2018年01月15日号
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artscapeレビュー

2017年03月01日号のレビュー/プレビュー

showcase #番外:スナップショット、それぞれの日々

会期:2017/01/25~2017/02/05

gallery Main[京都府]

同展は、同志社大学教授で気鋭の美術評論家でもある清水穣が企画しているシリーズ企画の番外編である。これまでは八坂神社に程近いeN artsを会場とし、若手作家の紹介を旨としてきたが、今回は会場が麩屋町五条のギャラリーMainに変更され、作家のセレクトも、写真家の麥生田兵吾といくしゅんに加え、ベテラン美術家の中川佳宣がラインアップされている。しかも3人の作品がキャプションなしに混ぜこぜで展示されているのだ。本展のテーマは「スナップショット」。いつ、誰が、どこで、何を、どんな機材で撮っても成立するスナップショットを匿名で提示することにより、その表現方法を有効にしているものは何か、あるいは、人は何を拠りどころにして他者や世界と向き合っているのかを、観客に考えさえようとしたのだ。実際、ずらりと並ぶ匿名の作品を前にしていると、無意識のうちに作品を分類し、意味づけを行なおうとしている自分に気付いた。頭と眼の垢落としのためにも、定期的にこういう企画があるとありがたい。

2017/01/31(火)(小吹隆文)

並河靖之七宝展 明治七宝の誘惑──透明な黒の感性

会期:2017/01/14~2017/04/09

東京都庭園美術館[東京都]

明治の輸出工芸のなかで、七宝はやや特異な位置づけにあるように思う。ひとつには、陶芸や金工の技術が江戸期からの産業に根ざしていたのに対して、明治七宝は日本で用いられていた技術に依らず、舶来の(おそらく中国製の)有線七宝に由来するからだ。もうひとつは技術の担い手だ。近代七宝をはじめた梶常吉(1803-1883)は尾張藩士の子息で、職人の出自ではない。そして本展覧会の主人公、並河靖之(1845-1927)もまた武州川越藩家臣の息子。俸禄が少なく生活に困窮したためにはじめた「士族の商法」が、七宝づくりだった。並河と同じく明治29年に帝室技芸員になった濤川惣助(1847-1910)はもともとは陶磁器を扱っていた商人であり、やはり工芸の出自ではない。明治の七宝は海外への輸出を志向して現われ、一代にして粋を極めた、人も技術も新しい産業であり、そして他の輸出工芸と同様に1900年(明治33年)のパリ万博の頃からはやがて衰退へと向かうのである。
展示は、本館1階が「ハイライト」。明治6年に並河が初めて制作したという《鳳凰文食籠》から始まり、工房を閉鎖する大正期までの代表的な作品が並ぶ。本館2階と新館展示室は、明治七宝の系譜からはじまり、七宝界全般や並河個人の諸事情など織り込みながら作品の変遷をたどる構成だ。本展で特筆すべきは、実作品と併せてデザイン画が出品されている点であろう。七宝作品には署名がなされていないことが多いそうだが、今回の展覧会のための調査を通じて現存するデザイン画から並河作品と同定されたものもあるという。本展を企画した大木香奈・東京都庭園美術館学芸員の5年にわたるという展覧会準備の成果がそこここにあり、膨大な文献目録を含む図録は資料的価値が高い内容だ。
本展においてもうひとつ特筆しておくべきは、図録冒頭に掲げられた樋田豊郎・東京都庭園美術館館長の、明治工芸の評価軸に関する一文であろう。とくに「超絶技巧」の流行に関する功罪の指摘は刺激的だ。「技巧」に対して樋田館長が並河七宝の特徴として指摘するのは「文様」である。京都七宝の飛躍的拡大の理由は「並河七宝に代表される『創造的破壊』の成果」であり、「京都の七宝業者たちは、欧米でジャポニスムが流行していることを、神戸の外人商館あたりから聞き、それならばと七宝の値打ちを、異文化の人たちと頒かち合えるように、七宝の文様から日本人にしか絵解きできない要素を省いた」。 それは「七宝文様のグローバル化戦略だった」とする(本展図録10~15頁)。技巧ではなく表現に着目する動きは昨年の「驚きの明治工藝」展にもあり、むしろ近年の技巧評価への傾倒は村田コレクションのセレクションバイアスゆえではないかと思わなくもない。他方で樋田館長の「七宝文様のグローバル化戦略」説にはさらに検討が必要と思われる。たしかに本展では並河が外国人商人などからの評価を強く意識していたことが指摘されているが、「グローバル化戦略」といえるようなものがあったならば、最初に述べたとおり、七宝がなぜ他の工芸と同様に輸出衰退へと向かったのかを別の方向から説明する必要があろう。むしろ七宝文様において「創造的破壊」があったとすれば、それは伝統工芸に根ざしていなかったがゆえと考えたほうが良いように思われるが、どうだろうか。
本展は、伊丹市立美術館(兵庫県、2017/9/9~10/22)、パラミタミュージアム(三重県、2017/10/28~12/25)に巡回する。なお、出品作品のうちヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵品は東京都庭園美術館のみの展示となるそうだ。[新川徳彦]

★──黒田譲 『名家歴訪録 上編』明治32年(1899年)、48頁。

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2017/02/01(水)(SYNK)

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松永繁写真展 汀線(みぎわせん)

会期:2017/01/31~2017/02/12

ギャラリー・ソラリス[大阪府]

空、海、砂浜、岩などで構成される海岸線を、中判カメラによる長時間露光で捉えた銀塩モノクロプリントが並んでいた。波は形態を失い、白いガスがかかったような状態に。そして空も天候や時間帯が判然としないため、時空を超越した神話的情景を見ている気分にさせられる。少し脱線するが、映画『プロメテウス』にこんな場面があったような気がする。この例えは誤解を与えかねないが、それほどまでに特異な世界観の表現に成功しているということだ。作者の松永繁は2010年から日本各地の海岸線を訪れてこのシリーズを撮影しているが、画廊での個展は今回が初めてだという。オリジナリティーと技術は十分あるので、今後は精力的に個展活動を行なってほしい。

2017/02/03(金)(小吹隆文)

クレア・カニンガム『Give Me a Reason to Live』

会期:2017/02/04~2017/02/05

KAAT[神奈川県]

2012年のロンドン・オリンピックの関連イベント、「アンリミテッド」で注目を集めたクレア・カニンガムの日本初公演。「松葉杖のダンサー」というだけで、私たちは舞台芸術の本流とは「別枠」とみなしがちだが、カニンガムの舞台はアイディアに富んでいて、こうした「障害者のダンス公演」というものを考えるうえで示唆的な作品だった。本作のベースになっているのは、ヒエロニムス・ボッスの絵画に描かれた障害者の図であるという。音楽にはバッハが用いられるなど、キリスト教的な色彩の濃い作品であることは間違いない。フライヤーに用いられたのも杖を持つ腕が横に伸びて「十字」に見える舞台写真だった。とはいえ、こうしたテーマに基づいて解釈しなくても、惹きつけられるダンス的要素が本作にはあった。それはひとつにカニンガムと松葉杖との「デュオ」の魅力としてあらわれていた。例えば冒頭、舞台の隅に身を傾けると器用に杖を両壁に突き立てて、バランスをとる。松葉杖と身体とのジョイントが緊張を引き出す。他にも、立てた二本の杖に身体を任せて、首を床に近づけたりする。そんなとき、カニンガムの身体の各部の間で微妙な拮抗のせめぎ合いが起きている。ゆっくりとした動作で、派手な見所があるというのではないのだが、そこには見過ごせない微弱な運動が確かに発生している。松葉杖+ダンスという試みと言えば、マリー・シュイナールの作品(『bODY_rEMIX/gOLDBERG_vARIATIONS』)を連想するのだけれど、シュイナールの場合、バリバリに踊れるダンサーが枷を与えられて、しかしそれゆえにさらに一層アクロバティックな運動を見せるのに対して、カニンガムの運動はそんなスペクタクルとは無縁だ。その代わり、松葉杖というパートナーとの長い付き合いを感じさせる道理のある動きがそうである分、未知のダンスに見えてくる。このダンスに近いのは、あえて言えば、舞踏だろう。あるシークェンスでは、衣装の一部を脱ぎ、松葉杖を置いたカニンガムは、下着一枚の状態ですっと立ち、じっと前を向く。ほとんど何もしていないかのような直立はしかし、微妙な動きを含んでいて、緊張を帯びている。ゆっくりとだが彼女は眼差しを右から左へまた左から右へ移動させていた。その間、弱いがはっきりとした呼吸音が舞台を包む。この音にぼくは室伏鴻を想起した。もちろん、カニンガムに室伏のような強烈さはない。とはいえ、室伏のそれに似て、吐く音、吸う音が観客の身体を揺さぶっている。暗黒舞踏の祖・土方巽はエッセイ「犬の静脈に嫉妬することから」(『美術手帖』1969年5月号)で「五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生まれついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります。」と発言している。ただし、「不具者」はいまや、単なる踊りの霊感源ではなく、現実の肉体を自ら示す舞台上のパフォーマーとなっている。その転換こそ、新しいダンスの兆しになるのかもしれない。もちろん、このことはカニンガムの身体が動けばおのずと舞踏が生成されるなどといった単純な話ではない。カニンガムはしっかりとした方法論でダンスに挑んでいる。ぼくが記述したいくつかの例は、まさに彼女の技法といえるものだろう。それは舞踏とは異なり、イメージへのリアクションというより、アクションの微細な確認作業といったものだ。その真価はまだ筆者には未知数だ。と、筆者はあくまでもカニンガムを振付家として見た。もちろん、2020年を見据えた動きのひとつと捉える向きもあるだろう。しかし、そのような「政局」的な解釈から距離を置くことなしに、2020年以降に続く建設的なかたちは見えてこないだろう。

2017/02/04(土)(木村覚)

花岡伸宏 入念なすれ違い

会期:2017/02/04~2017/03/05

MORI YU GALLERY[京都府]

彫刻というメディウムには、垂直性、重力の影響、モニュメント性など、宿命的に引き受けざるを得ない特徴がある。20世紀にはそれらに抗する動きとして、モビールやソフトスカルプチャーなど多様な造形が生まれた訳だが、花岡伸宏が彫刻に導入したのは、コラージュと可変性であろう。彼の作品には木彫(人物像が真っ二つに割れる、ずれるなどしたもの)のほか、材木、廃材、布、衣服、印刷物などがコラージュのように配されている。また、一度発表した作品も恒久的とは限らず、改変可能な構造となっている。彼の作品が彫刻でありながらドローイングのような軽やかさをまとっているのはそのためだ。本展で特に驚かされたのは、無造作に脱ぎ捨てた衣服を作品として提示していたことである。筆者は最初、花岡か画廊スタッフが脱いだ服を置きっ放しにしていると勘違いした。ここにはもはや定型すらなく、インスピレーションが一時的に固定されただけだ。彫刻が宿命的に持つ諸要素や、芸術全般が志向する完全性、永遠性といった縛りから軽やかに抜け出し、新たな表現領域を開拓したこと。花岡作品の価値はそこにある。

2017/02/04(土)(小吹隆文)

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