artscapeレビュー

2016年10月01日号のレビュー/プレビュー

ふくいの婚礼

会期:2016/07/22~2016/08/31

福井県立歴史博物館[福井県]

福井県、とくに嶺北地方の婚礼の姿を紹介する展覧会。博物館の入口に設置された印象的なパネルは、マンジュマキ(万寿まき、饅頭まき)と呼ばれるイベントの写真(写真1)。花嫁を家に迎えると花婿の親戚男性たちが、集まった近所の人たちに屋根や二階の窓から饅頭を播く。お菓子や即席麺が播かれる例もあるという。祝い事で餅をまくことはよく聞くが、婚礼において饅頭をまくのは福井・嶺北地方にユニークな風習なのだという。
福井は婚礼が「派手」な地域のひとつで、現在でも婚礼費用は全国のトップクラスなのだという。 展示では、そうした福井の婚礼について、昭和30年代から40年代を中心に、明治から現代にいたるまでの歴史的な変化も考察しながら紹介している。第1章は出会いから結納まで。福井に特徴的なこととして、結納品を飾る水引細工が、結納返しのときに再利用されることがある。時には兄弟の結納の際に同じ水引が使用されることもあるという。妙なところが合理的なのだ。第2章は婚礼の日とその前後。婚礼の派手さを象徴するのは嫁入り道具の数々。その中でも最初に家に運び入れるのは着物を掛ける二つ折りの「衣桁(いこう)」。必ず仲人が持つことになっており、そこには「さあ、行こう」、「良い子を連れてきた」という意味が掛けられているそうだ。嫁入り道具を運ぶトラックの側面には紅白幕が張られ、フロントに翁と媼の人形が飾られているものがある。家具店の幌付きトラックには中の家具が見えるよう側面に窓が付いているものがある。運び込まれた道具や着物は近所の人たちが見に来るのだが、数を多く見せるために呉服屋から空箱を借りることもあったという。なにかと見栄を張りたがるのはどこでもいっしょだ。昭和40年のとある家の嫁入り道具の目録をもとに洗濯機やテレビ、冷蔵庫、掃除機など、当時の家電製品、生活用品を集めたコーナーは圧巻(写真2)。マンジュマキの光景を再現した等身大のイラストパネル(天井から饅頭が吊られている)や、祝言の座敷の再現も分かりやすくてよい(写真3)。
祝儀のかたち、場は地域や階層によって異なるとともに、時代とともにも変化する。第2章後半では新しい婚礼スタイルの登場が取り上げられている。現在も見られる神前結婚式の形式が確立したのは明治33年。これが各地に広まったという。福井では「神前の結婚式」と題する記事が明治44年4月13日の福井新聞にでている。そこには「神前に於て結婚式を挙ぐるとは冗費を省く上に於ても又新夫婦に夫婦なりとの観念を与うる上に於ても遙かに有益なり」とあり、大正期にはじまる生活改善運動に先立って、このスタイルが経費節約の点でも注目されていたことが分かる。戦後推し進められたのは公民館結婚式。展示されている写真を見ると、会議テーブルにクロス掛け、椅子は折りたたみ式、低い天井にモールが飾り付けられていたりする。簡素というよりも質素に見えるが、公民館結婚式を挙げたカップルのなかには後に農協の組合長や議員になるような人物もいたそうで、 先進的な理念を取り入れた結婚式としてのステータスもそこにはあったという。たしかに、そのように考えなければ婚礼費用全国トップクラスという現状との整合性がとれない(ただし、結婚式全体における比率は大きくなかったという。簡素な結婚式は、主流である豪華な婚礼へのカウンターとして存在したと考えるのが妥当かも知れない)。展覧会の主題は福井の結婚式なので多くは触れられていないが、家族のあり方の変化と婚礼のスタイルの変化との関係も興味深い。また、こんにちの福井の婚礼に福井らしさはどれほど見られるのか、知りたいところだ。[新川徳彦]


左:博物館エントランスパネル 右:昭和40年代の嫁入り道具

会場風景

★1──本展図録p74。

2016/08/24(水)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00036064.json s 10127788

あうるすぽっと+大駱駝艦プロデュース『はだかの王様』

会期:2016/08/25~2016/08/28

あうるすぽっと[東京都]

アンデルセンの童話「皇帝の新しい服」をベースに、大駱駝艦の田村一行(振付・演出)が、夏休みに大人も子どもも楽しめる舞踏に挑んだ。多数のワークショップを小学校や中学校で行ない、子どもが出演する舞台『田村一行のとんずら』を作ってきた田村にとって、「子どもも楽しめる舞踏」という難題は、簡単ではないが克服できるものと映っただろう。驚きだったのは、いわゆる子どもっぽい演出はほとんどなかったこと、しかも、正攻法で攻めたという以上に、「はだか」というモチーフに「白塗り」という舞踏らしい特徴を重ねて見る批評的野心が垣間見えたことだ。冒頭で、舞台に現われた役者たちは肌を白く塗ってゆく。「これから舞踏がはじまるよ」と告げているようだ。お話は、衣服=見栄・虚飾を軸に進む。仕立て屋の作る「バカには見えない服」=「はだか」は、ここでは「舞踏家の白い肌」となる。ただし、そうなると、「虚栄の果てにはだかを新しい衣服と思い込む愚かな王様」が「舞踏」ということになってしまう。もとのお話と異なる点として、新しい衣服のための布は王様から仕立て屋に渡されていた。そうであるなら、王様は自らを騙すように自らにはだかの服を着せたのではないか? そう推測できる。しかし、なぜ? テーマは舞踏でありその虚構性ということなのか? そのあたりが難解に思えた。
ところで、王様がはだかであることを指摘するのは子どもだ。虚栄と知りつつ逃れられない大人に対し、子どもはそれが虚であると無邪気に告げる。大人にとって自らの愚かさを振り返るものだとして、では子どもはそんな「はだかの王様」のお話をどう読むのだろう。子どもにとってみればいつもの自分が舞台化されているわけだ。まさに、という場面があった。男たちが客席に現れて「お前たちのなかで◯◯(の内容を失念してしまった。失敬)出来る者はおらぬか」と語りかけるともなく客席に言葉を投げる。それが劇の言葉と介さずに「出来るよ!」と一人の男の子が客席から立って男たちの方に迫ってきた。第四の壁という演劇的お約束を意に介さない彼こそ「王様をはだかと呼んだ子ども」そのものだ。この子どもがその場でほとんどスルーされてしまったのは少し残念だった。こんなところを考えると「大人も子どもも楽しめる」とは難題だ。大人は嘘を楽しむ。子どもは嘘を暴きたがる。前者は劇の嘘を愛し、後者は劇の嘘を見抜く。劇の構築と解体。ここではその二つのベクトルが緊張を保って進まざるをえない。ぼくは解体する子どものエネルギーに加担したくなるが、舞台作品が解体の一途を辿ることは自己否定に陥ることになろう。ただし、この緊張に迫っている本作には、次へと向かう予兆があったと思うのだ。

2016/08/26(金)(木村覚)

男女共学化の時代 ─戦後京都の公立高・女子高・男子高─

会期:2016/07/02~2016/09/25

京都市学校歴史博物館[京都府]

第二次世界大戦後、GHQの意向を受けた教育改革によって、中等教育の男女共学化が進められた。なかでも京都の公立高等学校では1948年10月の地域制(小学区制)・総合制と同時に共学化が実施された。この展覧会は、1970年頃までを対象に、学校新聞、写真、教科書などを資料として、男女共学の導入とその後の様相とを見せる興味深い内容になっている。
進駐軍主導の改革には旧制中学校・高等女学校に通う生徒や保護者たちからの反対があったが、教育改革を担った京都府軍政部民間情報教育課長E・ケーズの指導により改革が断行され、1947年5月に始まった新制中学校で男女共学化が実施された。新制高等学校の誕生は1948年4月だが、その時点では男女別学で、同年10月の再編により男女共学化が行なわれたという。当初は反対運動があったとはいえ、男女共学化が受け入れられたのは、男女別学を希望する者にとって、京都では多くの私立高等学校がその受け皿となったからと説明されている。1950年の全国における高校の私学在籍者は男子13%、女子23%。それに対して京都市内では男子31%、女子49%と、比率が非常に高かった。その後その比率は高まり、1960年には女子の3分の2は私立の女子高に通っていたという。ということは、京都市では男女共学が受け入れられたというよりも、男女別学を望む層が私学に流れたということになろうか(経済的事情で私学を選択できない層が共学の公立高校に進んだ、ということだろうか)。また京都市では1963年から、府立高校では1973年から順次、家庭科の男女共修が始まってたという。全国の高校で家庭科が男女共修となるのは1994年度からだそうで、京都では教員たちによる自主編纂教材が用いられていたそうだ。
男女共学の様相を資料でどのように見せるか。展示品のなかでは特に運動会の写真が事例として分かりやすい。教室での勉強姿は共学でも別学でもさほど違いはないが、運動会は男女が共同しなければならない場面が多数ある。フォークダンスはその最たるものだろう。手を繋がずに指先だけを結ぶ姿には、この世代でなくても覚えがあるのではないだろうか。公立私立を問わず、京都の高等学校の運動会のトリは仮装行列が定番だったという。1950年、鴨沂高校の仮装行列では、男女の生徒のみならず、教師も仮装させられている。酒飲みという理由で大きな一升瓶に乗せられた先生、源氏物語の登場人物に扮しているのは古文の先生、磔にされたキリストやクレオパトラに扮するは世界史の先生、屋台の親爺の恰好をしているのは「出店」という名前の先生だそうだ。普段の真面目な授業姿の写真と合わせてこれらが展示されているので、余計に可笑しい。私立高校の運動会でも仮装行列は行なわれていた。カトリック系の洛星高校では仏教のお坊さんの仮装、仏教系女子高の光華高校では全員が男装だ。写真からうかがわれる自由な雰囲気は、戦後に生まれたものなのか、京都独特のものなのか、運動会という場だからなのか、本展の主題とは少しずれるが、もう少し知りたいところだ。[新川徳彦]

2016/08/26(金)(SYNK)

刺繍(ぬい)と天鵞絨(ビロード)

会期:2016/08/20~2016/11/13

清水三年坂美術館[京都府]

絵筆の代わりに絹糸や金糸を用いて絵画のように表現する刺繍絵画と、ビロード地に友禅染を施した天鵞絨友禅の優品の数々。花鳥、風景、動物の刺繍絵画は、図案のなかの光や立体感を色面ばかりでなく、糸の種類、縫いの方向、厚みによって巧みに表しており、その職人の技倆と生み出された表現の繊細さに息を呑む。こうしたいわゆる「超絶技巧」の作品の他に興味を惹かれたのは、明治30年から大正期に作られたという「刺繍織」と呼ばれるもの。刺繍織は白い無地の織物で太めの糸を浮かせるように織ってある。絵柄に合わせて生地に色を差し、部分的に色糸で刺繍を施す。技法的には染めと刺繍の組み合わせではあるが、遠目には総刺繍のように見えなくもない。つまり安価に刺繍絵画をつくるための手抜き、省力化の技術だ。手を抜きたい、楽をしたいというモチベーションはしばしば技術進歩の原動力であり、その当時は多いに可能性のある発明だったと思われるが、いかんせん、生活必需品ではない他の輸出工芸と同様に刺繍絵画は産業のメインストリームになることはなく、汎用性のある技術として発展することはなかったようだ。[新川徳彦]

2016/08/26(金)(SYNK)

キュレトリアル・スタディズ11:七彩に集った作家たち

会期:2016/07/27~2016/09/19

京都国立近代美術館[京都府]

店頭におけるファッションの引き立て役であり、優秀な販売員でもあるマネキン。日本における洋装マネキンの製造は1925年、島津マネキンの創立にはじまる。手がけたのは島津良蔵(1901-1970)。島津製作所社長・島津源蔵(二代、1869-1951)の長男で、東京美術学校の彫刻科に進み、朝倉文夫に学んだのち島津製作所に入社する。当時島津製作所の標本部は人体模型の制作や輸入マネキンの修復を手がけていたが、マネキンの製造販売を行なうことが決定され、良蔵がその担当者となった。1937年、ここに作家として加わったのが良蔵と同じく東京美術学校彫刻科出身の向井良吉(1918-2010)だった。第二次世界大戦中の1943年にマネキンの製造を中止した島津製作所は、戦後その製造を復活させなかったが、島津良蔵と向井良吉は共同して1946年、マネキン会社「七彩工芸(現・七彩)」を設立。戦時中ラバウルに出征した向井良吉が島津良蔵と交わした「生還の暁にはマネキン創作活動を復帰する」という約束を果たしたことになる。社名の名付け親は向井良吉の兄で画家の向井潤吉(1901-1995)。「七つの異なった色が織り成すハーモニーと、空に架かる虹の雄大なイメージ」を込めた命名だという。今年2016年は、同社の創立70周年にあたる。
美術家たちが興した事業であり、七彩の社内外には芸術的な気風が溢れていたようだ。そのあたりは1949年から57年までの9年間行われた「マネキン供養祭」というイベントや、第一線のファッションデザイナーたちが参加した新作展、岡本太郎も寄稿した企業誌の刊行にもうかがわれる。1990年には、写真家ベルナール・フォコンが撮影に使用した1920年代のフランス製マネキンをコレクション。本業では美術館や博物館の服飾展示に使用されるマネキンの制作も行っている。商業的なマネキン、店舗什器の製造に留まらない多彩な活動の中で本展がとくに焦点を当てているのは、1953年3月に開催された展覧会「火の芸術の会」だ。その目的は「日本の陶磁器の伝統に現代の美術家の形と色を加えたい」「日本の将来の新しい工芸運動にひとつの寄与をしたい」というものだった。参加作家は岡本太郎、柳原義達、難波田龍起ら。平凡社社長・下中弥三郎所有の鎌倉山の窯と信楽の窯で彫刻家が形をつくり、画家が絵付けするという「美術家による陶器の新しい実験」が行われ、東京と大阪で作品が発表された。本展にはその作品、パンフレットが展示され、作家たちの制作風景を記録したスライドショーが上映されていた(この写真とは別に、岡本太郎の身体からマネキンの型を取る過程を記録したスライドショーも興味深かった。このときのマネキンは現在岡本太郎記念館に展示されているものだ)。このほか展示室には向井らが七彩で手がけたマネキン、パンフレットや企業誌、向井良吉の彫刻作品、展示会やマネキン供養祭の記念品が並ぶ。七彩の展示会風景などをランダムにまとめた写真パネルはとても興味深いが、その歴史と代々のマネキンについてもう少し詳しく見たかった。常設展示室の一室をつかった小規模な企画ではあるが、展示室の外、受付やショップ、ロビー、階段踊り場など、美術館のそこここに現代の裸のままのマネキンを配したインスタレーションはインパクト抜群(ただし受付カウンターの女性マネキンのみは着衣。首に提げたスタッフ証によれば「キャロライン」という名前だ)。[新川徳彦]

★──七彩の歴史については、同社のウェブサイト「七彩マネキン物語」で読むことができる。

2016/08/26(金)(SYNK)

2016年10月01日号の
artscapeレビュー