artscapeレビュー

2017年01月15日号のレビュー/プレビュー

柳根澤展

会期:2016/11/12~2016/12/04

gallery21yo-j[東京都]

昨日、多摩美術大学美術館の帰りに寄るつもりだったが、じっくり見たため時間がなくなり、最終日になってしまった。多摩美に比べてこちらは小展示だろうからスルーしようかと思ったが、いや見に行ってよかった。作品は80号ほどの正方形の大作3点に小品10点ほど。大作は3点とも緑がかった絵具で蚊帳らしきものを描いた室内風景で、4辺に数センチの余白を残し、そのなかに四角い蚊帳、さらに蚊帳のなかに透けて見える人物を入れ子状に配している。蚊帳のなかの人物というのも絵に表わしにくいものだが、それをあえて描こうとするところに画家としての心意気を感じる。蚊帳のほかに大作3点に共通しているのは、床が板張りであること、左端の上にまるで画中画のように外の街景を望む窓を設けていること。一方、10点の小品のほうは街並のようなものが描かれているが、山田正亮みたいに抽象化の進んだ画像も混在している。これはなんだろう? 大作との関係はあるんだろうかと振り返ってみると、小品のサイズは大作の左端に描かれた窓とほぼ同じくらいであることに気づく。ということは、これらは大作の窓の風景の習作なのか。それとも大作の窓からスピンアウトした「派生小品」なのか。小規模ながら迷宮のような展覧会。

2016/12/04(日)(村田真)

潮田登久子『みすず書房旧社屋』

発行:幻戯書房

発行日:2016/11/11

ユニークなドキュメンタリー写真+エッセイ集である。潮田登久子は1995年から「本と本の置かれている環境」をテーマにした写真を撮影しはじめた。本書に収められた「みすず書房旧社屋」の写真もその一環として撮られたもので、1948年に、芦原義信の設計で東京都文京区春木町1丁目(現・本郷3丁目)に建造された木造の社屋が、1996年8月に老朽化によって解体されるまでを追い続けている。
この旧社屋には、僕も一度だけ足を運んだことがある。およそ、みすず書房という日本有数の学術出版社のイメージにはそぐわない、下町のしもた屋という雰囲気の建物だった。それでも、潮田が撮影した写真を見ると、雑多に積み上げられた本の束、増殖する紙類、磨き込まれたテーブル、下宿屋のような流し、英字新聞が床に敷かれたトイレなど、いかにも「本をつくる」のにふさわしい、居心地のよさそうな環境であることがわかる。潮田は建物の外観や内装を丁寧に押えるだけでなく、その居住者たち、つまり編集部員や営業部員たちも撮影している。彼らのたたずまいも環境にしっくり融けあっている。夕方になると、近所の酒屋から缶ビールやおつまみを買ってきて、小宴がはじまるのだが、そんな和やかな談笑のなかから、いい企画が生まれてきたのだろう。いまや失われつつある、文化の匂いのする出版社が支えていたひとつの時代を、写真が見事に掬いとっていた。
本の装丁・デザインは潮田の夫でもある写真家の島尾伸三。当時みすず書房の編集部に在籍していた加藤敬事、横大路俊久、守田省吾、建築家の鈴木了二、写真家の鬼海弘雄と島尾伸三がエッセイを寄稿している。なお、版元の幻戯書房からは「本の景色/BIBLIOTHECAシリーズ」として、同じく潮田の写真で『先生のアトリエ』、『本の景色』が刊行される予定である。続編も楽しみだ。

2016/12/05(月)(飯沢耕太郎)

「暮らしを寿ぐ切り紙 窓花」展

会期:2016/12/02~2017/01/22

ATELIER MUJI[東京都]

「暮らしを寿ぐ切り紙 窓花」展@無印良品・有楽町アトリエムジへ。中国の中央部に暮らす人々が、新年を迎えるお祝いにつくる切り紙で、家屋の窓を飾る「窓花」を紹介する。とても素朴だが、生活の延長から生み出されるテンポラリーな建築の装飾として興味深い。

2016/12/05(月)(五十嵐太郎)

平井有太『ビオクラシー』~BIOCRACY~展

会期:2016/11/22~2016/12/24

Garter[東京都]

3.11以後の現代美術に何かしらの可能性があるとしたら、それは類まれな想像力を鑑賞者の眼前で発揮するという芸術の王道を突き詰めるほかないのではないか。あの次々と打ち寄せてきた黒い波に勝る映像表現、ないしは海岸線に茫々と広がった瓦礫の山に匹敵しうる造形表現、そもそも放射能汚染という不可視の脅威に太刀打ちできる想像力の強度。美術にかぎらず、あらゆる分野において、現実とは思えないような事態が現に次々と到来している以上、これまでの芸術表現が依拠してきた、想像力は無条件に現実に先行しうるとするアドバンテージは、もはや失効していると言わざるをえない。だとすれば、これからのアーティストに求められているのは、現代美術の文脈や歴史、ある種の規範を従順に内面化しながら、自らの作品をそれらに順接させることなどでは到底ありえない。そのようなナイーヴな作品は、いわば「芸術化しつつある現実」にたちまち呑み込まれ、消尽されるほかないからだ。むしろ必要なのは、各所で嘯かれる現代美術の規範などに惑わされることなく、かつ恐るべき速度で迫りくる社会的な現実に捕捉されることもなく、想像力を彼方に前進させる、たくましい推進力だろう。
平井有太の個展に体現されていたのは、まさしくそのような力強い推進力である。むろん、ライター/編集者としての才覚が手伝っているのだろうか、出品された作品のなかには、その推進力を言語的な枠組みに自ら制限してしまっているように見えるものも少なからずあった。だが、レゲエの生ける伝説、リー・ペリーの奇行を追尾した映像や、大麻の社会貢献を訴える人々にインタビューした映像などには、私たちの認識や感性を鮮やかに塗り替えるほどの想像力があふれていたことはまちがいない。言い換えれば、それらの作品は、私たちをこの淀んだ現実の彼方に投げ出すようなイメージを垣間見せたのである。
とりわけ注目したのが、汚染された土を収納した(と思われる)黒いフレコンバッグにあたかも大麻のような雑草を植えたうえで、神棚とあわせて展示した作品。ここにあるのは、違法化されている大麻の社会性と放射能に汚染された土壌の現実性、そしてそのような諸問題を含めて神に奉納する神聖性である。むろん大麻を被災地で栽培することで社会に貢献するという提案は、常識的な基準から考えれば、荒唐無稽というほかない。けれども、医療用大麻の効能や売人の労働環境の改善(!)などの証言を耳にすると、あながち的外れでもないような気がしてくる。むしろ、研究者や建築家などの知識人による被災地復興のための凡庸な提案などより、具体的かつ建設的、すなわち現実的だと思われるのだ。
なぜなら、その提案には人間にとっての幸福のイメージが確かに内蔵されているからだ。医療用大麻を必要とする病人にとって、それは症状を改善するための医療品というより、むしろ自らの幸福な「生」を実現させる必需品だろう。路上で薬物を販売していた売人が、顧客に「ありがとう」の一声をもらえる充足感を覚えた喜びは、彼らにとっての幸福以外の何物でもあるまい。どれほど非現実的に見えたとしても、法的正義やイデオロギー、高邁な理念などの陰にひそむ幸福のイメージを確かに感知できるという点で、現実的なのだ。
平井有太の作品が優れているのは、ますます非現実的な芸術性を高めつつある現実社会に拮抗しうる芸術的な想像力の強度を鍛え上げているからだ。そのようにして彼が示したイメージは、今後の私たちの道しるべになりうるだろう。

2016/12/06(火)(福住廉)

endless 山田正亮の絵画

会期:2016/12/06~2017/02/12

東京国立近代美術館[東京都]

初期の「Still Life」シリーズから、代表作の「Work」シリーズ、晩年の「Color」シリーズまで約220点による大回顧展。戦後まもなく始めた「Still Life」は、ピカソやモンドリアンのように静物画の解体から再構築、抽象化にいたる過程がたどれ、50年代なかばから40年近く続いた「Work」は、ジグソーパズルみたいな形態の組み合わせから、同心矩形、水平方向のストライプ、矩形の画面分割、表現主義的なタッチにいたる展開が見られ、最後の「Color」は青、緑、赤などほとんど単色の画面に行きついている。なかでも圧巻なのが、全体の半数近くを占めるストライプ絵画だ。ほぼ60年代を通して描かれたこのシリーズでのちに評価を得ることになるのだから、大きく扱われるのは当然かもしれないが、色やサイズは異なるとはいえ、評価もされないうちからよく10年間もストライプばかり描き続けたもんだと感心する。よほど強靭な信念を抱いていなければできないことだ。
でも意地悪な見方をすれば、10年後20年後にウケることを見越して計画を練り、予定どおり実行してきた確信犯だったのではないかと見ることもできる。実際、彼は90年代なかばに「ひとつの円環を形成」した、つまりやるべきことはやり尽くしたといって「Work」シリーズに終止符を打ってしまうのだ。ということは、40年におよぶ「Work」シリーズは、どこに行きつくかわからない絵画の冒険だったというより、あらかじめ着地点が想定されたひとつの壮大なプロジェクトだったといえなくもない。ってことは、その後の「Color」シリーズは「Work」とはなんの関係もない老後の楽しみだった、という見方も可能になる。そんなことありうるんだろうか、そんな割り切った考え方をする画家がいること自体、ちょっと信じられない。でももしそうだとしたら、それは凡庸な画家の思惑をはるかに超えている点でスゴイことだと思う。
さらに彼は作品台帳をつくって自分のすべての作品を管理していたという。これは見習うべき習性ではあるけれど、逆にその気になれば作品のデータを意図的に操作することもできるということだ。じつは山田は作品の制作年を偽ったとされ(学歴も東大中退と詐称)、90年代に評価が割れた。学歴詐称は人格が疑われる程度で済むが、制作年詐称は作品評価に直接響き、美術史上の位置づけを揺るがす。その疑惑を告発したのが美術評論家の藤枝晃雄であり、そして彼こそ山田を最初に正当に評価した人物にほかならない。にもかかわらず、というより、それゆえになのか、同展のカタログのなかで藤枝の名は巻末の参考文献を除いてまったく出てこない。なんともすっきりしない思いが残るのだ。制作年を偽ったかどうか真相はわからないし、万一偽ったとしても些細な範囲だろうけど、それでも疑惑があるというだけで、作品を見る目は大きく変わらざるをえない。作品を見る限り偉業としかいいようがないだけに残念。

2016/12/06(火)(村田真)

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