artscapeレビュー

2017年08月01日号のレビュー/プレビュー

サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで

会期:2017/07/05~2017/10/23

国立新美術館×森美術館[東京都]

東京・六本木の2つの美術館、国立新美術館と森美術館の展示室をフルに使った大規模展示である。インドネシア、カンボジア、シンガポール、タイ、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオスの現代美術家、80組以上が集結するという展覧会は、これまでにないスケールであり見応えがあった。ただあまりにも多彩な内容なので、全体像をつかむのがむずかしい。写真を使った作品としては、本展のポスターにも使われた、赤い提灯のオブジェの衣装を着て歩き回るリー・ウェン(シンガポール)の《奇妙な果実》(2003)、イー・イラン(マレーシア)が写真スタジオで撮影された大量の肖像写真をインスタレーションした《バラ色の眼鏡を通して》(2017)、リム・ソクチャンリナ(カンボジア)の国道沿いの家の変容を克明に記録した《国道5号線》(2015)など、興味深いものが多かったが、大きなインスタレーション作品と同時に見るのは、やや辛いものがあった。
展覧会の関連企画として、森美術館で「MAMリサーチ005:中国現代写真の現場──三影堂撮影芸術中心」展が開催されていたが、こちらもとても有意義な企画だった。三影堂撮影芸術中心(Three Shadows Photography Art Centre)は中国・福建省出身の榮榮(RongRong)と日本・横浜出身の映里(Inri)のカップルが、2007年に北京郊外の草場地に立ち上げた現代写真センターである。中国の若手写真家たちの公募展「三影堂撮影大賞」、フランスのアルル国際写真フェスティバルと提携した「草場地 春の写真祭」など、意欲的な企画を次々に実現し、中国現代写真の展開に大きな役割を果たしてきた。2015年には中国・廈門にも、三影堂廈門撮影芸術中心をオープンしている。
創立者の一人の映里が日本人ということもあって、三影堂と日本の写真界とのかかわりは深い。森山大道(2010、2015)、細江英公(2011)、原久路(2012)、荒木経惟(2012)、蜷川実花(2016)など、日本の写真家たちの個展も何度も開催している。にもかかわらず、中国の現代写真家たちの作品が、日本ではほとんど紹介されていないのは問題ではないだろうか。同様に、「サンシャワー」展に出品した東南アジア諸国の写真家たちの仕事も、もう少しきちんとしたかたちで見てみたいものだ。

2017/07/04(火)(飯沢耕太郎)

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サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで

会期:2017/07/05~2017/10/23

森美術館+国立新美術館[東京都]

森美術館と国立新美術館といえば六本木の2大美術館。その2館が国立と私立の枠を超えて共同企画した最大規模の、日本で最大ということは世界でも最大の東南アジア現代美術展ということだ。しかしなんで東南アジアなのか。2館共同で大規模な現代美術展を開くなら、腐っても鯛ではないがやはり欧米の最新動向を知りたいし、国策として重要というならそれこそ中国と韓国を(できれば北朝鮮も)採り上げるべきだし、それ以前になぜ日本の現代美術をやらないのかとの不満も出てくるはず。そんな疑問がもたげてくるのも、必ずしも展覧会が満足いくものではなかったからだ。
展覧会は1980年代から現在までASEAN10カ国から選んだ86組のアーティストによる約190点を、「情熱と革命」「さまざまなアイデンティティー」「発展とその影」「歴史との対話」など9つのセクションに分け、大ざっぱに国立新美術館から森美術館へと時代が移るように構成されている。初期のころには絵画もあるが、大半を占めるのはインスタレーション、パフォーマンス、映像、そして観客が参加することによって成立する作品だ。このように絵画が減って作品が非物質化していくのは世界的傾向だが、特に東南アジアに著しいように感じられるのは、もともと油絵の伝統がないため初めから本気で取り組んでいる者が少なく、たとえ本気で取り組んでも一線に浮上する可能性が低いからではないか。いきおい伝統も技術も資本もさほど必要ないパフォーマンスや参加型作品に走ってしまいがちなのだ。また、それぞれの国の抱える問題を作品化するには、絵画よりインスタレーションやパフォーマンスのような形式なき形式に訴えるほうが手っとり早いからでもあるだろう。そして選ぶほうもそれが東南アジアの現代美術と思い込み、ついそうした作品を中心に選んでしまいがちになるのではないか。あくまで推測だが。
それはそれとして、見ごたえのある作品が出ていれば問題ないのだが、残念ながら見て楽しんだり感動したりする作品はきわめて少なく、大半は解説を読み、それぞれの国の事情や作者の置かれている状況に思いを馳せることで、初めて作品の意図を理解することができるのだ。もちろん理解して「ああよかった」と納得できる作品ならいいのだが、逆に「だからどうした?」と問いたくなるような作品もある。加えて、出品作家の何割かは90年代から福岡あたりで紹介されていて、絵画やインスタレーションならまだしも、いまさら似たようなコンセプトの観客参加をやられても興ざめするばかり。あるいはそれを伝統なき「伝統芸」として受け入れるべきなのか。と文句ばかり書いたので、最後に少しだけホメたい。森美術館にあったフェリックス・バコロールの《荒れそうな空模様》。手前の展示室にも音が漏れてくるのでなにごとかと思って入ってみると、天井から吊り下げられた1000個を超す風鈴が扇風機の風でジャーと音を立てているのだ。色も音も動きもあって、美しくもあり、恐ろしくもある作品。

2017/07/04(火)(村田真)

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國府理「水中エンジン」REDUX

会期:前期2017/07/04~2017/07/16、後期2017/07/18~2017/07/30

アートスペース虹[京都府]

國府理(1970~2014)が2012年に発表した問題作《水中エンジン》。同作は彼が愛用していた軽トラックのエンジンを水槽に沈めて稼働させるもの。エンジンを水に沈めること自体に無理があり、2012年の個展(初お披露目)では彼がつきっきりでメンテナンスを続けていた。同作は発表時期からも分かる通り、東日本大震災の原発事故から着想したものだ。その後、2013年に西宮市大谷記念美術館(兵庫県)での個展に出品され、今年4月から6月にかけて小山市立車屋美術館(栃木県)で行なわれた「裏声で歌へ」展にも再制作版が展示されている。さて肝心の本展だが、会期を2週間ずつ前期と後期に分け、前期は記録映像とエンジンのみを吊り下げた状態で展示し、後期は再制作版と2012年の個展で撮られた写真2点で構成された。同作は震災後につくられた美術作品のなかでも特に重要なものであり、その姿が記録だけでなく(再制作版とはいえ)実物で示されたのは特筆すべき成果だと思う。別の観点でいえば、われわれはひとつの美術作品が伝説化されていく過程をつぶさに見たことになる。例えば関根伸夫の《位相─大地》のように、何十年経っても消えない美術アイコンがここに生まれたということか。こういう卑俗な発言をすると美術ファンや関係者から軽蔑されるかも知れないが、それもまた一面の事実だと思う。

2017/07/04(火)、2017/07/18(火)(小吹隆文)

《あべのハルカス》

[大阪府]

《あべのハルカス》へ。日本は都市計画とランドマークが連動せず、なかなか眺めるための引きがとれないのだが、隣の広場「てんしば」からだと、《あべのハルカス》の外観がよく見える。内部に入ると、JCDデザインアワード2017で銀賞となった「BAKE CHEESE TART」の店舗もある。そして初めて展望台に登った。透明感あふれる開放的な空間である。ただし、建築土産を探したら、ミニチュアがほとんどないのが残念だった。代わりに、《あべのハルカス》のゆるキャラ、「あべのべあ」のグッズばかりで、これがアイコン建築として弱いことをうかがわせる。

2017/07/05(水)(五十嵐太郎)

境界を跨ぐと、

会期:2017/06/25~2017/07/06

東京都美術館[東京都]

2年前、隣接する武蔵野美大と朝鮮大の境界に仮設の橋を架け、双方のギャラリーを行き来できるようにする「突然、目の前がひらけて」という交流展が開かれた。いくつかのメディアで紹介されたこともあり、ぼくも見に行きたいと思いつつ、残念ながらかなわなかった。そのときのメンバーを中心にしたグループ展「境界を跨ぐと、」が開かれるというので、これはひょっとして2年前の交流展を振り返るドキュメント展かもしれないと思って見に行く。出品は市川明子、鄭梨愛、土屋美智子、灰原千晶、李晶玉の5人。で、期待は見事に裏切られ、タイトルどおり「境界を跨」いだあとの、つまり現在の各人の作品を紹介しているのだ。彼女たちは過去に留まってはいなかった。トホホ。仮にぼくが2年前の交流展を訪れたとしても、個々の作品を見ることより、むしろ両会場をつなぐ「橋」を渡るという体験に興味があったのだ。同様に今回もそれぞれの作品より、この5人をつなげた「橋」とその後の状況(向かい風も予想される)を知りたかったわけ。われながら失礼な話だが、本当だから仕方がない。
といいつつ、ひとりだけ目に止まった作家がいた。最初は少女趣味のイラストかと勘違いしたが、よく見るとすごく筆達者な李晶玉。会田誠か山口晃を思い出してしまった。数百円のカンパで入手した小冊子にも、「絵画内の絵画という設定は往々にしてダサい。フレーム額縁やら絵画の四角やら、出さんほうがいい。どうせ作者による虚構という事に変わりないのだから、むしろそれは構造が複雑化するほど強調されていくしかないのだから」とか「美術は脆弱だ。ピクシブは自由だからこそ、もはや不自由だ。旗は模様になるか。君が代はただの歌になるか。アリランはただの歌になるか」など、きわめて冷徹な批評性を有する文章を寄せている。彼女が今後どのように世に出るか、出ないか、楽しみにしたい。

2017/07/05(水)(村田真)

2017年08月01日号の
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