artscapeレビュー

2017年01月15日号のレビュー/プレビュー

驚きの明治工藝

会期:2016/11/12~2017/12/25

細見美術館[京都府]

明治期、日本の美術工芸産業は、数少ない輸出産業に見込まれて脚光を浴びた。開国に前後して海外へと流出しはじめた美術工芸品は、欧米で注目されてジャポニスムの潮流を巻き起こしたのである。江戸期に培われた各種工芸技術は新たな展開をむかえ、世界各地で開催された万国博覧会等で絶賛される。本展には、明治期を中心に昭和初期までの金工、漆芸、木彫、陶磁器、七宝、染織などのなかでも、とくに驚くべき表現や技法を用いた作品、130点余りが出品された。珍しいものとしては、「自在置物」と呼ばれる金工作品が20余り含まれる。「自在置物」とは、鉄や銀などで動物や昆虫などを間接や構造にいたるまで写実的につくり、実際にそのものらしく動かせるようにした作品である。早いものでは江戸中期に甲冑師、明珍が手掛けたものがあり、本展でも明珍清春作《自在龍》や明珍宗春作《自在蛇》、《自在鳥》、明珍宗国作《自在ヤドカリ》などが出品されている。明治期のものとしては宗義作《自在龍》、《自在蛇》、宗一作《自在鯉》、宇由作《自在伊勢海老》、好山作《自在カマキリ》、《自在トンボ》などが見られる。それらの多くは金属特有の重厚な光沢をたたえており、形状は確かに写実的だがその量感や質感、精巧で緻密な細工からは独特の不思議な存在感が漂う。熟練の技をもつ匠たちが腕を振るった、いずれ劣らぬ逸品揃い、しかしその一種奇妙な有り様に近代特有の時代感を感じずにはいられなかった。残念ながら「自在」具合を触ったり動かしたりして確かめることはできないが、会期中には一部の自在置物のポーズ替えが行なわれている。[平光睦子]

2016/12/19(日)(SYNK)

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5 Rooms 感覚を開く5つの個展

会期:2016/12/19~2017/01/21

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

それぞれ異なった領域で活動するアーティストたちの作品が、「感覚を開く」という基準で選出され、個展の集合として展示されていた。たしかに出和絵理(陶芸)、染谷聡(漆工芸)、小野耕石(シルクスクリーン)、齋藤陽道(写真)、丸山純子(インスタレーション)という5人の出品作家の仕事は、普段はあまり働かせることのない始原的、根源的な感覚を呼び覚まし、開放していく力を備えているように感じる。
そのなかでも特に心を揺さぶられたのは、聾唖のハンディを抱えながら活動する齋藤陽道の、写真によるインスタレーション《あわい》である。展示は2つのパートに分かれている。3枚の大きなパネルに、それぞれ29枚の写真画像を約10分かけてスライド上映する作品には、これまで齋藤が積み上げてきた写真家としての力量が充分に発揮されていた。1枚の画像が少しずつあらわれ、くっきりと形をとり、次の画像と重なり合いながら消えていく。その間隔は21秒だそうだが、息を呑むような緊張感があり、もっと長く感じる。画像の強度がただ事ではない。生まれたばかりの赤ん坊→花火→土手の上の2人の少年→正面向きの魚の顔→抱き合う2人→鹿の首を抱く少女→白いオウムと若い男→光のなかで赤ん坊を抱く女→牛の骨を抱えた少女。画像の連鎖のごく一部を抜き出してみたのだが、これだけではまったく意味不明だろう。だが、スライド上映を見ているうちに、それらの画像のフォルム、色、そして意味の連なりが、厳密な法則にしたがって、絶対的な確信を持って決定されているように思えてきた。
やはり「あわい」と名づけられたもうひとつのシリーズも面白かった。こちらは、3枚の写真を重ね合わせてフレームに入れ、透過光で照らし出している。スライド映写の途中の「重なり合い」の効果を、画像を多層化することでフリーズするという試みである。これまでは、オーソドックスな展示と写真集が中心だった齋藤の活動領域が、いまや大きく拡張しつつあるようだ。特に「スライドショー」という形式は、齋藤にとって、さらなる未知の可能性を孕んでいるのではないだろうか。よりバージョン・アップした展示を見てみたい。

2016/12/19(月)(飯沢耕太郎)

プレビュー:クラーナハ展 500年後の誘惑

会期:2017/01/28~2017/04/16

国立国際美術館[大阪府]

すでに国立西洋美術館で見た人も多い「クラーナハ展」を今さら取り上げるのもどうかと思うが、未見の筆者としては大阪展が楽しみでならない。その理由は当方のドイツ・ルネサンス(北方ルネサンス)体験の乏しさにある。まとめて作品を見たのはデューラーぐらい。いや、大昔の海外旅行でボッスも見たか。でもそれぐらいで、ブリューゲルやクラーナハは皆無に等しい。大体、昔は「ルーカス・クラナッハ」と表記されていて、それも絵ではなく山本容子の著作『ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き』(徳間書店、1989)で知ったぐらいだ。その後も森村泰昌の作品を通してオリジナルを知るなど、歯がゆい状況が続いていた。東京展の評判は関西にも届いているので、内容に対する不安は一切ない。万全を期して展覧会に臨みたい。

2016/12/20(火)(小吹隆文)

プレビュー:京都dddギャラリー第211回企画展 グラフィックとミュージック

会期:2017/01/20~2017/03/18

京都dddギャラリー[京都府]

グラフィックデザインと音楽の関係は、19世紀までさかのぼれる。トゥールーズ=ロートレックやミュシャが描いたミュージックホールの絵画やポスターはその先駆けと言えるだろう。レコードという複製媒体が登場し、音楽が一大産業になってからは、レコードジャケットやポスターが盛んにつくられ、両者の関係は切っても切れないものになった。そうした歴史を名作ポスターでたどるのが本展である。個人的には、音楽がインターネットで配信されるようになってからジャケットを見る楽しみが減ったと思っているので、レコード・CDジャケットも扱ってほしい。しかし今回はポスター展とのこと。それはそれで各時代の名作音楽ポスターが見られるのだから良しとしよう。さらに欲を言えば、会場に音楽のBGMを流す、会期中にレコードコンサートを行なうといった趣向があっても良いと思う。身勝手な要望ばかり並べたが、どのような展示になろうとも見に行くつもりだ。

2016/12/20(火)(小吹隆文)

前谷開「Drama researchと自撮りの技術」

会期:2016/12/14~2016/12/20

Division[京都府]

写真家・前谷開の本個展は、先立って上演された舞台作品に前谷自身が写真家として出演し、舞台上で同時進行的に「撮影」した写真を展示するというものだ。この舞台作品『家族写真』は、演出家・振付家と写真家が協働して制作する企画『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』のひとつとして、2016年8月に上演された(この上演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
『家族写真』は、舞台中央に置かれた簡易テーブルの周囲に、男女の出演者6名が集い、「父親」役が自分の死と生命保険について語ったり、激しい動きのソロやデュオが展開される作品だった。そこで描かれる「家族」「家庭」は、テーブルが象徴する一家団欒の温かい光景とは裏腹に、不協和音や痙攣的身体に満ちた不穏なものだった。前谷はこの「家族」の一員を演じつつ、時折、舞台の端に身を引いては三脚に据えたカメラを操作し、三脚を移動させ、内部と外部、見られる客体と見る視線を行き来しながら撮影を行なっていたが、上演時にはそれらのイメージ自体を見ることはできなかった。
本展で展示された「上演時に撮影された写真」は、奇妙な印象を与える。「自撮り」と題されているように、それらはすべて、ダンサーたちが激しく交差する舞台上でただ一人、静止してこちらを見つめる前谷自身の「セルフ・ポートレイト」なのだ。前谷は、自分が写らない舞台上の光景を「外から」撮影していたのではなく、レリーズ(カメラのシャッターボタンに取り付けるケーブルで、遠隔でシャッターを切るための道具)を舞台上で操作し、密かに「自撮り」を行なっていたのである。これらの写真を眺めていると、舞台の鑑賞時と見え方の印象が反転する。生の舞台の鑑賞時、私の眼は動いているダンサーに注がれ、前谷の地味な動作は後景に退きがちだった。一方、写真では、ダンサーの激しい動きはブレやボケとなって曖昧に希薄化し、フレームアウトして「意味の中心」から退くのに対して、こちらを見つめ返す前谷の存在が突出して前景化し、「異物」として見えてくる。
加えてここでは、舞台のフレームと写真撮影のフレームという、視線のレイヤーの二重化が起きている。自撮りという身体的行為の介在によって、舞台のフレームの正面性が撹乱され、解体され、瞬間的な凍結がいくつもの切断面に切り分けていく。連続した時間の流れはコレオグラフィの構成という必然性から切り離され、「シャッターの遠隔操作による自撮りのタイミング」という別の必然へと転送される。 この転送の結果として切り取られたイメージでは、作為と偶然、静止した一瞥と運動の軌跡の揺らぎが一つの画面内に奇妙に同居する。そこでは、「予め厳密に振付られた動き」がむしろ予測不可能なブレやノイズのように現われ、「振付られた身体の運動」というフィクションが曖昧なブレによって意味を解消させられていく一方で、その合間を縫って遂行された「撮影(自撮り)」が、強い作為性をまとって屹立し、写真という別のフィクションの機制を浮かび上がらせる。前谷は、舞台という「一方的な視線に晒される場」に自らも立ちながら、しかし同時にこちらを「見つめ返す」ことで眼差しの主体性を取り戻そうとする。そのとき、写真の中の前谷の眼差しを受け止め、(疑似的に)視線を交わす観客は、フレームの解除と再設定、眼差しの主体性の回復という企てに立ち会う目撃者として、共犯関係に巻き込まれるのだ。

関連レビュー

「家族写真」(高嶋慈):artscapeレビュー

2016/12/20(火)(高嶋慈)

2017年01月15日号の
artscapeレビュー