2017年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

2017年08月01日号のレビュー/プレビュー

マームとジプシー10th Anniversary Tour クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ

twitterでつぶやく

会期:2017/07/07~2017/07/30

彩の国さいたま芸術劇場 小ホール[埼玉県]

藤田貴大の高校時代を描いた過去の3作品をリミックスした構成であり、舞台空間も奥行き方向に三分割されている。したがって、物語としての一貫性よりも、めくるめく舞台転換と散りばめられた多様な要素が複雑に重合する演劇だった。それは視覚と記憶をめぐる断片が反響し合う時空の体験に身を委ねるものでもあった。

2017/07/08(土)(五十嵐太郎)

《OM TERRACE》

twitterでつぶやく

[埼玉県]

仙台から埼玉へ移動する。同日に2都市間で演劇をハシゴするのはさすがに初めてだが、大宮駅東口に藤村龍至の《OM TERRACE》が完成していたので立ち寄る。場所は本当に駅前だった。トイレ以外の屋内空間がない1階と屋上だけの屋外施設であるにもかかわらず、エレベータも設置し、かなり空間に余裕をもった公共施設だった。ベンチ(ゆえに、排除型にならない)やサインも建築化し、確かに階段やテラスで人々がくつろいでいた。

2017/07/08(土)(五十嵐太郎)

チェルフィッチュ「部屋に流れる時間の旅」仙台公演

twitterでつぶやく

会期:2017/07/07~2017/07/08

仙台市宮城野区文化センターパトナシアター[宮城県]

京都や東京の公演では全然チケットをとれなかったのに、仙台は楽勝で、しかも空席が残っていたのが気になった。物語の形式において部屋で女性の死者が一方的に男性に語るサミュエル・ベケットの『ねえジョウ』を思いだ出したが、大きく異なるのは、青柳いづみの生々しい身体が現前すること。そして希望だったはずの震災後の現在を問う。さらに、そこに未来の女による語りも重なる。

2017/07/08(土)(五十嵐太郎)

荒木経惟 写狂老人A

twitterでつぶやく

会期:2017/07/08~2017/09/03

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

荒木経惟は過去形の写真家ではなく、現在進行形の写真家である。そのことを充分にわかっているつもりでも、1980~90年代のあの凄みのある仕事ぶりと比較すると、2000年代以降の荒木にある種の「やり尽くした」感を見てしまう人も多いのではないだろうか。だが、今回東京オペラシティアートギャラリーで開催された、「写狂老人A」を見て、彼のいまの仕事がそれどころではない状況にあることがよくわかった。
最初の部屋に展示されている「大光画」(50点)に、まず度肝を抜かれる。『週刊大衆』に連載中の「人妻エロス」シリーズを中心にした140×100センチの大画面のプリントが並んでいるのだが、ここまで生々しいヌードを、ほぼ等身大で、至近距離で見るという視覚体験はほかにない。観客はここで完全に荒木の写真世界に取り込まれていくことになる。以後、「空百景」、「花百景」、「写狂老人A日記 2017.7.7」、「八百屋のおじさん」、「ポラノグラフィー」、「非日記」、「遊園の女」、「切実」とほぼすべて「最新作」が並ぶ。だが、そのなかで最も衝撃的だったのは、1964年の電通写真部時代に制作された「八百屋のおじさん」と題する、スケッチブックに写真を貼り付けた手作り写真集だった。銀座の路地裏で店を開く、眼鏡で金歯の中年の「おじさん」の「ネオレアリズモ」のドキュメントだが、同じアングルで撮影した写真を執拗に繰り返すなど、後年の荒木の写真集のかたちがすでに実践されている。このような作品は、これから先も発掘されてくる可能性がありそうだ。荒木の写真家としての潜在的な埋蔵量は、まさに計り知れないものがある。
展示の最後のパートは、これまで刊行された写真集を紹介するコーナーで、2017年現在の総点数は520冊に達している。この数字がどこまで伸びるのか、それを考えると気が遠くなってくる。

2017/07/08(土)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00040493.json s 10137679

百々俊二「A LIFE 1968-2017」

twitterでつぶやく

会期:2017/07/07~2017/09/10

Gallery 916[東京都]

本展のリーフレットのために「人の匂いのする川」という百々俊二論を書いた。そのなかで百々の50年以上にわたる写真家としての軌跡を、大阪平野を貫いて流れる淀川に喩えたのだが、展示を見て確かにその通りだと納得することができた。出品作は300点以上、壁だけでなく床にまで大きな作品が並ぶ展覧会場を歩き回るうちに、大河のゆったりとした流れに呑み込まれ、河口まで一気に運ばれていくように思えてきたのだ。
1968年、九州産業大学写真学科の2年生のときに、ニコンFにトライXフィルムを詰めて撮りに行ったという佐世保の「原子力空母エンタープライズ阻止闘争」の写真は、糊の痕も生々しく、スケッチブックに貼られたままの状態で展示されていた。その最初のパートから、東日本大震災後に撮り始めた8×10インチ判カメラによる力作「日本海」、さらに現在も撮り続けられている「春日山原始林」のシリーズまで、圧倒的な量感の写真群が、次々に目の前にあらわれてくる。百々のカメラワークの特徴のひとつは、35ミリ判や8×10インチ判にとどまらず、6×6センチ判、4×5インチ判のポラロイド、さらにデジタルカメラなど、さまざまな撮影機材を自在に使いこなしていることだ。彼の目の欲望とエネルギーの噴出の大きさを支えるには、一種類のフォーマットではとても無理ということなのだろう。
とはいえ、幅の広い被写体を多様な手法で撮影しているにもかかわらず、そこには明らかに一貫した身構え方がある。それこそが「人の匂い」に対する手放しの、素早い反応にほかならない。それが一番よくあらわれているのは、デビュー写真集『新世界むかしも今も』(長征社、1986)にまとめられた、路上スナップのシリーズだろう。この35ミリ判と6×6判を併用して撮影された写真群には、百々の人懐っこい、だが冷静に被写体を値踏みする、スナップシューターとしての天性の眼差しがよくあらわれている。この展示をひとつのきっかけとして、大阪出身の写真家たちに共通するスナップショットのあり方について、きちんと考えてみたいと思った。

2017/07/08(土)(飯沢耕太郎)

▲ページの先頭へ

2017年08月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ