2018年12月01日号
次回12月17日更新予定

artscapeレビュー

2016年06月01日号のレビュー/プレビュー

こどもとファッション ─小さな人たちへのまなざし

会期:2016/04/23~2016/06/05

神戸ファッション美術館[兵庫県]

子供が「発見」されたのは、17世紀以降のこととされる。それまでの子供は、不完全な「小さな大人」として扱われていたから「子供服」と呼ぶべきものは当然なく、成人のファッションの縮小版を纏っていた。大人と区別される「純粋無垢で守り育てるべき子供」という考え方は、近代になって生まれた。本展は、子供服を通して近代における子供観の形成を探求するもの。近代西欧・日本の子供服から、同時代の風俗を伝えるファッション・プレート、ポスター等の関連資料を含む約180点あまりが展示されている。18世紀後半以降、ぴったりとして窮屈な成人服とは異なる、子供期の活動に合わせた服、例えば男児用スケルトン・スーツ(ロンパースのようなつなぎ服)や女児用シュミーズのような新しいスタイルの服が登場する。ゆったりとしたシルエットの子供服のスタイルが、今度は成人のファッションに影響を与えることになる。19世紀になると、大人の服を小さくした子供のファッションという揺り返しが起こるのも興味深いところだ。また本展の面白さは、西洋の事例に加えて、明治期以降の子供服の誕生と変遷にも目配りがされているところにもある。西洋の日本への服飾の影響、さらには、近代の衛生観念の発展と服の関係、子供用絵本がファッションに及ぼした影響、マスメディアとコマーシャリズムの発達による子供服市場の成立など、さまざまな文化現象についての示唆を与えてくれる。[竹内有子]

2015/05/05(木)(SYNK)

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近代洋画・もうひとつの正統 原田直次郎展

会期:2016/04/08~2016/05/15

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

最近、日本近代美術の原点を回顧する企画展が相次いでいる。東京国立博物館の「黒田清輝」展をはじめ、千葉市美術館では「吉田博」展、そしてこの「原田直次郎」展。吉田博はやや世代が若いとはいえ──原田直次郎(1863-1899)、黒田清輝(1866-1924)、吉田博(1876-1950)──、いずれも明治から大正にかけて日本社会のなかに近代美術を定位させることに精力を注いだ画家である。
原田直次郎は夭逝の画家である。わずか36歳で亡くなったため、現存する作品も決して多くない。本展は、高橋由一の画塾「天絵学舎」への入門から、ドイツ・ミュンヘンへの留学を経て、帰国後に結成した明治美術会、そして直次郎の代表作《騎龍観音》(1890)まで、短いが濃厚な画業の全容を、直次郎以外の周辺作家による作品も含めた、およそ200点の作品や資料によって紹介したもの。ドイツ留学時代から親交を深めてきた森鴎外が、直次郎没後に東京美術学校で1日限りで催した回顧展以来(1909年11月28日)、じつに107年ぶりの回顧展だという。
明治の近代美術を理解するうえで重要な参照軸となるのが、美術家や美術団体をめぐる敵対関係である。よく知られているように、黒田清輝はパリのラファエル・コランのもとで学び、帰国後の1896年に白馬会を結成、同年、東京美術学校に新設された西洋画科の教授に着任した。黒田に代表される「新派」が日本近代美術の正統として制度化されたのに対し、原田直次郎が創立にかかわった明治美術会は「旧派」とされた。本展のサブタイトルである「もうひとつの正統」には、そのような緊張関係が暗示されている。
しかし原田直次郎にとっての敵対性は、黒田清輝より、むしろ岡倉天心やアーネスト・フェノロサに向けられていたようだ。なぜなら、1887年、直次郎が帰国した当時の日本は、急速に押し進められた欧化主義の反動から国粋主義の気運が広がり、西洋絵画は冷遇されていたからだ。事実、その1887年、天心やフェノロサは東京美術学校の開校にあたって西洋画科を設置しなかった。ドイツで学んだ西洋絵画を日本で展開しようとしたとき、直次郎はこのような逆境に直面したのである。
とはいえ、その逆境とは天心やフェノロサとの制度的な正統性をめぐる権力闘争に由来しているだけではない。それは、近代をめぐる日本と西洋との本質的かつ構造的な問題に根ざしていた。
「一八八七(明治二十)年十一月十九日、上野の華族会館で開かれた龍池会例会において、原田は講話を行った。その内容を文字に起こした『絵画改良論』によれば、原田はフェノロサや岡倉天心が唱えるような、西洋絵画の長所を日本の伝統絵画へ取り入れて折衷するという考えを、真っ向から批判している。西洋絵画を本格的に学んだ原田にとって、フェノロサと天心の主張は浅はかに感じられただろう」(吉岡知子「原田直次郎 その三十六年をたどる」『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』青幻舎、p.14)。
西洋美術の長所だけを日本美術に取り入れる折衷主義。これが、岡倉天心がプロデュースした「日本画」を指していることは間違いない。こうして直次郎は天心=フェノロサ的な折衷主義を切り捨て、返す刀で西洋絵画の真髄を突くのである。ドイツ留学時代に描かれた《靴屋の親爺》(1886)は、深い陰影表現による劇的な効果を誇っている点で、その真髄を視覚化してみせた傑作と言えるだろう。
ところが、どれほど西洋美術の技術や規範を内面化したとしても、それを日本の社会のなかに定着させるには、まったく別の問題が生じる。近代化の渦中にある土着的な「日本」で、いかにして近代的な「美術」を普及するのか。それにふさわしい絵画とはどんなものか。どのような絵画であれば、日本人としてのアイデンティティを担保しうるのか。原田直次郎が直面した逆境とは、まさしくこの根深いがゆえに本質的な問題だった。例えば黒田清輝は、この問題に対するひとつの回答として、西洋絵画で言われる「コンポジション」の形式を踏襲しながら、日本人モデルの肉体を理想的に描いた裸体画《智・感・情》(1897)を世に問うた。一方、原田直次郎が彼なりの回答としたのが《騎龍観音》(1890)である。
龍の上で屹立する観音像。それを西洋絵画の技術によって描いたこの大作は、1890年、第三回内国勧業博覧会に出品された。それが直次郎にとっての「回答」であると考えられるのは、博覧会に先立つ1888年、直次郎はドイツ留学中に私淑していたガブリエル・フォン・マックスに宛てた手紙で、「真に日本の様式の絵画」を描くことを切望する心情を吐露しているからだ。《靴屋の親爺》が画題の面でも技法の面でも西洋美術の規範に沿っていたのとは対照的に、《騎龍観音》は西洋絵画の技法を活かしながら日本の土着的な画題を採用したのである。言い換えれば、そのような「折衷」に近代社会にふさわしい「真に日本の様式の絵画」を見出したわけだ。あれほど天心=フェノロサ的な折衷主義を批判していたことを思えば、《騎龍観音》に見られる西洋と東洋の接合は皮肉としか言いようがない。
だが、よくよく考えて見れば、近代を自発的に産んだわけでもない日本で、近代の産物である西洋美術を志すという矛盾を抱えた近代洋画の画家たちは、いかなる画風が正統であれ、おのずとそのような異種混合的な接合を余儀なくされていたのではなかったか。前近代に立ち返るという退路を絶たれ、いやがおうにも近代を受け入れざるをえなくなったとき、折衷や接合が隘路であることを知りつつも、目前の道を歩んでいくほかない。《騎龍観音》の、あの一見すると大味で、ある種のキッチュな佇まいは、近代美術ないしは近代洋画が内側に抱える、そのような哀しさの現われなのだろう。

2016/04/17(日)(福住廉)

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竹中工務店400年の夢 ──時をきざむ建築の文化史──

会期:2016/04/23~2016/06/19

世田谷美術館[東京都]

世田谷美術館の「企業と美術」シリーズ。これまでに資生堂、 島屋、東宝スタジオが取り上げられ、4回目となる今回の主題は総合建設会社の竹中工務店だ。近代建設業としての竹中の創立は14代竹中藤右衛門が神戸に進出した1899年(明治32年)だが、神社仏閣の造営を業として初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業した1610年(慶長15年)が「400年の夢」の所以だ。
これまでのシリーズ同様に単なる企業史展ではない。総合建設会社を扱っているが建築展でもない。企業活動とその結果生み出されてきたものを、文化の文脈において見てみようという試みだ。展示は以下の8つのテーマで構成されている。「はじまりのかたち」は、竹中の大工棟梁時代の作品や大工道具などの資料を展示する。歴史を扱っているようにも見えるが、技術やものづくり精神の継承が主題。「出会いのかたち」は劇場やホテル、商業施設など、非日常空間の建築。「はたらくかたち」は、ホワイトカラーのための空間、すなわちオフィスビル。「夢を追うかたち」では、南極観測用施設や東京タワー、東京ドームなど、技術的挑戦となった建築物が紹介される。「暮らしのかたち」は、個人の生活と関わる住宅と病院。「感性を育むかたち」は、学校建築、美術館、博物館。「時を紡ぐかたち」では、古い建築物の修復や復元の仕事を中心に取り上げている。最後は「これからのかたち」。風に揺らぐオーガンジーのカーテンが掛けられた空間には、人の動きに反応するインタラクティブな映像と音と香りを発生させる装置が仕掛けられている。
展示物はそれぞれのジャンルを代表する建築の図面や写真、模型のほか、竣工式の招待状や商業施設の定期刊行物、あるいは南極観察用施設の鉄扉(実物!)、東京ドームの屋根シート、東京タワーに使われたリベットや入場券など、ふつうの美術展・建築展ではあまり見かけないようなディティールに及ぶ。メインとなる展示室の壁面には18メートルに及ぶ長大な年表があり、その下のケースには各時代の代表的な建築物の竣工記念絵葉書やパンフレットが並ぶ。「これらを並べていくことによって、印刷技術、色彩感覚、タイポグラフィなどが物語るデザイン感覚のグラデーションが浮き上がってくるのではないかと期待している」とのこと(橋本善八「『竹中工務店400年の夢』展覧会ノート」本展図録、247~8頁)。
さらに展示では竹中が手がけた建築と関わる絵画や写真が紹介されている。たとえば佐伯祐三《肥後橋風景》(1926-27)には《大阪朝日新聞社》(1926)の社屋が描かれ、小出楢重《街景》(1925)、石井柏亭《中之島》(1928)は、《堂島ビルヂング》(1923)上層階からの眺望。アドバルーンが上がる東京・数寄屋橋の風景を俯瞰する鈴木信太郎《東京の空》(1931)は《東京朝日新聞社》(1927)の4階応接室から描かれたものだそうだ。1935年(昭和10年)までに竹中が手がけたオフィスビルには、都市のシンボルとなるものが多かったという。そしてそのころに画家たちは新しい都市のダイナミズムの象徴としてこれらの建築を描き、あるいはビルから見える都市の姿を描いたということになろうか。
今回の展覧会では世田谷美術館のいつもの企画展示と入口と出口の位置が逆になっている。入口正面には海藻を練り込んだ土壁が設置され、ほのかに海の香りが漂う。出口には長い木の渡り廊下がしつらえてあり、ここでは木の香りに包まれる演出だ。[新川徳彦]


展示風景

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2016/04/22(金)(SYNK)

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KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2016 Circle of Life|いのちの環

会期:2016/04/23~2016/05/22

京都市内の15会場[京都府]

2013年に始まり、今年で4回目となる「KYOTOGRAPHIE」。2016年のテーマは「Circle of Life|いのちの環」で、プランクトンの姿を捉えた写真と高谷史郎・坂本龍一とのコラボレーションを発表したクリスチャン・サルデ(京都市美術館別館)、人工授精で生まれた赤ん坊を生後1時間以内に撮影したティエリー・ブエット(堀川御池ギャラリー)など、例年通り質の高い展示が並んだ。とりわけ印象深かったのは、マグナム・フォトによる第2次大戦以降の難民の写真を編集した展示「マグナム・フォト/EXILE─居場所を失った人々の記録」(無名舎)と、原爆、三里塚闘争、全共闘、自衛隊など日本の戦後を問い続けた福島菊次郎の個展「WILL:意志、遺言、そして未来」(堀川御池ギャラリーと立命館大学国際平和ミュージアム)ではなかったか。その背景に、ヨーロッパに殺到する難民やパリでのテロ事件など、昨今の国際情勢を想像するのは難くなく、この二つの展覧会の存在が今年の「KYOTOGRAPHIE」を特徴付けたと言って過言ではないだろう。個人的には、自身の裸体と森や湖などの自然を融合させたアルノ・ラファエル・ミンキネン(両足院/建仁寺内)が最も印象深く、コンデナスト社のファッション写真展(京都市美術館別館)、サラ・ムーンの個展(ギャラリー素形と招喜庵/重森三玲旧宅主屋部、アソシエイテッド・プログラムとして何必館・京都現代美術館でも個展を開催)も見事だった。

2016/04/22(金)(小吹隆文)

生誕140年 吉田博展

会期:2016/04/09~2016/05/22

千葉市美術館[千葉県]

原田直次郎の敵対性が岡倉天心とアーネスト・フェノロサに照準を合わせていたとすれば、吉田博のそれは明確に黒田清輝に向けられていた。吉田博が黒田清輝を殴りつけたという逸話がまことしやかに語り継がれているのも、ことの真偽はともかく、そのような双方の敵対関係を如実に物語っている。あの中庸というよりむしろ凡庸な油彩画とは裏腹に、いやだからこそと言うべきか、東京美術学校西洋画科の教授にして帝国美術院の院長、さらには貴族院議員などを歴任した絶大な権力者に一撃を喰らわせるほど骨のある画家となれば、いやがおうにも期待が高まるではないか。
本展は、明治から大正、昭和にかけて一貫して風景を描いてきた吉田博の画業の全容を、およそ270点の作品や資料によって解き明かしたもの。小山正太郎が主宰した京都の画塾「不同舎」で洋画を学び、上京した後自費で渡米して水彩画の展覧会を成功させ、帰国後は凋落していた明治美術会を改組して「太平洋画会」を結成、さらに二度も欧米に渡り、晩年は木版画に転じたが、この長い画業のあいだ一貫して山岳や田園の風景を描き続けた。
例えば《東照宮、日光》(1899)。縦1メートルにも及ぶ大きな画面に日光東照宮の陽明門を描いた初期の水彩画だが、堅実な構図と緻密で克明な線描、だからといって描き込みすぎない抑揚のある筆致など、絶妙な均衡が保たれた傑作である。吉田博の不同舎時代を知る洋画家の三宅克己は「当時一般の水彩画と云えば、鉛筆画の淡彩と云った極めてあつさりしたものであつたが、吉田画伯の水彩画は、濃淡の色調も油絵式に絵に深みあり、運筆の妙技などに余り多く重きを置かず、只管明暗の表現に努めたものであつた」(田中淳「吉田博・吉田ふじをの水彩画(1)」『現代の眼』No.466、1993.9、p.6)と評価している。
そのような高い水準の水彩画を踏まえて、なお強く思い知らされたのは、吉田博が画題と画材の関係性を非常に強く意識していたのではないかという点である。彼がアメリカでいち早く成功を収めた水彩画で言えば、日本の農村を主題にした《朝霧》(1901-03)や《霧の農家》(1903)は湿潤な空気感を、同じく農村の雪景色を主題にした《篭坂》(1894-99)や《雪かき》(1902)は清冽な空気感を、それぞれ巧みに描き分けている。一転して《フロリダの熱帯植物園》(1906)や《ポンシデレオン旅館の中庭》(1906)では、同じく水彩画で熱帯特有の明るく乾いた空気感を再現しているから、吉田博は水溶性の画材の特性を最大限に活かしながら風土の多様性を描いてみせたのである。
では油彩画ではどうか。彼は盛んに日本アルプスに足を運んでいたが、野営を繰り返しながら描いた山岳画の大半は油彩画であった。それは急峻な山岳の稜線や険しい岩壁を描くには、おそらく水彩画より油彩画のほうが有効であると考えたからではなかったか。粘り気のあるメディウムによって描き出されているからこそ、見る者の脳裏にそのダイナミックなイメージが深く焼きつけられるのである。
画題にふさわしい画材を活用すること。あるいは画材に適した画題を選び取ること。吉田博の真髄は、おそらくこの点にある。だが木版画に関しては、その真髄が十分に発揮されなかったように思われる。それが従来の木版画には望めなかった繊細な光線や微妙な色彩のグラデーションを取り込んでいることは疑いない。けれども、細かい線によって分割された色面の世界が、国内外の景勝地の風土と照応しているようには到底思えない。画題と画材を有機的に統合するというより、むしろ特定の画材にさまざまな画題を無理やり押し込めたような強引さを感じざるをえないのである。
吉田博が木版画に挑戦したのは、1923年、3回目の渡米の際、現地の市場で幕末の粗悪な浮世絵が高値で取引されている現状を目の当たりにしたことに由来しているという。「外国人に見せても恥ずかしくない、新しい時代にふさわしい日本人ならではの新しい木版画を自らの手で作らねばならない、と強く思うようになったのである」(安永幸一「近代風景画の巨匠 吉田博─その生涯と芸術」『生誕140年吉田博』展図録、p.13)。幕末の浮世絵が粗悪かどうかはともかく、吉田博の視線が「日本人ならではの新しい木版画」に注がれたことは興味深い。なぜなら、ここには黒田清輝や原田直次郎が格闘した、西洋的な近代化と土着的な日本の相克という構造的な問題が根ざしているからだ。吉田博は近代日本にふさわしい近代版画を、おそらく黒田清輝や原田直次郎以上に、欧米の視線を肌で感じ取りながら、希求していた(なにしろ吉田博が初めて渡米した際、デトロイト美術館で催した展覧会での売上は、当時の小学校教諭のほぼ13年分に相当したという。このように海外での成功を独力で勝ち取ったという自負があったからこそ、吉田博は国家による厚遇を得ながら美術の制度化の過程に自らを投じていた黒田に憤激していたのだろう)。
さて吉田博の独自性は、その近代版画の活路を、例えば恩地孝四郎のように抽象性をもとにした創作版画ではなく、あくまでも線描に基づいた具象性に見出した点である。明瞭な線によって対象の輪郭をとらえ、色彩の微妙なグラデーションによって彩ること。吉田博の木版画は、現在の視点から見ると、その平面性も手伝って、アニメーションのセル画のように見えなくもない。だが、重要なのは吉田博が日本という土着的な世界で近代の版画を志したとき、手がかりとしたのが「線」だったという事実である。振り返ってみれば、水彩画はもちろん、色面を重視する油彩画にしても、輪郭線を強調していることが多い。どれだけ欧米で見聞を広めたとしても、つまりどれだけ新たな風景を目撃したとしても、そしてどれだけ油彩画や水彩画といった西洋絵画の技術を身につけたとしても、吉田博は線だけは決して手放さなかった。あるいは、手放すことができなかったとも言えなくもないが、いずれにせよ肝心なのは、吉田博は線によって「近代」に対峙したのである。
原田直次郎は近代日本の活路を土着日本と近代西洋の縫合に見出した。これに対して吉田博はそれを土着日本のなかに通底する線に求めた。それは、一見するとある種のアナクロニズムではあるが、そのアナクロニズムを貫いた水彩画や木版画が欧米で高く評価されたことを念頭に置けば、それをたんなる時代錯誤の方法論として切って捨てることはできなくなるはずだ。言ってみれば、吉田博は、近代化という不可逆的な歴史の流れに巻き込まれながらも、絵画や版画を手がけるときは、つねに後ろを向いていたのだ。その、一見すると退行的な身ぶりにこそ、ことのほか重要な意味がある。

2016/04/22(金)(福住廉)

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