2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

2017年02月01日号のレビュー/プレビュー

セラミックス・ジャパン 陶磁器でたどる日本のモダン

会期:2016/12/13~2017/01/29

渋谷区立松濤美術館[東京都]

幕末の開港以来、他の工芸品とともに日本の陶磁器は欧米のジャポニスム・ブームに乗って海外に大量に輸出された。しかしそのブームは長くは続かなかった。明治半ばになるとブームは下火になり従来の日本趣味の輸出工芸は衰退へと向かう。輸出工芸の衰退は作家主義の近代工芸への転換の契機として工芸史において叙述されるが、陶磁器分野において「陶芸家」になり得たのはごく一部の人たちのみで、その他大勢、産地の陶磁器業者たちは、新たな製品、新たな市場を模索せざるを得なくなる。製品の市場、人々の生活様式が変われば、求められる製品やその意匠も変化する。陶磁器業者や産地は売れる製品を開発すべくさまざまな努力を重ねた。美術品から実用的な器へ、あるいは碍子や点火プラグのような産業用用途へ、窯業技術を応用した製品のジャンルは拡大し、意匠においては欧米の陶磁器製品を模倣したり、日本のアジア進出に伴って東洋趣味の製品が現れた。さらに、第二次世界大戦中には不足した金属に代わってそれまでにないさまざまな製品が陶磁器で代替されるようになった。しかしながら、これら名も無い多数の陶磁器メーカー、産地の仕事が美術館における近代陶磁の展覧会に取り上げられることは極めてまれなことで、本展のように明治から第二次世界大戦中まで、約70年間という長期にわたる日本の陶磁器産業の製品開発をデザインという側面から概観する展覧会は寡聞にして先例を知らない。
展示は4章で構成されている。第1章「近代化の歩み」では、ヨーロッパでの博覧会参加後の日本風上絵付けの隆盛、ゴットフリート・ワグネルの指導による技術改良、ジャポニスムの終焉とアール・ヌーボー様式の台頭への対応、試験場の設立など、明治期における陶磁器産業近代化の過程を辿る。明治初期において薩摩焼が海外で好評を得たため各地で類似の意匠による焼きものが作られ海外に輸出されたが、ジャポニスムの終焉とともに独自の技術、意匠によって局面を打開しようとした産地もあった。第2章「産地の動向」ではそうした産地の独自性が紹介されている。第3章「発展・展開」では、大正から昭和初期にかけての近代的な都市生活に適合的な陶磁器製品、意匠の開発、いわゆるデザイン、デザイナーが登場した様子、陶磁器試験場の多様な試みを見る。終章は戦中期。資源節約のための規格化や技術革新、金属代替製品などの試みに焦点を当て、戦後の陶磁器デザインへの展望へとつなげる。
最初に述べたとおり、本展は作家ではなく、作品でもなく、産業としての陶磁器──セラミックス──に焦点を当てており、会場にはうつわ以外に、照明器具、噴水器、洗面台、汽車土瓶、瀬戸ノベルティ(陶人形)、火鉢やストーブ、タイルなどの建築材料まで、多様な製品が並ぶ。ただしタイトルに「陶磁器でたどる日本のモダン」とあることから分かるように、本展の視点は陶磁器における近代デザイン運動にあり、それらが製品として成功し、売れたかどうか──どれほどのものが人々の生活の場に届いたかどうか──については十分に検証されていない。とくに陶磁器試験場の試みはいわゆる研究開発(Research & Development)であり、そこには商品化されていないものも含まれることに留意したい。国内、欧米、アジアといった製品市場の違いとデザイン開発との関係についてもさらに検討すべき課題だろう。また日本独自の製品、意匠が模索された一方で、ヨーロッパ陶磁のコピー商品が大量につくられてきた事実も忘れるわけにはいかない。ともあれ、本展は近代陶磁器デザインの歴史研究を深めるきっかけとなるだろう画期的な企画だと思う。[新川徳彦]


展示風景

関連レビュー

染付古便器の粋──青と白、もてなしの装い|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2016/12/12(月)(SYNK)

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武士と印刷

会期:2016/10/22~2017/01/15

印刷博物館[東京都]

「武士と印刷」。ストレートで魅力的なタイトルだ。しかしながら困惑させられる部分もある。なぜならば、「武士」という文字からは戦いがイメージされ、他方で「印刷」からは文化の香りがするからだ。もちろん「文武両道」という言葉に見られるように、両者を兼ね備えることは理想的人間像のひとつでもある。ここでの「武士」とは誰なのか。「印刷」とは何なのか。本展タイトルが定義するところを追っていくと、この企画の骨子が見えてくるようだ。
まず「武士」。さまざまな階層があるが、ここでは将軍および藩主クラスに限定されている。時代は戦国時代以降、江戸時代末期まで。というのも、2016年が徳川家康没後400年であることが本企画の背景にあるからだ。家康が生まれた戦国時代には大内(周防)・朝倉(越前)・今川(駿河)の戦国三大文化が花開き、それぞれ大内版、越前版、駿河版とよばれる印刷事業を行なっていた。今川氏のもとで人質時代を過ごした家康はそうした文化の影響を受けていると考えられる。じっさい、家康は伏見版とよばれる書物の印刷に木製活字をつくらせ(慶長4~11年/1599~1606)、駿河版の印刷には銅活字をつくらせている(慶長11~元和2年/1606~1616)のだ。「印刷」は技術のことではなく出版とほぼ同義だが、これらが大衆向けの出版物とは異なり利益を目的としたものではないことから、ここでは印刷という言葉を用いているという。そのほか、藩校の出版物は対象外とされている。これらの制約条件で定義した結果、本展でいう「武士による印刷」とは、戦国時代から江戸時代までのリーダーたちがなんらかの使命感で刊行したもの、政治を司るためのマニュアル、あるいは藩主が自分の趣味としてつくった印刷物ということになる。
使命をもってつくられた印刷物の最大のものは水戸藩第二代藩主・徳川光圀が編ませた『大日本史』だろう。趣味と教養が一致した著名な例は、古河藩主・土井利位が約20年をかけて観察した雪の結晶を収録した『雪華図説』か。なかには写本で十分ではないかと思われる内容のものもあるが、現代の自費出版同様、印刷物であることにステータスがあったようだ。「マニュアル」には武断政治から文治政治に転換するにあたって統治のために必要となった法に関するもののほか、実戦を経験することがなくなった武士たちのための兵法書などがある。
展示第1部は「武者絵に見る武士(もののふ)たちの系譜」。 洋画家・悳俊彦氏のコレクションによる歌川国芳の武者絵は第2部とは直接には関わらないが、江戸時代の庶民が抱いていた武士のイメージと実際の武士たちの姿とのギャップを物語る。第2部は「武士による印刷物」。展示室いっぱいに並んだ書物の数に圧倒される。展示は印刷に関わった人物別におおむね時代順になっており、印刷物の内容別ではない。展覧会の主役はあくまでも「武士」なのだ。
展示の最初に示されている「藩主印刷マップ」には、藩主が印刷に関わった藩が全国にわたっていることが示されている。ということは、これら武士による印刷物の存在は、地方における文化レベルの高さを物語るものなのだろうか。印刷物には奥付や版元が示されていないものが多く明確なことは言えないが、「武士による印刷」には大衆向けの出版物同様に「印刷都市江戸」の存在が大きいという。参勤交代の制度により、藩主には江戸藩邸で生まれ、江戸で多彩な文化、新しい知識に触れて育った人が多い。江戸には印刷出版のシステムも整っていた。それゆえ、江戸の環境が印刷藩主を育んだのだと、本展を企画した川井昌太郎・印刷博物館学芸員は指摘する(本展図録282頁)。そして「印刷都市江戸」の文化、システムは、明治維新とともに「印刷都市東京」へと引き継がれていくことになるのだ。[新川徳彦]


会場風景

関連レビュー

印刷都市東京と近代日本|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2016/12/13(火)(SYNK)

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マリメッコ展

会期:2016/12/17~2017/02/12

Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]

1951年、アルミ・ラティアによってヘルシンキに創業したフィンランドを代表する企業のひとつ、マリメッコ社の60年の歴史を、ヘルシンキのデザイン・ミュージアムの所蔵品でたどる展覧会。展示は3つのパートに分かれている。第1章はアルミ・ラティアの思想と代表的なファブリックの紹介。第2章では創業から現在まで、マリメッコ社の歩みを時系列で辿る。第3章ではパターンや色彩、デザイナーに焦点を当てて、マリメッコという企業、ブランドのアイデンティティを探る。
社名のマリメッコは女性の名前である「マリ(mari)」にドレスを意味する「メッコ(mekko)」を付けたもので、「マリのドレス」を意味する。また「マリmari」は創業者アルミ(Armi)の綴りを並べ替えたもので、マリメッコという企業がアルミ・ラティアの強い個性によって成長したことを物語っている。他方で、マリメッコが優れたデザインを生み出し、成功してきた要因は自由な作品づくりにあるといわれている。1964年にマイヤ・イソラがデザインした《ウニッコ》(ケシの花)をめぐるエピソードはそのひとつだろう。当時アルミ・ラティアはマリメッコの商品に花柄の図案は使わないと明言していたにも関わらず、この図案を採用。《ウニッコ》は現在でもマリメッコのイメージをかたちづくる代表的な図柄になっている。1968年から1976年までマリメッコ社で働き、現在京都のテキスタイルブランドSOU・SOUのデザイナーを務める脇阪克二によれば、マリメッコ社にはノルマやテーマ等の要求が一切なく、求められたことは「BE YOURSELF」だけだったという(『脇阪克二のデザイン』パイインターナショナル、2012年8月、29頁)。1974年から2006年までマリメッコ社のデザイナーを務めた石本藤雄は本展のためのインタビューで「売れないものでもつくらせてくれた」「売れないかもしれないけれども商品化を考えてくれる人たちが社内にいた」と語っている(本展図録、183頁)。1953年から1960年までデザイナーを務めたヴオッコ・ヌルメスニエミは「私がマリメッコでつくるものについて、アルミは何ひとつ口を出しませんでした。本当に何ひとつも」と述べている(本展図録、178頁)。売れないデザインは商品としてはやがて廃番になるのだが、それでも売れ筋を狙うのではなく、自由な作品づくりが可能だったのはなぜだろうか。これは私見だが、マリメッコのファブリックがスクリーン印刷だったことが理由のひとつだったのではないか。20世紀初頭に登場し、戦後ファブリックのプリントに多用されるようになったスクリーン印刷は、従来の織や染め、木版や銅版によるプリントと比べて量産のための初期費用が安く、それは少量生産も容易な技術であることを意味する。つまり万が一そのデザインが売れなくても、損失が少なくてすむのだ。もちろん、他社も同様の技術を用いることができたのでそれだけをマリメッコ社の成功の理由にはできないが、技術がデザイナーの自由を拡大したことは間違いないし、自由で多様なデザインがあったからこそ、その中からヒット作品が生まれたのではないだろうか。他方で、すべてのデザインが売れたわけでないことを考えれば、デザイナーの「自由」と販売面を含めた経営との関係がどのようなものであったのか、さらに詳細を知りたいところだ。
作品は鮮やかだが、展示スタイルはやや平板で彩りに欠ける。たとえば過去のショップの再現展示などがあっても良かったのではないか。解説では1979年のアルミ没後から1980年代の停滞と、1991年にCEOに就任したキルスティ・パーッカネンによる復活にも触れられていて、マリメッコ社の経営がつねに順風満帆だった訳ではないことが分かる。[新川徳彦]


展示風景

2016/12/16(金)(SYNK)

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茶碗の中の宇宙 樂家─子相伝の芸術

会期:2016/12/17~2017/02/12

京都国立近代美術館[京都府]

樂焼の茶碗で知られる樂家の歴史を、各代の茶碗でたどる展覧会。樂焼といえば初代長次郎の名は知っていたし、当代(15代)樂吉左衞門の作品は何度も見たことがある。しかし、ほかの代についてはまったくと言ってよいほど不勉強だった。本展を見て驚いたのは、代による作風の違いが思いのほか大きかったこと。樂家では初代や先代の踏襲を良しとせず、各代が独自の世界を追求してきた。本展ではそれを「不連続の連続」と呼んでいるが、なるほど確かにその通りだ。斬新な方向に振る代があったかと思えば、伝統に回帰する代もある。しかし、外見がいくら変化しようとも、核となる精神は微動だにしないのである。展示について述べると、照明の当て方が効果的で、小さな茶碗に気持ちを集中させることができた。会場全体に心地良い緊張感がみなぎっていたが、これも照明によるところが大である。展示構成は、全体の約2/3が歴代の作品、残る約1/3が当代の作品だった。筆者としては歴代の作品をもう少し多く見たかったが、このあたりは見る者によって評価が異なるだろう。

2016/12/24(土)(小吹隆文)

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染付古便器の粋──青と白、もてなしの装い

会期:2016/12/28~2017/01/09

Bunkamura Gallery[東京都]

牡丹に雀、竹に雀、菖蒲や水仙、楓、朝顔、波に鶴等々、白地に鮮やかな青で見事に絵付けされた陶磁器がギャラリーに並ぶ。中国では青花、ヨーロッパではBlue & Whiteと呼ばれ、日本では17世紀初頭に有田で磁器が焼かれるようになって以来、400年にわたって行なわれてきた伝統的な装飾技法である染付。とても美しい。美しいけれども、並んだ製品はいずれも便器だ。小便器も大便器も、外側はもちろんのこと、縁、内側にまで細やかに絵付けが施されている。用を足すための調度に、職人達はなぜこれほどまでの手をかけたのだろうか。その凝った意匠の存在はさておき、陶磁器製の和式便器はそれなりに伝統ある製品だと思い込んでいたのだが、生産が盛んになったのは明治半ばのことだ。明治24年(1891年)の濃尾大震災以降、復旧家屋にそれまでの木製に代わって陶器製の便器を設置する人たちが増え、東海地方を中心に陶器製便器が普及していくなかで、製品に染付画が施されたのだという。初期の形はそれ以前の木製便器に倣ったものだったが、その後、現在まで和式トイレに見られる小判型の磁器製便器が登場した。主要な産地は瀬戸(愛知県)、有田(佐賀県)、平清水(山形県)。技術的には石膏型や転写による絵付けが導入されて量産システムが成立していく一方で、明治37~38年(1904~05年)ごろには染付の磁器製便器は廃れはじめ、青磁釉を施したものが主流になる。大正12年(1923年)の関東大震災以降は需要の増大と衛生意識の高まりから、白い無地の磁器製便器が普及していった。ということは、染付便器の生産、流行は地域によっても差があるが、明治半ばから大正期にかけての30~40年間ほどの出来事ということになろうか。意外にも短い期間なのだが、骨董市場ではしばしば見かける品なので、相当数が生産され、設置されたのだろう。それにしても、木製の時代にはなかった便器への絵付けが陶磁器製になって行なわれたのはなぜなのか。陶磁器製品だからその他の器と同様、そこに絵付けすることが当然だったのだろうか。じつは便器への絵付けは、日本よりもヨーロッパが先行している。ウェッジウッド社など、イギリスの著名な陶磁器メーカーは18世紀中から精緻な絵付けを施したチャンバーポット(おまる)をつくっていたし、衛生意識が高まり上下水道が普及しはじめた19世紀半ばにはBlue & Whiteなどの絵付けやレリーフ装飾を施した水洗便器が登場している。 明治半ば、ヨーロッパの陶磁器製便器に倣って和式の便器に絵付けを施すようになったと考えても不思議ではなさそうだが、果たしてどうだろうか。
展示されている古便器は主に生け花「古流松應会」の家元・千羽他何之氏のコレクション。ふだんはINAXライブミュージアム(愛知県常滑市)で見ることができる。展示されている逸品の中でも「最高級」の品は、六代加藤紋右衛門(1853~1911)のもの。紋右衛門の窯では輸出向けの花瓶やピッチャー、チュリーンなどから、タイル、便器にいたるまで、あらゆる陶磁器製品を生産し、海外の万国博覧会や内国勧業博覧会に積極的に出品していた。日本初の和風水洗大便器、洋風小便器を製造したのも紋右衛門の窯なのだそうだ(ちなみに松濤美術館「セラミックス・ジャパン」展には、紋右衛門窯の「染付草花図サーバー」が出品されている)。こうした高級な染付の便器は主として料亭や旅館、富豪の屋敷の客用トイレに設置され、その文様が客人の目を楽しませたということだ。[新川徳彦]


展示風景

★──服部文孝「染付古便器の歴史」『染付古便器の粋──清らかさの考察』INAX出版、2007年11月、55~60頁。

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2016/12/28(水)(SYNK)

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