2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

2016年06月15日号のレビュー/プレビュー

イシャイ・ガルバシュ、ユミソン「Throw the poison in the well」

会期:2016/04/30~2016/05/08

Baexong Arts Kyoto[京都府]

Baexong Arts Kyotoを運営するアーティスト、ユミソンと、イスラエル出身でベルリン在住の写真家、イシャイ・ガルバシュの二人展。出身地も年齢も異なる二人だが、「親世代がジェノサイドの生き残りである」という共通の出自を持つ。負の記憶の継承と共有の(不)可能性、親子関係がはらむ心理的葛藤、個人の生と民族の歴史の交差について言及するそれぞれの過去作に加え、2ヶ月の滞在制作において共同制作された新作《Throw the poison in the well》が発表された。
イシャイ・ガルバシュの《The Number Project》は、ナチス政権下でユダヤ人強制収容所に収容された母親が、腕に入れ墨で刻印された囚人番号を、自身の腕に焼きごてで刻印して、痛みとともに継承するというもの。数字とアルファベットが刻まれた金属片をガスバーナーであぶり、顔をしかめながら自身の腕に焼き付けていく記録映像と、生々しい傷痕が癒えていく様子を毎日1枚ずつ、101日間にわたって撮影した写真が展示されている。「A2867」といういびつな数字が、赤く血でにじみ、かさぶたになり、はがれ、ゆっくりと薄れて読めなくなっていく過程が、ドキュメントとして示される。母親の身体に刻印された番号を、痛みとともに「私」の身体に受け入れ、「私のこの身体」に起きた出来事として反復・引き受けようとすること。それは、民族の受難の物語への回収を拒み、「母と私」という極私的な関係性に留まりながら身体的に継承しようとする身振りである。それはまた、個人を匿名性へと暴力的に押しやった番号が、個人の生の証として取り戻されるという逆説を帯びてもいる。しかしその番号が薄れていく様子は、時とともに傷が癒えていく過程であるとともに、迫害の歴史が忘却されていくプロセスの可視化をも思わせる。ガルバシュの鮮烈な作品は、傷口を押し開きながら縫合するような両義性をはらんでいる。
また、ユミソンの《It Can’t Happen Here.》は、1948年の済州島四・三事件(韓国軍などによる島民虐殺事件)の生き残りである父親が語った記憶と、自身が罵声を浴びせられたヘイトスピーチの体験、父親との葛藤などを、父親の視点から仮構的に綴り直したテクストである。ただし、固有名や具体的な日付と場所を剥ぎ取られて抽象化されることで、話者の「I」は、不特定多数の他者を受け入れる場所となり、記憶と現在時の思索が行き来するなかに、体験の過酷さは詩的なモノローグとして語られる。
一方、ガルバシュとユミソンの共同制作《Throw the poison in the well》は、ともにジェノサイドの生き残りを親に持ち、民族の被傷性にどう向き合うかをそれぞれの視点で考える二人が、「井戸に毒を流す」行為を京都市内の市街地や河川で擬似的に再現するパフォーマンスの記録である。タイトルが示唆するのは、1923年の関東大震災の際、「朝鮮人が井戸に毒を流している」などのデマによって引き起こされた朝鮮人虐殺事件だ。だがこのパフォーマンスで二人は、社会的に排除され憎しみの対象となる「魔女狩り」の「魔女」役を押し付けられたことを糾弾するのではなく、むしろその役割を引き受けてフィクションとして演じてみせることで、「被害者の歴史」を訴えるという政治的正しさに陥ることを回避し、シンプルな行為がもたらす想像の回路を開いていた。
静かな住宅街で、個人宅の軒下に置かれた防火用のバケツに、二人がそっと入れるのは、小さな唐辛子である。その鮮烈で美しい赤。その行為は、むしろそっと贈り物を置いていくような、慎ましやかな贈与のようにも見える。一方、京都市内を流れる鴨川に「唐辛子を流す」行為は、河川敷という空間の公共性や開放感とあいまって、穢れや厄を依代(よりしろ)である人形に託して海や川に流す祭礼行事を想起させた。それは人を殺す「毒」ではなく、社会の底に澱のように溜まった「毒」を、身代わりとして流し、浄化しようとしているようにも見えるのだ。異質な他者への憎しみや排除が社会的不安や混乱の中で暴走し、肥大化した妄想が集団的につくりあげた「架空のテロ」の恐怖。その模倣行為が、憎しみの浄化行為として希望に満ちたものに変わる瞬間を、アートに成しえることとして差し出していた。


左:Yishay Garbasz & Yumi Song《make the poison 9771》
右:Yishay Garbasz《The Number Project》

2016/05/06(金)(高嶋慈)

珠かな子 改名記念展「マタギタマ」

会期:2016/05/06~2016/05/15

神保町画廊[東京都]

珠かな子は、自撮りによるややエロティックな写真を「村田タマ」名義で発表してきた。可愛らしい容姿で人気があったのだが、自分の写真の世界をどんなふうに展開していくのか、方向性を定めきれない揺らぎが、魅力的でもあり心配でもあった。だが、今回の「改名記念展」を見て、彼女のなかに、写真を撮り続けることの覚悟がしっかりと育ちつつあるように思えた。
「マタギタマ」というタイトルは、「村田タマ」から「珠かな子」へと跨いでいくという意志表明と、文字通りの「マタギ」とのダブルミーニングである。マタギ(猟師)の「自分の命を晒して猟をする。そして命に敬意をはらって食す」という生き方と、「少女から大人になり、子供を孕み産む」という自分の姿とを、写真行為を通じて結びつけようという意図が、今回のシリーズには明確に貫かれている。それを象徴するのが本物の熊の毛皮(会場に展示してあった)で、それを身に纏ったり、画面の中に取り込んだりしたセルフ・ポートレートが、展示の重要なパートを占める。それに加えて、テディ・ベアや小熊フィギュアの「カワイイ」イメージがちりばめられており、強さと弱さ、美しさと醜さ、気高さとポップな俗っぽさとが、引き裂かれつつ同居していた。「自撮り」写真を、ナルシシズムに溺れることなく、かといって退屈な繰り返しに陥ることもなく、どんなふうに展開していくのかというのは、多くのセルフ・ポートレートの写真家に共通する課題だが、その答えのひとつがここにあるのではないだろうか。

2016/05/06(金)(飯沢耕太郎)

深川の人形作家 石塚公昭の世界

会期:2016/04/23~2016/05/08

深川江戸資料館レクホール[東京都]

石塚公昭の仕事に注目しはじめたのは最近だが、人形作家としてのキャリアは1980年代からだから、かなり長い。ジャズやブルースのミュージシャンからスタートして、近年は小説家を中心に細部まで作り込んだ人形を制作し続けている。今回、東京・清澄白河の深川江戸東京資料館で展示された、泉鏡花、稲垣足穂、江戸川乱歩、澁澤龍彦、谷崎潤一郎、寺山修司、中井英夫、夢野久作、さらにエドガー・アラン・ポーやジャン・コクトーといった顔ぶれを見ても、彼の好みがどちらかといえば耽美・幻想系の小説家に偏っているのがわかる。
さらに、それぞれの小説家の作品を読み込み、人形を使ってその作品世界を再構築するために、石塚は写真を積極的に用いている。例えば江戸川乱歩なら、怪人二十面相ばりに気球に乗り込もうとしているとか、三島由紀夫なら燃え盛る金閣寺の前に立ち尽くすとか、稲垣足穂なら人力飛行機に乗り込むとか、作品中のある場面を設定してセットを組んだり、実際の風景のなかにはめ込んだりして撮影しているのだ。その凝りに凝った場面設定はどんどんエスカレートしており、日本の写真家には珍しい洗練された「コンストラクティッド・フォトグラフィ」として成立しているのではないかと思う。近年は、江戸川乱歩や谷崎潤一郎をフィーチャーした作品を、1920年代に流行したオイル・プリントの技法で制作するという実験も試みている。人形作家だけではなく、写真家としての石塚公昭にも注目していきたい。彼の仕事にはまだ、さまざまな可能性が秘められている気がする。

2016/05/06(金)(飯沢耕太郎)

アピチャッポン・ウィーラセタクン アートプログラム〈中・短編集〉

会期:2016/05/07

シネ・ヌーヴォ[大阪府]

タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作映画「光りの墓」公開に伴い、中・短編を上映するプログラム。『Worldly Desires』(2005)、『エメラルド』(2007)、『My Mother’s Garden』(2007)、『ヴァンパイア』(2008)、『ナブアの亡霊』(2009)、『木を丸ごと飲み込んだ男』(2010)の計6作品が上映された。
ラインナップからは、1)「反復構造とズレ」、2)「記憶」、3)「光(の多義性)」という、ウィーラセタクンの映画/映像作品に通底するキーワードを抽出することができる。まず、1)「反復構造とズレ」の明白な志向が見て取れるのが、中編の『Worldly Desires』。ポップソングのミュージックビデオを夜の森で撮影する女性歌手とダンサーたち、愛し合う男女の逃避行を描く劇中劇、それを撮影するクルーの会話、という3つのパートが交互に描かれる。3パートとも鬱蒼と茂る森の中で進行するが、同じ場所で起きた出来事なのか、それぞれの関係性はどうつながっているのかは曖昧だ。女性歌手とダンサーたちは、まばゆい照明を当てられて目鼻立ちが曖昧に溶解し、夢の中の光景のようにおぼろげながら、何度も同じ歌とダンスを繰り返す。また、森の中を駆け落ちする男女のシーンは、前半と後半で繰り返されるが、後半では女性が男性の手を振り払い、一人で森をさ迷う。反復構造が差異をはらむことで、異なる物語を分岐させていく手法は、長編映画『世紀の光』においても顕著である。同一性と差異の重なり合った世界は、記憶違い、日常世界とよく似た夢、平行世界、前世/現世の輪廻など、さまざまな想像をかき立てる。
また、2)「記憶」を扱う作品として、『エメラルド』が挙げられる。閉鎖されたバンコクのエメラルド・ホテルの室内を映す映像に、中年女性と若い男性が会話する声がオーバーラップする。無人の室内を綿毛か羽根のように舞う、白い物体。中年女性の声が語る、遠い初恋の記憶。香りを嗅ぐと前世の記憶が見えるという花の話。部屋を漂う白い物体は、語りの進行とともに密度を増し、ピンクやブルー、緑に色づいていく。それは歳月を物語るホコリを思わせるとともに、場に降り積もった記憶の断片や、浮遊する無数の霊魂のようにも見えてくる。そして、ベッドに亡霊のように浮かび上がる誰かの顔。それは寝顔なのか死に顔なのか。生(性)と眠り、死が重なり合う場所としてのホテルの部屋、その閉じられた空間の濃密性のなかに、染み付いた匿名的な記憶が降り積もり、あるいは語りの声によって解き放たれていくかのようだ。
3)「光(の多義性)」は、『ナブアの亡霊』において、重層的な光の交錯として現われる。蛍光灯に照らされた夜の草地。爆撃か花火のような激しい稲妻が落ちる大地。稲妻の炸裂は、画面内のスクリーンに映し出され、入れ子構造を形づくる。スクリーンの前に若者たちが現われ、火のついたボールでサッカーに興じ始める。夜の闇に火の粉をまき散らしながらバウンドする火球は、人魂を思わせる。そしてゲームの盛り上がりとともに、スクリーンに燃え移る火。一方、燃え尽きたスクリーンの背後では、プロジェクターの光がむき出しになり、バチバチという音とともに激しく明滅する。稲妻の映像は炎という現実の光に飲み込まれて消滅したが、スクリーンを失ってもなお、生き物のように明滅し、映像とは純粋な光にほかならないことを主張する。照明や光源、花火などの人工的な光と、稲妻や炎といった自然界の光。霊魂など神秘的存在のメタファーとしての光。映像を生み出す光。そこに含まれる、かつての光景の記憶。「光」の多義性が重層的に重なり合い、眩暈を起こすほど美しい作品である。

2016/05/07(土)(高嶋慈)

アピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓』

会期:2016/04/30~2016/05/20

シネマジャック&ベティ[神奈川県]

固定カメラでの引きのショットで長回しが多用されているから商業映画のような物語手法ではない。あえて言えばアート的な映画だ。いや、より積極的に「アート系」と称したくなるところがあり、それは引きショットが物語を進める部分とは直接には関係のないものを映すことで、独特の体験が可能になっているところだ。舞台は病院。入院患者はみな兵士で眠り込んでいる。ある兵士の面倒を見る足の不自由な老女。それと眠る兵士とコンタクトが取れるという若い女性が物語の軸となる。病院の隣ではシャベルカーが土を掘り返している。その脇には藪があり、少し行くと湖がある。湖では、市民が体操をしている。カメラは、こうした景色を映す。物語と関係ないかにも見える。が、兵士はこの地にかつていた王が戦をするのに魂を貸しており、そのために眠っているのだという話になり、それらの景色には現在は見えない別の層とのつながりのあることがわかってくる。さて、この表層の物語からしたら余計な景色に目が向かうこの感じには、どこか馴染みがある。これは、越後妻有や瀬戸内での、日常に置かれた美術作品とその周囲の景色との関係に似ている。『光の墓』は「地域アート」的だ。その連想を促進させたのは、クライマックスで女二人が藪の中を歩くシーンだ。若い女は眠る男に憑依していて男として老女とともに歩く。歩きながら、若い女=眠る男は王の世を思い起こし進み、老女は過去を思い返し歩く。歩みの先には、戦時を回想するためのものなのだろう防空壕のオブジェがあったり、若いカップルとそれが骸骨になった二組の彫像があったりする。二人はそうした作品を眺め、批評しつつ、全身でその空間全体を体験する。このさまが「地域アート」体験に近似しているように思えたのだ。体験ということで言えば、虫の音やエンジン音など、本作では音が丁寧に扱われている。音が喚起するのは、単に意味情報である以上に、その場を感じ味わう姿勢だ。あえて言えば、本作は観客に意味理解ではなく、体験を求める。眠る男の夢に入ろうとすることは、夢を知ることより、夢の中でともに生きることを意味するだろうし、そうした体験の次元こそ、アートが開く次元であると言えるのではないだろうか。

2016/05/07(土)(木村覚)

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