツの応援やアイドルのオタ芸の身体との同質性である。

地点はこれまで、「CHITENの近現代語」においては、「わたしたち」の共同体の基底にある言語(日本語)を内部から解体することを企て、「ファッツァー」においては、「戦争」というモチーフを扱いながら、音と拮抗する身体の強度をつくり上げてきた。そして本作では、スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」という同質性を俎上にのせるとともに、(メディアを経由して)スペクタクルを欲望する観客との「対戦」の構図を文字通り劇場空間に持ち込んだ。地点の舞台演出はしばしば、「観客」の身体的存在を(承認の署名を記す前に)勝手に「借景」に仕立て上げ、「あなたたちも共犯者なのですよ」という挑発を仕掛けてくる。「CHITENの近現代語」の幕切れで、観客に向かって俳優たちが浴びせる「拍手」と「ブラボー」、「コリオレイナス」で政治家に扇動される民衆との重ね合わせ。
では私たち観客には、抵抗する術はもはや残されていないのだろうか。幕切れの直前、俳優の安部聡子は嘆願するような声で呼びかける。「静寂を、ものともせず」(註:戯曲の翻訳(抄)では「静寂、物音もせず」と記されているが、私には「静寂を、ものともせず」と聞こえ、決意表明のように感じられた。聞き間違いかもしれないが、この受容体験自体が、「日本語」上演におけるイェリネク戯曲の多義性の発露だと考えてみても、面白いのではないだろうか)。静寂と沈黙、忘却と無関心に抗うこと。そのために、不可能に近い試みであっても、過剰なまでの発話の奔流を通して身体に負荷をかけ続けること。第一ラウンドは一方的な攻防の下に終了したが、観客が反撃を開始する第二ラウンドは、終幕後に初めて幕を上げるのではないか。

2016/03/05(土)(高嶋慈)

2016年04月15日号の
artscapeレビュー

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