2024年03月01日号
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artscapeレビュー

2016年12月15日号のレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーティン・クリード

会期:2016/10/22~2016/11/27

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

マーティン・クリードといえば、国際展では思わず笑ってしまうような作品を見かけるが、日本ではほとんど見る機会のないアーティスト(広島現美で個展が開かれたことがあるが)。それが京都芸大のギャラリーでやるのは、今秋の京都国際舞台芸術祭にダンスパフォーマンスを発表した縁だ。今回の作品は小泉明郎と同じく映像2本。1本は、60年代的な時代がかったポップ音楽と、白髪まじりのモジャモジャ頭のおっさんが登場する映像のコンビネーションで、なんじゃこりゃ。もう1本は、通りをいろんな人が歩いて行くのを追うだけの映像だが、ちょっと脚を引きずってる人から、かなり脚を引きずってる人、最後は脚で歩けず手と尻だけで進む人という具合に、どんどん重症化していく。小泉の映像とは逆に、一見シリアスなのに笑ってしまいそうになる。ブラックジョークの得意なイギリスっぽい。

2016/11/25(金)(村田真)

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見世物大博覧会

会期:2016/09/08~2016/11/29

国立民族学博物館[大阪府]

関西旅行のメインディッシュはこれ、わざわざこれを見に関西まで来たのだ。なぜそんなに見世物に惹かれるのかというと、答えは簡単で、見世物というのは人の気を惹くようにつくられているからだ。でもぼくが惹かれるのはそれだけでなく、見世物は美術の隣接領域にあり、また美術と表裏の関係にもあるからだろう。つまり見世物のことを知ると、おのずと美術の輪郭も浮かび上がってくるような気がするのだ。展示は、見世物小屋を飾った絵看板をはじめ、曲芸、軽業、女相撲、人間ポンプなど出し物のチラシや道具や写真、籠や貝殻を使って人や動物の姿に似せる細工物、からくり人形、生人形、お化け人形、エレキテル、トラやワニの剥製、人魚のミイラ、明治初期の博覧会を描いた浮世絵、そして最後はなぜか寺山修司と天井桟敷の妖しげな世界の紹介で終わっている。こうしてみると、いまではスポーツ、演劇、パフォーマンス、工芸、科学、生物学、博覧会などに細分化されたジャンルが未分化のまま、スペクタクルな見世物として金を取って見られていたことがわかる。美術の隣接領域でいえば、絵看板、細工物、生人形などがあり、これらはいずれもモダンアートが切り捨ててきた胡散臭さやハリボテ感にあふれているが、じつはこうした胡散臭さこそが人を惹きつけてやまないフェロモンだったりするのだ。だからモダンアートが破綻して久しい現在、再びというか、胡散臭い見世物的アートがはびこっているのかもしれない。

2016/11/25(金)(村田真)

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寺林武洋─LIFE III─

会期:2016/11/25~2016/12/18

Yoshimi Arts[大阪府]

大中小あわせて10点ほど。アパートの階段、台所、電灯、スイッチ、すり切れた畳など、実際に作者の身の回りにある品々や風景を、まあはっきりいってどうでもいいようなものたちを、自分の目線で、ほぼ実物大で精密に描いている。いわゆる写実絵画だが、描かなくていいような壁の汚れやシールの跡まで克明に描写している点で、「くそリアリズム」といったほうが正しいかもしれない。いわば正統派のくそリアリズム。もちろんホメてるんですよ。

2016/11/25(金)(村田真)

THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ

会期:2016/10/22~2016/01/15

国立国際美術館[大阪府]

金曜の夜は20時までやっているので最後に見に行く。エスカレーターで地下の展示室に降りると、入口に丸太を一辺20メートルの三角錐に組み上げた《雷》の一部が再現されている。1977年から10年間、毎年京都の鷲峰山・大峰山の山頂に設置し、雷が落ちるのを待つという「作品」だ。再現とはいえ実物を見るのは初めてだが、写真で見るよりはるかにデカイ。壁や天井に遮られた室内だからよけい大きく感じるのだろう。後に、ニューメキシコの平原に400本もの金属棒を立てて落雷を待つという、ウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》を知ることになるが、どちらも同じ77年に始めたというのは偶然の一致か。いずれにせよ、これだけ見るとアースワークの集団かと勘違いされそうだが、むしろ毎年これを組み立てるという「行為」を重視していたようだ。例えば発泡スチロールで巨大な矢印型の筏をつくって川下りする《現代美術の流れ》にしろ、12匹の羊を連れて京都から神戸まで歩く《SHEEP:羊飼い》にしろ、自然を相手にはしているけれど、そこでモノとしての作品を残すのではなく、無意味な行為(ハプニングと呼んでいた)に賭けようとしているのがわかる。展示は、プロジェクトごとにベニヤ板のパネルを立て、その上に写真や資料やポスターなどを並べ、記録映像を流す方式。きっちりと区画・整理するのではなく、ざっくりとした見せ方がプレイらしい。

2016/11/25(金)(村田真)

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畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景

会期:2016/11/03~2016/01/08

せんだいメディアテーク6階ギャラリー4200[宮城県]

畠山直哉のこの展覧会については、個人的にずっと気になっていた。東日本大震災から5年半が過ぎ、それぞれの写真家、アーティストたちの「いま」が問われつつある。そんななかで、大きな被害を受けた故郷の岩手県陸前高田を撮り続けている畠山が、何を考え、何をメッセージとして送ろうとしているのかを知りたかったのだ。
展示の全体は大きく2つに分かれている。第1部にはデビュー作の「等高線」(1981~83)から、2015年のメキシコ滞在中に撮影された新作(タイトルなし)まで、彼の写真家としての軌跡をたどる作品が並ぶ。「タイトルなし(哲学者)」(2012)、「ポズナン(恋人たち)」(2010)、「フィントリンク」(2009)、「カメラ」(1995~2009)など、これまでの個展にはあまり出品されていなかった珍しいシリーズも含まれている。
今回の展覧会は、むしろ第2部にこそ力点を置いて見るべきだろう。圧巻は、震災後にずっと撮り続けられている「陸前高田」(2011~16)のコンタクトシートが、長い机の上に3列に並ぶインスタレーションだった。8カットずつプリントされたコンタクトシートの数は552枚。全4416カットの写真には、2011年3月16日に陸前高田にオートバイで向かう途中に、山形県酒田のホテルで撮影された場面から、2016年8月撮影の陸前高田・気仙町の七夕の様子までが、克明に記録されている。
写真家にとって、手の内をさらけ出すようなコンタクトシートの展示には、かなりの覚悟が必要だっただろう。だが、そのコンタクトシートと、そこから選び出して壁面に展示した46点のプリントと照らし合わせて見ていると、「陸前高田」のシリーズがどのように形をとっていったのかが、生々しいほどの切迫感をともなって浮かび上がってくる。観客にとっても、一人の写真家の眼差しとシンクロしていく体験を味わうことができる稀有な機会となっていた。なお第2部にはほかに、震災前に撮影された「気仙川」(2002~10)のスライドショー(96点)と、今回東北の被災地の未来像を提示するという意味で撮り下ろしたという海面の写真、「奥尻」(2016)も展示されていた。
展覧会のタイトルの「まっぷたつの風景」というのは、イタロ・カルヴィーノのややシニカルな寓話的小説『まっぷたつの子爵』(1952)からきている。トルコ軍による砲撃で、善と悪の2つの半身に分裂した子爵の話は、そのまま津波によって極限に近いかたちに引き裂かれてしまった陸前高田の眺めに重ね合わせることができる。とはいえ、カルヴィーノの小説で悪の半身と善の半身のどちらも人々にとって迷惑な存在になってしまうように、復興が進んで陸前高田の傷跡が隠蔽されてしまえば、それで丸くおさまるというわけではないはずだ。風景がつねに孕んでいる二面性、両義性こそが、これまでも、これから先も、畠山にとっての最大の関心の的であることが、展示を見てよくわかった。

2016/11/26(飯沢耕太郎)

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