artscapeレビュー

2017年04月15日号のレビュー/プレビュー

VOCA展2017

会期:2017/03/11~2017/03/30

上野の森美術館[東京都]

VOCA展とは、1994年以来、毎春、同館で催されている「平面」作品のコンクール展。今回で23回目を迎えた。第一生命保険株式会社という一民間企業による全面的な支援を受けているとはいえ、新人の登竜門としてはある種の歴史性と公共性をもっていると言ってよい。
ところがVOCA展ほど問題含みの公募展はないとも言える。それが「40歳以下」の有望な新人画家たちをいくぶん後押ししたことは事実だとしても、日本の現代絵画全体にとっては必ずしも幸福をもたらしているとは言い難いからだ。ここでは、そのことを、おもに3つの問題から指摘したい。

第一に、推薦制の問題。VOCA展は全国の美術館学芸員や美術記者、研究者らに推薦を依頼し、彼らから推薦されたすべての作家の作品を展示、そのなかから選考委員がVOCA賞をはじめとする数々の賞を授賞するという仕組みに則っている。そのため出品作品の多様性が担保されている反面、それらのあいだの質的な優劣が著しいという一面もある。平たく言えば、推薦者は自分の生活圏の中で画家を選出することが多いため、それぞれの地域性を強く醸し出すことはあっても、なかには全国的な水準に満たない作品が含まれていることも否定できない。初回以来、前回まで、ほぼ一貫して選考委員長を務めてきた高階秀爾は、図録に掲載された選考所感のなかで、本展の「多様性」をたびたび礼賛しているが、それはやり尽くされたと思われた平面作品の潜在的な可能性の現われとして考えているからだ。そのような見方がVOCA展の一面を言い当てているとしても、別の一面では必ずしも正しいとは言えない。なぜなら評価の対象を全国に等しく振り分けるという、いかにも民主的な公平主義は、絵画の優劣を冷徹に見定める勝負論とは、本来的にそぐわないからである。勝負論に徹するのであれば、まことに同時代的な絵画を評価することが可能となるが、そのとき機会を均等に与える公平主義は、足かせにしかなるまい。
第二に、選考委員の問題。VOCA展の選考委員を初回からほぼ継続して務めてきたのは、前述した高階をはじめ、酒井忠康、建畠晢、本江邦夫の4名。彼らが絵画を評価する基準が、程度の差こそあれ、おおむねモダニズム絵画論で一貫していることは、別のところで詳しく分析した(拙稿「絵画のゼロ年代──VOCA展選考所感の言説分析から」、『国立国際美術館ニュース』第176号、2010年2月1日発行)。ここで改めて繰り返すことは避けるが、この問題の核心は彼らが長らく選考委員の席を牛耳ってきたせいで、VOCA展は絵画の同時代性を捕捉することに、ことごとく失敗してきた点にある。現代美術の有力なアーティストを評価することはできなかったし(村上隆は二度、会田誠は一度参加しているが、両者はともに受賞していない)、2000年代前半頃から台頭してきたスーパーフラットに影響を受けたとおぼしき新しい絵画の動向を的確に言語化する作業も端から放棄していた(彼らの眼にそれらは「弱さ」としか映らなかったため、苦し紛れに説教するほかなかった)。おまけに授賞の適切な時機も失している。今回VOCA賞を受賞した幸田千依は、もともと優れたペインターとして知られているが、なぜこの作品が、なぜいま、高く評価されるのか、選考委員のコメントを読んでも到底納得できない。いかなる公募展であれ、多少のタイムラグは否めないにせよ、選考委員の批評眼はつねに新鮮でなければならないはずだ。そうでなければ、受賞した画家がいい迷惑である。
第三に、推薦者の問題。図録には必ず推薦者の短いテキストが掲載されているが、これらの大半は大いに疑わしいものばかりだ。私的のつもりなのか詩的のつもりなのか、個人的なエッセーのような代物から、哲学的ジャーゴンに依存した衒学的な物言いまで。あるいは、作品の構造や背景を深読みする分析は批評の役割のひとつであるとはいえ、確たる根拠もないまま一方的に鑑賞者の視線を誘導することを企む、きわめて政治的で独りよがりな文章も多い。愚劣な文章力は美術批評にとって致命的だが、そもそも作品を鑑賞して言語化するという基礎体力が全国的に著しく低下しているのではないかと訝るほかない。より根本的には、推薦者を選定する事務局の眼力も徹底的に批判されなければなるまい。

このように問題が山積みとなっているVOCA展だが、最大の問題は、それが問題含みであることが公然の事実であるにもかかわらず、誰もそれを指摘しないがゆえに、その問題の解決が先送りされ続けているという点にあるのかもしれない。陰口を叩くことは誰にでもできるが、それでは問題を黙認することにしかならないし、そもそも不毛である。必要なのは、問題の所在を正確に把握しながら、なおかつ、それを制度の内部にも送り届けることができる、客観的な言説である。文学的あるいは哲学的な色気を漂わせたがる美術批評ではなく、社会科学的な美術批評が待望されているのだ。
むろん例外がないわけではなかった。VOCA展の内部でも、その問題点を的確に指摘する言説は、きわめて少ないとはいえ、あった。例えば、山脇一夫は2000年のVOCA展で選考委員を務めたが、そのときモダニズム絵画論の失敗をはっきりと告知していたし、1995年に推薦者を務めた黒田雷児はモダニズムが標榜する普遍性への不信を明確に表明している。彼らの言説は、残念ながらVOCA展のなかで影響力を持つには至らなかったが、歴史的にはきわめて正当な言説として評価されなければなるまい。
だがモダニズムのゾンビを一網打尽にする時機がついに到来したようだ。今回の図録で選考委員の光田由里が打ち明けているように、建畠と本江が今回かぎりで選考委員を退任することが決定した。高階と酒井はすでに前回で退いているので、来春開催される予定の「VOCA2018」では、少なくとも選考委員の顔ぶれは刷新されるわけだ。これ自体は非常に喜ばしいことである。同時代の絵画を正当に評価することができなかったVOCA展が、ついに同時代に追いつくチャンスに恵まれたからだ。だがその一方で、私たちが来春注視しなければならないのは、そこで何が変わったのかという点ではなく、何が変わらなかったのかという点なのかもしれない。そこにこそ、ほんとうに根深い問題が現れるに違いない。

2017/03/27(月)(福住廉)

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六本木開館10周年記念展 絵巻マニア列伝

会期:2017/03/29~2017/05/14

サントリー美術館[東京都]

絵巻物は幅60センチメートルほどに広げた画面を左から右へ、順に送りながら鑑賞するものだ。しかしながら、文化財となってしまったそれらを、私たちが本来のスタイルで鑑賞することは難しい。美術館や博物館の展示では、絵巻物を広げた状態で、それもしばしばスペースの制約によって一部分のみを、期間を区切って場面替えしながら鑑賞することになる。では本来の鑑賞スタイルを再現しようとするならば、どのような方法が考えられるだろうか。複製品を手にとって見られるようにするか。高精細な画像をタブレット等のタッチパネル式のディスプレイに表示して、観覧者が画面を左右に送りながら鑑賞する方法も見たことがある。ただ、いずれにしても絵巻物を鑑賞するのは現代に生きる私たち自身だ。それに対して本展は、かつて熱心に絵巻物を集め、描かせ、鑑賞した「絵巻マニア」たちの視線、絵巻物受容の様相を辿ることによって絵巻物鑑賞の追体験を試みる、極めて歴史的なアプローチの展覧会だ。展示自体はオーソドックスなもので、「絵巻マニア」たちに関する史料と、それらに言及されている絵巻で構成されている。取り上げられている「絵巻マニア」は、後白河院、花園院、後崇光院・後花園院父子、三条西実隆、足利歴代将軍など。なかでも興味深いのは、絵巻を蒐集したり描かせるばかりではなく、作品を貸し借りしたり、手控えに自ら写しを制作した「マニア」の存在だ。室町時代の絵巻マニア、後崇光院(1372-1456)・後花園院(1419-1470)父子の場合、後崇光院の日記には親子での貸し借り、息子が他所から借りた絵巻が父親に又貸しされた様子などが記録されている。室町幕府第六代将軍足利義教(1394-1441)もまた、後崇光院・後花園院父子の絵巻物貸借の輪に加わっていた。さらに、第九代将軍足利義尚(1465-1489)のマニアぶりは特筆される。義尚は各所から絵巻を借り上げ、それは「絵巻狩り」と称すべき様相を呈したという。しかも気に入った作品は手元に残し返却しないこともあったため、義尚からの要求に対して絵巻を所有していた公家や寺社は早期の返却を条件にするなど、召し上げを警戒していた様子がうかがわれるという。史料上の制約から、本展のようなアプローチで見ることができる人物は「絵巻マニア」の一部に限定されざるを得ないだろうが、非常に興味深い視点であることは間違いない。[新川徳彦]

2017/03/28(火)(SYNK)

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大﨑のぶゆき「マルチプルライティング」

会期:2017/03/28~2017/04/22

ギャラリーほそかわ[大阪府]

絵具で描画されたイメージが溶け出し、おぞましくも美しく崩壊していく映像作品。一見何も描かれていない白いキャンバスだが、下地の上に特殊調合したエマルジョン塗料でイメージが描かれ、経年変化による黄変によって潜在的な像が未来において結像する「見えない絵画」。それらの傍らに置かれた円形の鏡の作品《観測者》は、刻々と変わる「現在」の相をその表面に映し出す。
大﨑のぶゆきの本個展において、いずれも問題となっているのは、「表面」とその複数性(表面の物質的な同一性とイメージの現われの複数性)であり、「絵画」というメディウムに不可逆的な時間性と現象性を導入することで、それは映像的な皮膜へと近づいていく。大﨑の関心はおそらく、「過去/現在/未来」という時間のあり方とともに、メディウムの差異とその撹乱にある。描画が溶け出す映像作品《untitled album photo 2017-01》は、何かの行事の記念に撮られた、晴れ着を着て自宅の傍に立つ男の子のスナップ、つまり「写真」を下敷きにしている。つまりその描かれたイメージは、「写真」を原資としつつ、描画材の流出という操作を仕掛けることで、イメージが変容/消滅する時間性を胚胎させている。像の輪郭がぼやけ、曖昧に溶けだしていく様子は、時とともに薄れゆく記憶のプロセスの追体験を思わせるとともに、個人の生のかけがえのない一瞬が、匿名的で交換可能な「記念写真」「家族スナップ」の集合的な性質へと溶解していく過程も想起させる。一方、溶け出した絵画をスチルとして撮影した写真作品も制作されている(変容/消滅へと向かう時間の流れの一時停止)。また、上述の「見えない絵画」は、数十年後、100年後の未来において徐々に像が現われるものであり、可視化すなわち「現像」までの時間が極端に引き伸ばされた「ネガ」であると言えるだろう。このように、いずれの作品も、絵画/写真/映像という媒体の性質を互いに含み持つことで区分を無効化し、判断を宙吊りにしてしまう。
本個展は、これまで個別のシリーズとして発表されてきた大﨑の試みに新たな試みを加えて編集的な視点から見せるものであり、複数のシリーズの並置によって、メディウムが相互浸透する界面と時間の関わりに大﨑の関心軸があることを示していた。

2017/03/28(火)(高嶋慈)

菅野ぱんだ「Planet Fukushima」

会期:2017/03/28~2017/04/10

新宿ニコンサロン[東京都]

菅野ぱんだの出身地である福島県伊達市は、東日本大震災で大事故が発生した福島第一原子力発電所から北西に約50キロ、宮城県との県境に位置している。強制避難の対象地域からは外れたものの、市内には放射能のホット・スポットが点在し、自主避難をした住民もいた。今回の展示は、彼女が震災直後から撮り続けた、同地域の写真群をまとめたものだ。
人物あり、建物あり、出来事ありの、やや雑多にさえ思える写真を撮り続けるうちに、菅野は視界が3つの領域に分断されているように感じてきたのだという。「遠景(風景)」と「近景(人間)」とのあいだに、「中景(放射能という異物)」が挟み込まれているのだ。そして同時に、過去─現在─未来という滑らかな時間の流れも、震災という大きな裂け目によって分断されることになる。そのような認識を表現するために、彼女はフレームの中に大小さまざまな複数の写真をおさめ、それらのフレームをさらに縦横に連ねていく展示方法をとることにした。それは、観客の固定した視点を攪乱するとともに、彼女が体験した時空間のズレや違和感を共有させるために、とてもうまく働いていた。
展示された写真のなかで特に強く印象に残るのは、何度も登場してくる放射能の線量計のクローズアップと、汚染土の処理施設の異様な景観を、上空から俯瞰して捉えたカットである。福島の出来事を特定の地域だけの問題として押し込めるのではなく、ミクロからマクロまで伸び縮みする視点を設定し、まさに宇宙規模の「Planet Fukushima」のそれとして捉え直そうとする意欲的な取り組みといえる。またひとつ、「震災後の写真」の優れた成果が、しっかりと形をとってきた。写真集としてもぜひまとめきってほしい。なお、本展は4月27日~5月3日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2017/03/28(火)(飯沢耕太郎)

《サグラダ・ファミリア》

[スペイン]

学部生のとき以来だから、27年ぶりにバルセロナに滞在した。午後に到着し、まず、《サグラダ・ファミリア》に行くと、すさまじい行列で驚かされる。前は天井もなかったが、巨大なコンクリートの塊が並ぶ土木現場のように、正面のファサードも着工している。最新技術を取り入れた新しい部分はやはりどこかヘンで、ガウディのオーセンテイシティという意味ではもう微妙な建築だが、さまざまな人の思惑と新技術が入り、別の意味で大変に興味深いヘンなモニュメントに変貌している。

写真:左上3枚、右上2枚=《サグラダ・ファミリア》、左下=再建された付属学校、右下=逆さ模型

2017/03/28(火)(五十嵐太郎)

2017年04月15日号の
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