2024年03月01日号
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artscapeレビュー

2016年10月15日号のレビュー/プレビュー

フォルトゥニー美術館

[イタリア、ヴェネチア]

ビエンナーレ詣でのおかげで、ヴェネツィアはもう10回以上の訪問になると思うが、フォルトゥニー美術館を初めて訪れた。まだまだ見知らぬ場所がある。これは画家、装飾家の豪邸を使ったもので、彼の作品、コレクション、博物学的なモノ、現代美術が渾然一体とした非ホワイトキューブの個性的な展示空間に魅了される。スーパースタジオやヨナ・フリードマンの作品も展示されていた。

写真:上2枚=《フォルトゥニー美術館》 下=スーパースタジオ

2016/09/10(土)(五十嵐太郎)

アカデミア美術館

[イタリア、フィレンツェ]

久しぶりのアカデミア美術館へ。一部は六本木の美術館に来ていたが、ジョルジョーネのテンペスタ、ベリーニの傑作は不動だった。ボッシュの特別展示も開催されている。実はカルロ・スカルパが改修にかかわっており、よく見ると凝ったディテールを発見できる。またサムスンの出資で新しいエリアが増えており(もう日本企業はこういうところには関心がないようだ)、これもスカルパ・リスペクト風の展示デザインだった。

2016/09/10(土)(五十嵐太郎)

第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 会場外企画展示

会期:2016/05/28~2016/11/27

ジャルディーニ地区、アルセナーレ地区ほか[イタリア、ヴェネチア]

ビエンナーレの会場外の企画展示をまわる。台湾はいつものサン・マルコ広場横の場所を使い、今回はイリーガル・アーキテクチャー的なものも含む、都市観察によるメイド・イン・台湾を紹介していた。空間のインスタレーションも例年よりいい。またニュージーランドは、群島をテーマに島状に切り出した小さな台があちこちに浮遊し、それらの上に建築模型を載せる。

写真:左=台湾の展示 右=ニュージーランドの展示

2016/09/10(土)(五十嵐太郎)

森村泰昌展 「私」の創世記

会期:2016/09/02~2016/11/06

MEM(3F/2F)、NADiff Gallery[東京都]

森村泰昌の「80年代から90年代にかけての初期の白黒写真に焦点を絞った」展覧会である。
全体は3つのパートに分かれ、第1部「卓上の都市」(MEM 3F、前期9月2日~10月2日、後期10月4日~11月6日)には、小さなオブジェを卓上に組み上げて撮影した「卓上のバルコネグロ」のシリーズ(1984~85年)が展示されていた。まだセルフポートレートに移行する前の、写真表現の可能性を模索している段階の初期作品だが、細部の作り込みと、画像形成のプロセスへのこだわりには、後年の森村の志向性がすでにくっきりとあらわれている。前期の展示では、2007年の金沢21世紀美術館の「コレクション展Ⅱ」のときに制作された、サイコロを組み合わせたオブジェの平面画像を3Dプリンタで3次元化した作品も出品されていた。
第2部「彷徨える星男」(MEM 2F、9月2日~10月2日)は、ニューヨーク時代のマルセル・デュシャンの、頭を星型に剃り上げるパフォーマンスをマン・レイが記録した写真を下敷きに制作された映像作品《星男》(1990、13分15秒)と、90年代に撮影されたマン・レイ関連のセルフポートレート作品の展示。デュシャンやマン・レイへの手放しのオマージュとして、大阪・鶴橋のアトリエで頭を剃り、京都の街中をさまよう森村のパフォーマンスには、いつもの批評意識が完全に欠落した奇妙な切実感がある。
第3部「銀幕からの便り」(NADiff Gallery、9月2日~10月10日)では、90年代以降に森村が制作した記録映像作品を集成していた。2002年に川崎市市民ミュージアムで開催された個展「女優家Mの物語」のジオラマ展示の前で繰り広げられたパフォーマンス「劇場としての「私」」の記録映像など、まさに森村の原点というべき作品群である。
これら「プレ森村」というべき時期の、写真を中心とした仕事を見ると、一人のアーティストが自分の作品世界の成り立ちを明確に自覚し、それを解体=構築しつつさらに先へと進んでいこうとした転換期の様相が、くっきりとかたちをとっていることがわかる。そういえば、2016年4月~6月に国立国際美術館で開催された「自画像の美術史──「私」と「わたし」が出会うとき」展にも、「自伝」を参照しようとする身振りがあらわれていた。森村はいま、自らの過去を、ブーメランのように未来へと投げ返す作業に着手しつつあるのかもしれない。

2016/09/10(土)(飯沢耕太郎)

横田大輔「MATTER / 」

会期:2016/09/02~2016/10/23

G/P gallery Ebisu[東京都]

デジタル画像とインターネットの時代における写真アーティストたちの多くは、現実世界の様相をストレートに提示する写真のあり方に懐疑的だ。それはそうだろう。物心がついたときから、加工、改変、再編が自在にできるヴァーチャルなメディアにどっぷりと浸かっていた彼らにとって、現実とは強固で不変なものであるわけはなく、むしろ画像を再構築、再組織化するための材料として利用すべき対象だからだ。彼らはデジタルカメラやスキャナーなどで画像を取り込み、それらを増殖・分裂させたり、ほかの画像と合成したり、別な媒体に上書きしたり、3D化したりする。そんなリミックス的な「写真」作品は、2010年代以降、どうやら日本だけでなく世界中に広がりつつあるようだ。
横田大輔も、デジタル化以降の写真表現の拡張と加速化を、最前線で推し進めようとしている一人である。だが、彼の作品には「テーブル・マジック」(シャーロット・コットン『写真は魔術 アート・フォトグラフィーの未来形』(光村推古書院、2015))のような小手先の操作が目につくほかの作家たちとは、やや違った肌触りを感じる。それは、今回G/P galleryで展示された新作「MATTER」にもあらわれていた。「MATTER」は2015年に中国・アモイで開催されたJimei X Arles国際写真フェスティバルに出品したロール紙に出力した大量の写真を、展示終了後に空き地で焼却するというパフォーマンスの記録である。その経過は約4,000カットの画像データとして残されたが、横田はそれらを再び紙にモノクロームで出力し、ワックス加工したうえで、皺くちゃに丸めてギャラリーの床の上に撒き散らし、積み上げた。ほかに動画による記録映像や、炎上の様子をカラー画像で出力した写真も展示されていた。
出力、再出力を繰り返すことで、元の現実とヴァーチャルな現実との境目が消失し、ただの「情報」と化していくプロセスへのこだわりは、「ポスト・インターネット」世代のほかの写真家、アーティストたちとも共通している。だが、横田は写真画像の変換・加工を、無制限に自由な移行とは考えていない。ぎくしゃくとして無骨な彼のインスタレーションには、自らの身体性の限界、情報化し切れない写真画像の物質性(肉体性)に対する、圧倒的に過剰なこだわりがある。横田は赤石隆明との対談で「制限や負荷って重要なんだと思う。鬱屈したり、欠落した何かからしか表現は生まれないから」(『invisible man/ magazine 05: TRANS#1』G/P GALLERY, 2016)と語っている。小林健太との対談では「壊れた状態からしか何かを見出せなくなってるのかも」(同)と述べる。このような切実な「現実」感覚は貴重であり、信頼できる。彼の、一見写真から遥か遠く離れたもがきこそが、「写真家」の本質的なあり方を体現しているのではないか。

2016/09/10(土)(飯沢耕太郎)

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