artscapeレビュー

2016年07月15日号のレビュー/プレビュー

武智和臣/Atelier A+A《オーベルジュ内子》

[愛媛県]

竣工:2009年

最後は日土小の保存活動に尽力した武智和臣が設計した《オーベルジュ内子》を見学する。土を盛って緑豊かなランドスケープをつくり、その奥で平家木造の宿が出迎える。眺めや和蝋燭の明かりを楽しむダイニングだ。分棟になった別荘のような客室群は、日が暮れると、内側から和紙越しに行灯のごとく光る。

2016/06/20(月)(五十嵐太郎)

第59回 表装・内装作品展

会期:2016/06/22~2016/06/27

東京都美術館[東京都]

画家の三杉レンジから震災に関連した作品を都美に出すといわれ、「巨大ドキュメンタリー絵画 現代の千人仏」とメモっといたんだが、会場に行ってもそれらしい展覧会はやってないし、案内の人に聞いてもわからない。ひょっとしたら公募展のなかでやってるのかもしれないと思い、無料の公募展を片っ端から見ていくと、意外にも「表装・内装作品展」の奥のほうで発見。なるほど、見れば納得できなくもなかった。三杉のやってる千人仏プロジェクトは、東日本大震災の仮設住宅で暮らす被災者に木炭で仏画を描いてもらい、千枚になるまで続けるという計画。これまで4年間で約930枚に達し、それを縦18×横52に「表装」したものを展示しているのだ。だから「表装・内装作品展」なのね。でもよく見ると、仏画を描いてもらうといってもみんな同じ位置に同じ大きさで描いてあるので、簡単な下描きの上に描いてもらってるみたい。なかにはその下描きを無視したり塗りつぶしたりする反逆児もいて、なかなか楽しめた。

2016/06/22(水)(村田真)

モザイク展2016「絵本」

会期:2016/06/20~2016/06/25

オリエアート・ギャラリー[東京都]

「絵本」をテーマにしたモザイク展。モザイクも絵本も「絵」の一種だが、画像を載せる支持体がまるで違う。重厚でゴツゴツしていて物質感を主張するモザイクに対し、絵本は薄くて軽くて滑らかだ。あえて性質の異なる絵本というテーマを与えることで、モザイクの可能性を広げたいという思惑があるようだ。出品は13人(テーマ展示とは別に海外8作家の展示もある)で、よくあるパターンは「見開き」のように本を開いたかたちにしたもの。いちおう絵本に見えるけど、それだけでは工夫がない。橋村元弘の《わがはいはネコである》は、両面モザイクを真ん中に挟んで2見開きにしたもので、めくると猫の顔が現れ、目が変化する。少し進化した。戸祭玲子の《…?》は6枚のモザイク板を紐でつなげて綴じた作品。強引に本の形式に近づけた努力は買うが、かなり無理がある。一方、形式ではなく内容の面で本に接近する例もある。馬淵稔子の《死者の書(古代エジプトの)》は、「BOOK OF THE DEAD」の文字を埋め込み、本の表紙のようにした。絵とヒエログリフで死の世界への道行きを書いた「死者の書」は、究極の絵本かもしれない。岩田英雅の《タイルの町「水の都」》は、ビザンチン文化の栄えた水の都ヴェネツィアの歴史を、本という記憶装置に重ねて表現したものだろう。モザイクにも本にも縁の深い都市ヴェネツィアを選んだあたり、慧眼というほかない。

2016/06/22(水)(村田真)

圓井義典「点-閃光」

会期:2016/06/06~2016/08/10

PGI[東京都]

前回、フォト・ギャラリー・インターナショナルで開催された個展「光をあつめる」(2011)と比較しても、圓井義典が今回展示した「点-閃光」のシリーズ(17点)は、より思弁性、概念性が強まっているように感じる。もともと、考えながら制作活動を展開していくタイプの写真家なのだが、草むらや樹木、水面の反映、あるいは光の反射そのものなどの日常的な事物を撮影した本作では、ホワイトヘッドやロラン・バルトの知覚論や記号論を援用することで、「写真論写真」への傾きがさらに大きくなってきているのだ。
圓井が展覧会に寄せた文章でいう「日々の情景と(私でもある)それが、網膜を介して出たり入ったりしながら重なり合う」状況を、写真というメディムを通じて捕獲することは、むろんこれまでも多くの写真家たちによって試みられてきた。既成の意味の体系によって、そこに写っているモノを解釈されることを避けるために、それらは時にブレたり、ボケたりした光の染みにまで還元され、極端なクローズアップによって全体と細部との関係が曖昧にされる。だが時として、撮影行為の起点であるはずの「私」が、(私でもある)存在として宙づりにされ、被写体も何が写っているのかを特定できないように配慮されることで、緊張感を欠いた、似たような予定調和の画像の繰り返しになってしまうことがある。今回の展示を見る限り、圓井の営みは、そんな「写真論写真」の隘路に落ち込む一歩手前を、さまよっているように思えてならない。
いまさら「私」と被写体(世界)との二項対立を持ち出すつもりはない。だがそのあいだの「関係性」の戯れのみに写真行為を解消してしまう危うさも、よく承知しておくべきだろう。「何を、なぜ撮るのか」という問いかけは、古くて新しいものであり、いまなお有効性を保ち続けているのではないだろうか。

2016/06/22(水)(飯沢耕太郎)

国吉康雄展 Little Girl Run For Your Life

会期:2016/06/03~2016/07/10

そごう美術館[神奈川県]

国吉康雄(1889~1953)は、20世紀前半の激動するアメリカで、移民排斥運動や「敵性外国人」のレッテルと戦いながら頭角を現し、教育者として多くの美術学生を指導し、アメリカ芸術家組合の初代会長を務めた画家。晩年はホイットニー美術館で大規模な回顧展が開かれ、ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選ばれるなど、アメリカを代表する画家のひとりとして認められたのに、没後その名は急速に忘れられていく。その理由は明らかで、亡くなったころから抽象表現主義がアートシーンを塗り替え、国吉のような抒情的な具象画は早くも時代遅れと見なされたからだ。だいたい国吉の絵は、20~30年代はパスキン、戦後はベン・シャーンを思わせる画風で、デッサンは狂ってるし色は濁ってるし、むしろ生前なぜ高く評価されたのかわからないくらい。おそらく国吉の評価は作品自体より、日本人に対する差別と偏見を押しのけてアメリカに忠誠を誓った彼の生き方に対する評価ではないか。興味深いのは、第2次大戦中にOWI(戦時情報局)の依頼で描かれた戦争ポスターの下絵。中国人を拷問・殺戮するシーンや、日本の軍人を鎧兜姿の武士にたとえた絵もあり、早い話が、日本人が日本を敵に回した戦争画なのだ。そして国吉は戦後、藤田嗣治がアメリカで個展を開いたとき、日本で戦争画を描いて国民を煽動したという理由で個展を妨害したという。藤田はかつて国吉が一時帰国する際に紹介状を書いた「恩人」であるにもかかわらず、だ。無意味な問いだが、もし日本が戦争に勝ってたら立場は逆転しただろうか。このへんは歴史のいたずらというしかない。いろいろ考えさせる展覧会。余談だが、最後のコーナーには瀬戸内国際芸術祭の宣伝を兼ねたパネル展示があった。展覧会の主催に福武財団も名を連ねているからね。

2016/06/23(木)(村田真)

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