artscapeレビュー

2017年06月01日号のレビュー/プレビュー

未来への狼火

会期:2017/04/26~2017/07/17

太田市美術館・図書館[群馬県]

1881(明治14)年、高橋由一は《螺旋展画閣》を構想した。文字どおり螺旋状の回廊を昇り降りしながら壁面に展示された油絵を鑑賞するという、ある種の美術館である。由一は日本橋を望ましい立地として考えていたらしいが、結局この構想は実現せず、現在ではその文書と図面が辛うじて残されているにすぎない。しかし、由一によるこの二重螺旋構造の楼閣は、明治期に輸入された「美術」概念の制度化の開始を告げる象徴的なモニュメントとして位置づけられている(北澤憲昭『眼の神殿』ブリュッケ、2009)。事実、それは江戸的な見世物性を排除する一方、絵画を一定の秩序のもとで展示することによって、この世の森羅万象を視覚的なイメージとして統合する装置だった。
高橋由一の《螺旋展画閣》の話から始めたのはほかでもない。この4月に開館した太田市美術館・図書館の建築的な特徴が、由一の《螺旋展画閣》の構想と著しく近しいように思われたからだ。吹抜けの空間を中心に、その周囲を回廊が螺旋状に取り囲む。館内を巡り歩くうちに、いつのまにか上階へと移動しているという経験が何より楽しいし、このような文化施設に恵まれた太田市の子どもたちが心底うらやましい。ただ異なっているのは、その動線が単線的ではなく複線的であること、そしてその回廊には美術が展示されているわけではなく、図書が陳列されているという点である。
美術館は館内の中央部に組み込まれていた。回廊や階段によって接続された大小さまざまな展示空間を移動しながら鑑賞するという仕掛けである。開館記念として催された本展は、太田市という歴史的風土のなかで生まれた絵画や写真、映像、工芸、詩など、9名のアーティストによる作品を見せたもの。いかにも総花的な展覧会で漫然とした印象は否めないが、それでも見応えがある作品がないわけではなかった。
例えば淺井裕介の泥絵はすでに各地で発表され高く評価されているが、今回最も大きな展示空間で発表された作品は以前にも増してダイナミックな魅力を倍増させていた。それは、消すことによって描くスクラッチの技法をより効果的に画面に取り込んでいたばかりか、メディウムの飛沫やしたたりをおそらくは意識的に前面化させていたからだろう。ときとして単調になりがちだった泥絵の画面に、果てしない広がりと奥行きをもたらすことに成功していたのである。
だが本展の拡散した印象はキュレーションに起因するというより、むしろ建造物の性格に起因しているのではないか。なぜなら本館における美術館の機能は図書館のそれと絶妙な距離感で隔てられており、そうであるがゆえに、この美術館には《螺旋展画閣》のような視覚効果を取り込むことが期待できないからだ。美術館と図書館を棲み分けるのではなく、双方を有機的に統合する方向にこそ、未来の狼火は立ち上がるのではないか。

2017/05/07(日)(福住廉)

群馬の美術2017─地域社会における現代美術の居場所

会期:2017/04/22~2017/06/25

群馬県立近代美術館[群馬県]

群馬県における現代美術の状況を検証した展覧会。同県内で活動している15人のアーティストによる作品が展示された。
いま「展示された」と書いたが、厳密に言えば、この言い方は正しくない。なぜなら出品作家のひとりである白川昌生の作品が県の指導により撤去されたからだ。基本的には「展示された」が、部分的には「撤去された作品もある」ことを補足しておかなければ、事実を歪曲して伝えかねない。
撤去されたのは、同館と同じく「群馬の森」にある「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフに、その外形を布と支持体で再現した立体作品。以前、東京の表参道画廊で発表されたとき実見したが、《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》というタイトルや関連映像がなければ、モチーフを連想することができないほど、ミニマルな作品である。白川はかつて《敗者の記念碑》という作品を制作したことがあったように、この作品はモニュメントの歴史性や権力性を再考させるシリーズの一環として位置づけられよう。
それが撤去された正確な理由はわからない。県が「朝鮮人犠牲者追悼碑」の廃止を求めて裁判で係争中であることが大きいことが推察されるが、重要なのは鑑賞者の批評を待つより先に、行政が作品批評の機会を独占してしまったという事実である。もとより美術作品の解釈は多様であり、その多様性は行政や、あまつさえ作者でさえ管理することはできない。だからこそ美術作品は私たちの知性や感性を大いに育むのである。にもかかわらず、この件で県は作品鑑賞の機会を独占したばかりか、その解釈を一義的に押しつけることによって、作品の評価を不当に貶めた。私たち鑑賞者は、こうした横暴を到底容認してはならない。美術館は作品を公平に鑑賞させる責任を放棄したばかりか、私たち鑑賞者の「見る権利」を阻害したからだ。これは、アーティストの言い分や美術館の事情、行政の思惑とは一切無関係に、自律的に主張しなければならない。
白川は件の作品が撤去された後、別の場所に展示されていた幟の作品を、当該箇所に移設した。そこに書かれていた言葉は「わたしはわすれない」。むろん撤去を直接的に指しているわけではないが、状況的にそのような文脈に接続されて解釈されることを白川は熟知しているのだろう。撤去を柔軟に受け入れつつ、返す刀で斬りつけるアーティストの挟持を見た気がしたが、それに満足してはならないだろう。このような事態が続けば、私たちはますます「現代美術の居場所」を失うことになりかねないからだ。

2017/05/07(日)(福住廉)

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狩野岳朗個展 分岐する思考

会期:2017/05/06~2017/05/20

hitoto[大阪府]

本展を一言で説明すると「気持ちのいい絵画展」になろうか。作品は抽象画で、乾いた色調の筆跡や刷毛目と、極細の線で構成されている。極細の線は画廊の壁面にも引かれており、線の先には英単語が記されていたので、空間全体でひとつのインスタレーションと見なすべきかもしれない。しかし筆者はその意図を理解できなかったので、単純に絵画展として鑑賞した。画面の線と面と色彩は相互に呼応している。即興なのか、厳密なルールを設定したのかは分からないが、無駄な手がひとつもない優れた画面構成だ。それでいて適度に力が抜けていて、観客に緊張を強いることもない。つまり「気持ちのいい絵画展」なのである。

2017/05/08(月)(小吹隆文)

舟田亜耶子展 Catch the pie in the sky

会期:2017/05/13~2017/06/03

CAS[大阪府]

華やかなプリント柄のワンピースや、カラフルなハイヒールを着用した女性たちを、ファッション写真さながらのポーズで撮影した写真作品。でも、何かがおかしい。服と靴が舞台の書き割りのように平板なのだ。じつはこれらは、ファッション雑誌に掲載された服や靴をトレースした絵を元に拡大プリントしたパネルである。なるほどこの方法なら、どんな服でも着せ替え人形のように身に着けられる。憧れのファッションブランドも思いのままだ。フェイクだけど……。舟田の作品は、消費の欲望を「絵に描いた餅」として提示し、ブランド信仰を軽やかに皮肉っているところが面白い。そういえばずいぶん昔に、本作と似たエピソードを雑誌かテレビで見たことがある。とある女子高生が体育館シューズにサインペンでシャネルのロゴマークを手描きして履いていたのだ。この行為をアートに昇華すると本展になるということか。

2017/05/15(月)(小吹隆文)

むらたちひろ internal works / 水面にしみる舟底

会期:2017/05/16~2017/05/28

ギャラリー揺[京都府]

身近な風景を撮影した画像のネガを、インクジェット捺染でプリントした染色作品。エッジがぼやけた画像が、意識の底に沈殿した記憶を連想させる。作品はダブルイメージになっており、最初は布の表と裏からプリントしているのかと思った。実際は、プリントしていない面を表側にして、部分的に水をかけているそうだ。水の影響で裏面にプリントされた像が滲みながら浮かび上がり、白昼夢のような不思議な光景が出現する。作家にとってこれらのイメージは、「確かにあるけれど触れることができない存在(=記憶の断片や肉体を失った後の人)」や「他者の喜びや悲しみ(=完全には分かち合えない感覚)」に通じるとのこと。染色という物理的な現象を用いて、人間の繊細極まりない感覚を具現化した手腕に、静かな感動を覚えた。

2017/05/17(水)(小吹隆文)

2017年06月01日号の
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