artscapeレビュー

2017年06月15日号のレビュー/プレビュー

読売日本交響楽団 第568回定期演奏会

会期:2017/05/19

東京芸術劇場[東京都]

ロジェストヴェンスキーが指揮する超遅いテンポによるブルックナー交響曲第5番@芸術劇場。いまではあまり演奏されない、弟子が脚色した初演のシャルク版ゆえに、ただでさえ緩急の激しい曲が、笑っちゃうほどドラマティックになっている。ラストは最後尾の列にずっと座っていた金管隊がすくっと立ち上がり、沈黙を破って、大爆音のフィナーレだった。いつまでも鳴り止まない拍手を含めて、観客の反応が面白いライブである。

2017/05/19(金)(五十嵐太郎)

観世能楽堂

GINZA SIX[東京都]

2度目のGINZA SIXだが、今回は地下の観世能楽堂を見学した。松濤から移築したもので、前回と同様、鹿島建設が担当したという。客席を少し減らし、ゆったりさせつつ、正面席は増やし、全体としては細長い平面のホールになった。本舞台の屋根は天井から吊っており、多目的ホールとしての使用も想定し、隅の柱をとれるという。また非常時の備蓄や、帰宅困難者の滞在も想定しており、都心ゆえのスペックを備えている。

2017/05/19(金)(五十嵐太郎)

showcase #6 “引用の物語 Storytelling”

会期:2017/05/05~2017/05/28

eN arts[京都府]

「引用の物語」をテーマに、金サジと三田健志を紹介する2人展。金サジは、韓国、日本、中国など、複数の地域の神話や民話、民俗信仰を思わせるモチーフを散りばめた、汎東洋的で混淆的なイメージを、西洋の宗教画を思わせる荘厳な図像として結晶化させる。一方、三田の作品は、一見すると美しい壮大な風景写真に見えるが、遠近感が奇妙に歪み、めくれた紙の端が画面の隅に写り込んでいる。これは、画像共有サイトでタグを辿りながら風景画像を入手し、プリントアウトした紙を折り曲げて凸凹を付け、半立体的に構築した「風景」の中に、旅行者や冒険家の画像を挿入して、「旅する風景」として再撮影したものだ。また、画面下端には、その画像に行き着くまでに辿ったタグの羅列が印刷されており、タグを「羅針盤」のようにしてネット上の膨大な画像の海を旅する行為が「旅人」になぞらえて提示されている。本展では、金と三田の両者の作品の共通性として、「引用を介して別の物語を語る」という手法が抽出されている。
金サジの《物語》シリーズについては、過去の本欄でこれまで数回にわたり取り上げてきた。今回の展示では、作品の準備段階として日常的に撮りためているというスナップ写真を合わせて展示する試みに加え、《物語》シリーズの新たな方向性を見ることができた。日々のスナップ写真で金がカメラを向けるのは、老いた身体(の一部)、生まれたばかりのヒナ、猟の獲物の血で赤く染まった川、切り花が漂う川面、供えられたまるごと一頭の豚、月蝕のようにおぼろげに霞む月、妊婦の膨らんだ腹、赤い火で逆光に黒く写った人体など、老いと誕生、死と生、そして儀式や供物といったイメージを強く感じさせる。これらを通して《物語》の作品を見ると、生と死はつながり合っており、その循環を円滑に行なう儀式を司るためにシャーマン的な存在がいる、ということが半ば直感的に了解される。
また、今回の新作では、異形の姿を露出させた大樹の根元に座る、妊娠した女性の頭上に、2匹の蝉が飛んでいる。精霊のような存在の飛来、妊娠、そして青い衣は、「受胎告知」の東洋版を思わせる。「2匹」の精霊が彼女の体内に入って生まれたのが、別の作品で提示された「陰陽のような2対の小さな胚」と「双子の少女」だろう。これまで断片的なイメージとして提示されてきた《物語》シリーズに、時系列的な展開が見え始めた。生と死、男性と女性、人間と獣といった境界が融合し、複数の文化が有機的に混じり合って単一の起源から浮遊した「物語」が完結する日を楽しみに待ちたい。

2017/05/20(土)(高嶋慈)

阿部淳「写真書簡」

会期:2017/05/09~2017/05/31

The Third Gallery Aya[大阪府]

デジカメとインクジェットプリントが普及する以前、裏面が印画紙になったハガキが販売されていた。自分で写真を焼き付け、切手を貼って投函すれば相手に届く、お手製のポストカードである。阿部淳はこれを使い、1982年7月5日から1984年の3月13日まで、「毎週、月水金に郵送する」というルールを決めて、スタジオシーンという写真事務所に写真を送り続けていた。そしていったん中断した後、1997年5月に再開し、2000年2月まで続けた。本展は、ハガキの郵送という手段で発表されたこれらの「写真書簡」を、アーカイヴァルな展示として紹介するものだ。写真はすべてモノクロで、都市空間、路上でのポートレイト、動物などを陰影のコントラストや緊張感ある構図で切り取ったスナップショットが多い。
ギャラリーでの展示や写真集の刊行、雑誌への掲載といった既存の定住地ではなく、郵便制度を介して「作品」を流通させること。既存の制度とは別の、外部の回路を作品伝達の手段とする姿勢は、メール・アートとそのラディカルな実験性を想起させる。だが、そうした阿部の「写真書簡」を、ギャラリー空間で「展示」することは、アーカイヴァルな検証可能性を開く反面、再び制度内へと回収し、物象化・商品化してしまう危険性をはらむ。そうした問題に対して本展は、1982~84年の前半期と1997~2000年の後半期で異なる2つの展示形態を採ることで、巧妙に回避していた。
まず、前半期の「写真書簡」は、2枚1組でグリッド状に整然と展示されている。これは、元々阿部自身が、送った順に2枚を1セットとして、写真集の左右見開きのように構成を考えていたことに基づく。いわば、「1ページ毎にバラして送られた写真集」「構想されたが存在しない写真集」を、見開きページの連続として「復元」する試みだ。これにより、左右の2枚どうしの主題、諧調、構図のリンクやバランスが「再発見」される(さらにここでは、単体では完結せず、つねに関係性のなかで読まれる存在としての写真が浮上する)。「未完の写真集」の潜在的な構想を「復元」するというこの手続きを支えるのが、ハガキの表面に宛名などとともに記された日付とナンバリングである。この時、時系列のオーダーは本というリニアな構造へそのままパラレルに移行し、リニアな構造を支える秩序として振る舞う。
一方、後半期の「写真書簡」は、「イメージ」単体の/見開きの構成としての完成度を見せるのではなく、無造作に積み上げられたハガキの山の物量感が、物質的な堆積として提示される。表も裏もごっちゃになったその集積の中では、宛名と住所、差出人の記名、日付とナンバリング、さらに切手と消印、「郵便ハガキ」の印字といった「作品以外」の情報がノイズとして露出する。いや、ここでは、作品の「内」と「外」、「表」と「裏」の区別は曖昧に融解し、むしろそうしたノイズ的な情報こそが、これらが「ハガキ」であることを証立て、プリントされた写真イメージを表裏一体のものとして支えている。ここで浮上するのは、例えば旅先から送る絵ハガキや家族写真がプリントされた年賀状のように、送る側も受け取る側も楽しむコミュニケーションツールとしての写真のあり方である。
阿部の「写真書簡」は、写真のコミュニケーションツールとしての性格に着目し、「作品=ハガキ」を流通の海に潔く投げ込む一方で、「写真集」としての美的な構成の潜在性も担保する。それは一見、実験性と保守性が同居し、どちらにも振り切れない折衷的な姿勢ともとれる。しかし、純然たる「作品」であると同時に「コミュニケーションツール」でもあり、「非物質的な画像」でありながらもさまざまな情報が刻印される物質的表面を持ち、そうした相反する性質が幾重にも折り重なった「写真」の複雑さを照射しているのではないか。

左上:© Abe Jun「写真書簡」



展示風景


2017/05/20(土)(高嶋慈)

茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術

会期:2017/03/14~2017/05/21

東京国立近代美術館[東京都]

長次郎が始めた樂茶碗の系譜を400年以上にわたってたどる展覧会だ。前半のパートが初代から14代の歴史、そして後半が15代の樂吉左衞門による作品を紹介する。日本の建築家の系譜も、このようにお家芸をたどれるが、近世から現代までの長いスパンを通じて、特定の技術と表現に関する伝統と変化を確認できるのは興味深い。個人的には、3代の道入や14代の覚入が挑戦した変革が面白い。

2017/05/21(日)(五十嵐太郎)

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2017年06月15日号の
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