2018年12月01日号
次回12月17日更新予定

artscapeレビュー

2018年03月15日号のレビュー/プレビュー

金川晋吾「長い間」

会期:2018/01/27~2018/02/25

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

毎年この時期になると、「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、現代写真家の企画展が開催される。今年は「蒸発」を繰り返す父親を撮影した「father」シリーズで注目を集めた金川晋吾(1980、京都府生まれ)をフィチャーした「長い間」展を見ることができた。

2008年から撮り続けられている「father」は、すでにかなりの厚みに達しており、2016年には青幻舎から同名の写真集も刊行されている。今回は出品点数を14点に絞り、大きめのプリントを並べて、父親のポートレートと観客とが正対するような展示にしていた。そのことによって、彼自身の人生をそのまますべて呑み込んでしまったような、なんとも不可解かつ曖昧な中年の男の存在感が、より生々しく露呈しているように感じた。金川は父親にカメラを預け、毎日自分の顔を撮影してもらうというプロジェクトも試みているのだが、それらの画像は映像作品としてスライドショーのかたちで見せている。その上映時間はなんと3時間22分。さすがに全部見ることはできなかったが、しばらく見続けていると、なかなか目を離せなくなってしまう。

もうひとつ、今回は金川が2010年から撮影し始めた「叔母」(父親の姉)のポートレート作品19点もあわせて展示されていた。彼女も理由がわからないまま失踪し、20数年間行方不明になっていたのだという。ここでも「father」と同じく、彼女の顔貌や微妙な身体の傾きを、ことさらに感情移入することなく淡々と写し取っているだけなのだが、やはり見ているうちに、写真に強く引き込まれていく。「人間とは何か?」という根源的な問いかけを受け止めないわけにはいかなくなる。どちらも、まさに「長い間」見続けていたくなる、奇妙な引力を持つ写真群だ。

なお同会場では、「平成29年度横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展」として、「写真の中の身体」展が併催されていた。横浜市所蔵の古写真、写真機材のお披露目展だが、こちらもよく練り上げられたいい展示だった。

2018/02/07(水)(飯沢耕太郎)

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トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために

会期:2018/01/21~2018/05/06

国立国際美術館[大阪府]

全フロアを使用した、開館40周年記念展。第1部「The Multilayered Sea:多層の海」では「記憶や時間の多層性」を扱った作品、第2部「Catch the Moment:時をとらえる」ではパフォーマンス作品(とその記録)を中心に展示。コレクションを核に、本展のために制作された新作群を加えた構成となっている。

第1部「多層の海」では、「失われ(かけ)た記憶とその修復」に向き合う作品群が目を引く。例えば、「ジャコメッティ」の影に埋もれた元恋人の女性彫刻家の生涯を、息子の証言/映画的な再現映像で辿るテリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーの《フローラ》。スクリーンの表/裏に投影された2つの映像が同期することで、証言/フィクション、記憶/再現、カラーの現在/モノクロの過去が表裏一体のものとして交錯する。また、小泉明郎の映像作品《忘却の地にて》は、第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させることで、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する。ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダは、60年代の前衛美術を2年間熱心に記録し続けた美術ファンの男性によるスクラップブックを、紙のシワや裏写りまで正確に再現。「記録の空白」を埋める一個人の記録活動に敬意を示すとともに、彼の記録方法に倣って、「現在の東京」の美術動向を記録したもう一冊のスクラップブックを制作した。チラシやチケット、写真を紙に貼り付け、手書きのメモを添えるというアナログな方法だ。そこには、歴史を参照し、その方法論を「再利用」しつつ「現在」へとアップデートをはかろうとする作家的態度への自己言及性も見てとれる。

また、「コレクションとのコミッションワーク」も新たな試みとして注目される。ピピロッティ・リストは、高松次郎が「影」を描いた壁面絵画に映像を投影。お馴染みのポップで浮遊感あふれる植物や水中の映像が漂うが、「高松作品」である必然性に乏しい。地味で埋もれがちな高松作品をカラフルに救済し、「エントランスで観客の目を引く仕掛け」に留まる点が惜しまれる。また、カリン・ザンダーは、収蔵作家143名から自作にまつわる「音」を集めた《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》を制作。観客は、作家名のみが記されたキャプションの前で音声ガイド機のボタンを押して「鑑賞」する。物理的実体の代わりに「作家の肉声や制作時の音」を収集した本作は、一種の美術館批判と言えるだろう。あるいは、サービス重視に努める美術館での「作品鑑賞」が「オーディオガイドを聞く体験」に他ならず、「作品の不在化」に対する皮肉ともとれる(ちなみに、本展自体の「オーディオガイド」も例にもれず用意されている)。

一方、パフォーマンス作品(とその記録)に焦点を当てた第2部では、コレクションを紹介しつつ、ライブパフォーマンスを展示に組み込むことで、「収集」が困難な作品に向き合う美術館のビジョンを模索する。フルクサスのインストラクション(塩見允枝子)、記録写真(ヴィト・アコンチ、植松奎二、榎忠)、記録映像やビデオアート化(マリーナ・アブラモヴィッチ)、パフォーマンスに使用された残存物(工藤哲巳)というように、これまでの「パフォーマンスの収蔵方法」(=メディアの変換)を見せつつ、その延長線上に、生身のパフォーマーが展示室で行なうライブパフォーマンスを組み込んでいる。例えば、アローラ&カルサディーラの《Lifespan》は、同館で初めて収蔵されたパフォーマンス作品である。天井から吊るされた古代の小石に、3人のパフォーマーが息や口笛を吹きかけ合い、蘇生や交信を試みるようだ。

こうした取り組みは、「新たな美術館像」の提示としてチャレンジングである一方、慎重に考慮すべき側面もある。「美術館への収蔵」がパフォーマンス作品の制作の前提となり、ある種の「囲い込み」「選別」につながる可能性は否定できない。例えば、野外で行なったり、暴力的な要素や身体の露出を含むものは排除され、「美術館の展示室で安全に見せられる作品」が暗黙の内に収蔵の前提条件となるおそれがある。それは、政治的なボディ・アートやフェミニズム・アートにおける「支配的体制への身体的抵抗」という歴史的背景を切り捨ててしまうことに繋がりかねないだろう。この点で、ティノ・セーガルの参加は看過できない。出品作《これはプロパガンダ》は、観客が展示室に入ると、監視スタッフと同じ服装をして紛れたパフォーマーが歌い出し、不在のキャプションの代わりに「作品タイトル、作者名、制作年」を口頭で告げるというものだ。収蔵や展示にあたっての契約を口頭で行ない、一切の記録化を禁止するセーガル作品は、「パフォーマンスの物象化」への極北的な抵抗を示すようでいて、美術館制度との共犯関係の下に成立する。「監視スタッフ」という通常は不可視化されている存在を可視化しつつ、「行為の依頼や代行」という権力関係が浮上するのだ。

「パフォーマンス作品の収蔵」の取り組みは、既に海外の美術館では始まっている(例えば、上述のセーガル作品はテートが収蔵している)。それは、固定化された物理的実体に依拠する展示/美術館という近代的制度の中に、「時間軸の経験」を導入するものとして、根本的な変化をもたらすだろう。

2018/02/10(土)(高嶋慈)

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市川孝典×鬼海弘雄「sprinkling A-side」

会期:2018/02/08~2018/03/09

Basement GINZA[東京都]

市川孝典は、60種類以上の線香で紙を焦がしたり、穴を空けたりして繊細で緻密な画像を描き出していく「線香画」と呼ばれる手法で知られるアーティストである。これまでは、彼自身の記憶の中の視覚像を再現する作品が中心だったのだが、今回のBasement GINZAの展示では、写真家の鬼海弘雄のポートレートや風景作品をモチーフにした作品を発表した。会場には鬼海がインド、アナトリア(トルコ)で撮影した写真も並び、さらに「線香画」だけでなく、3種類の顔料で画像を描き、それを電動サンダー(紙ヤスリ)で削りながら仕上げていく、新たな手法の作品も展示してあった。

市川の作品は、むしろ絵画というよりは写真に近いのではないかと思う。カメラやフィルムや印画紙こそ使っていないが、頭の中の画像を紙に定着するプロセスはストレートな写真そのものであり、絵画的な改変や変更はまったく行なわれていないからだ。「見える」ものをそのまま再現するという、最も基本的な写真の原理を、彼は自らの身体をカメラと化して体現しているわけで、そのこと自体が驚くべきことだ。それだけではなく、今回のコラボレーションを通して見ると、市川が鬼海の写真の本質をきちんと把握し、むしろそれを増幅して表現しているのではないかとも思えてくる。他者が撮影した写真を「偽りの記憶」として再現するという今回の試みは、さらに大きく発展していく可能性を秘めているのではないだろうか。

なお同時期に、東京・池の上のギャラリーQUIET NOISE arts and breakでも、市川の新作展「Slip out」(2月8日〜2月17日)が開催された。こちらはSNSの画像をモチーフに、電動サンダーで仕上げた作品群だが、はじめて色つきの画像にトライしている。意欲的に作品世界の幅を広げつつある。

2018/02/10(土)(飯沢耕太郎)

会田誠展「GROUND NO PLAN」

会期:2018/02/10(土)~2018/02/24(土)

青山クリスタルビル[東京都]

表参道にて、ビルの2フロアを使い切った気合いの会田誠展を見た。15年ほど前にミヅマアートギャラリーで遭遇した新宿御苑計画をはじめとして、もうひとつの東京都庁舎や新国立競技場、アクアラインの風の塔に対する具象的なオルタナティブ、アイコン建築を切望するマグカップなど、さまざまな東京/日本に対する破天荒な空間的な提言が一堂に会する。ヨーゼフ・ボイスなど、美術史へのオマージュを散りばめながら、痛快にいまの建築・都市を嗤う。だが、とても批評的である。かつてバブル期には世界中のアヴァンギャルドを呼び寄せ、大胆なデザインに実現のチャンスを与えたが、いまや東京はクレームを言われない建築や開発ばかりに縮こまり、当たり障りのないコンサバティブなデザインばかりになってしまった。そうした建築界に殴り込みをかけるような展覧会である。建築の卒計でも、ぶっ飛んだアイディアを見たいと思っているが、おそらく学内でつぶされるのだろう。

むろん、過去にもアーティストによる空間の提案がなかったわけではない。例えば、荒川修作は自らがデザインした集合住宅を湾岸につくろうとしていたが、「本気」だった。当時、建築家が東京計画を発表しても、そうした力強さが感じられなかったことを考えると、その本気はインパクトがあった。一方、会田は本当に実現するという切実さとは違う持ち味をだしている。また皇居に巨大美術館を建設するという彦坂尚嘉の皇居美術館空想も大胆なアイディアだったが、会田によるマニフェストの文章は、天皇や皇居の名前をだすのは身の危険を感じ、憚れるといった主旨から、はっきりと名言せず、示唆するにとどめている。これも全共闘の時代を生きたアーティストとの世代差なのだろう。とはいえ、会田の腰が引けているわけではない。安倍首相とおぼしき人物による日本孤立化の演説(過去にはこたつで飲んだくれているビンラディンも演じた)などの作品を発表しているように。なんちゃってという姿勢を入れることに現代のしたたかさを感じさせる。


《NEO 出島》

《「風の塔」改良案:「ちくわ女」完成予想図》

《建築雑誌「BLUE’S MAGAZINE」のために描いた東京オリンピック2020メインスタジアムのイラスト》(左)、《「TOKYO2020」ドローイング》(右)

《新宿御苑大改造計画》


公式サイト:http://www.obayashifoundation.org/event201802.html

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プレビュー:ビル地下に出現した「原っぱ」──会田誠展「GROUND NO PLAN」|村田真:フォーカス

2018/02/11(日)(五十嵐太郎)

TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』

会期:2018/02/12~2018/02/13

KAAT神奈川芸術劇場 ホール[神奈川県]

梅田哲也が劇場のテクニカルチームに「インターン」として潜入して制作した、というのがタイトルの由来。本作は、「舞台上に見るべきものは何もない」という表象批判・劇場批判をリテラルに遂行しつつも、劇場の物理的機構そのものを用いて圧倒的な感覚的体験の強度をつくり出した。

観客はまず、本来は「見えない」ところに吊られてあるはずの多数の照明装置が下ろされた舞台を目にすることになる。裏方スタッフたちによって、移動式の一階席の椅子が舞台裏に運ばれ、エレベーターに乗せられ、運び去られていく。あちこちに設置されたスピーカーの出力チェックが行なわれ、劇場空間が音響的な遠近感をもって体験される。ゆっくりと上げ下げされる照明装置。階段状にせり上がる客席の床。そうした物理的機構の「運動」と裏方の現場作業を見た後、観客は二階座席に誘導され、舞台の前列に並んだオーケストラを見下ろすことになる。チューニングがいつしか即興的な演奏へと変わる。照明装置が一段ずつ上昇し、焚かれたスモークにまばゆい光が当たり、機械の森の幻影のように直交する光と影が移ろう。オーケストラピットはゆっくりと下降し、楽器隊は見えなくなるが演奏は続く。無人で空っぽになった舞台空間上を、照明装置の投げかける光と影、そして音響が満たしていく。上方に吊られた反響版が下降を始め、ゆっくりと角度を変えながら夜のとばりが下りるように客席と舞台の間を遮っていく。囁き声、そして呼吸のような音。再び反響版が上がると、舞台上には椅子や機材がきちんと並べられ、「いつも通り」裏方スタッフたちがテキパキと行き交っていた。


[© Rody Shimazaki]

まず、通常は不可視である舞台上の構造をむき出しにし、「非日常」のイリュージョンを出現させる舞台の「日常」の光景を見せる。そして、劇場機構を駆使した、光と音による圧倒的な「非日常性」を体験させた後、空っぽだった舞台上には再び機材や裏方が姿を見せ、「日常」へと回帰する。本作の構造はこのように記述できるだろう。それは非日常と日常が何度も反転しながら入れ替わる交替劇であり、光から闇へ、生から死へ、そして夜と死を潜り抜けて再び生へと回帰するドラマでもある。単なる表象批判や劇場批判を超えて、崇高感すら漂う感覚体験へと反転・昇華させた点が鮮やかであり、そこに本作の意義はある。


[© Rody Shimazaki]

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/

2018/02/12(月)(高嶋慈)

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