2018年6月1日号:号で見る|美術館・アート情報 artscape

2018年08月01日号
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artscapeレビュー

2018年06月01日号のレビュー/プレビュー

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『キュレーションの方法──オブリストは語る』

訳者:中野勉

発行所:河出書房新社

発行日:2018/02/26

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(1968-)による本書『キュレーションの方法』は、その数年前に上梓された前著『キュレーション小史』(邦訳『キュレーション──「現代アート」をつくったキュレーターたち』村上華子訳、フィルムアート社、2013)と、いわば対をなす書物である。前著が、ウォルター・ホップスやポントゥス・フルテンをはじめとする先達のキュレーターへのすぐれたインタビュー集であったのに対し、本書はオブリスト自身がこれまでの半生を振り返りつつ、自らの「キュレーションの方法」について語った、自伝的なエッセイ集とも呼べるものである。

とはいえ、本書はキュレーションの「方法」なるものについて、ひとつの体系だった理論を提供するものではない。そうではなく、本書はオブリストという──現在もっとも忙しく世界を飛び回る──ライター/インタビュアー/キュレーターがいかにして出来上がったのかを伝える、ひとつのドキュメントなのである。その冒頭では、スイスに生まれた10代のオブリストがフィッシュリ&ヴァイスやアリギエロ・ボエッティに出会い、エドゥアール・グリッサンの著作に影響を受け、そしてハラルド・ゼーマンの「綜合芸術作品への傾向」展に計41回(!)足を運んだという若き日のエピソードが、印象的な筆致によって語られる。その早熟ぶりと行動力にはただ驚かされるばかりだが、個人的なエピソードと客観的な考察を交互に含む本書の内容は、キュレーションという営為(やその周辺の事柄)に関心を寄せる読者に、さまざまな示唆を与えてくれるに違いない。

同時に本書は、ルーシー・リパードの「数字」展やセス・ジーゲローブの「ゼロックス・ブック」プロジェクト、そしてジャン=フランソワ・リオタールの「非物質的なものたち」など、1970年代から80年代にかけての先駆的な試みを、オブリストや同世代のアーティストがどのように見ていたのかを伝える資料としても興味深いものである(ちなみに評者自身、かつてリオタールがキュレーションを務めた「非物質」展について調査をしていたとき、本書で引用されているフィリップ・パレーノの証言から大きな示唆を受けた経験がある)。その意味で、本書は稀代のインタビュアーであるオブリストが自らを材料にこしらえた、一種のオーラル・ヒストリーのようなものとみなせるかもしれない。

2018/05/28(月)(星野太)

ジャン=リュック・ナンシー『ミューズたち』

訳者:荻野厚志

発行所:月曜社

発行日:2018/04/07

哲学者ジャン=リュック・ナンシー(1940-)が「芸術」を論じた(あるいは語った)論文・講演原稿を収めたのが本書である。ナンシーの芸術論といえば、すでに邦訳もある『肖像の眼差し』(岡田温司・長友文史訳、人文書院、2004)や『イメージの奥底で』(西山達也・大道寺玲央訳、以文社、2006)といった著作が真っ先に思い浮かぶ。だが、これらの力点はあくまでも「肖像」や「イメージ」という──厳密には「芸術」とは別の圏域に属する──概念に置かれており、そこで美や芸術一般をめぐる思索が十全に展開されていたわけではなかった。対して、これら二書に先立って刊行された本書『ミューズたち』(原著1994/増補版2001)こそ、美や芸術をめぐるナンシーの哲学的主著と呼べるものである。

その要点は、表題にすでに現われている。本書において、ナンシーは西洋における芸術の象徴たる「ミューズ」が、単数ではなく複数であることに繰り返し注意を促す。「存在するのはミューズたちであって、ミューズなるものではない」(9頁)。これは、芸術をめぐる思考の歴史にとって、けっして些末な問題ではない。なぜなら、現に複数のジャンルからなる芸術は、ある時にはその複数性において、またある時にはその単数性(すなわち、それらを束ねる「芸術」なるもの)において論じられてきたからだ。他方ナンシーは、こうした複数性と単数性のいずれかに与する立場をともにしりぞけつつ、かつて自著の表題にも用いた「単数複数存在(être singulier pluriel)」としての芸術について論じる。むろん、そこでは「芸術」なるものの単数/複数性にとどまらず、ギリシア語の「テクネー」、ラテン語の「アルス」から分岐した(今日でいう)「技術」と「芸術」の関係もまた、同じく議論の俎上に載せられる。

カラヴァッジョの《聖母マリアの死》(1605-06、ルーヴル美術館蔵)にまるごと捧げられた第Ⅲ章「閾の上に」のような例外もあるが、基本的に本書はナンシーという哲学者の思弁が開陳された書物であり、読解に際してはある程度、著者の用いる概念や論法に馴染んでおく必要がある。そのため晦渋な記述に行き当たることもしばしばと思われるが、訳者の言葉を借りればそれはナンシーが「フランス語をかなり酷使して書く」(279頁)がゆえであり、そこではけっして無益な言葉遊びがなされているわけではない。比較的コンパクトながら、本文でも繰り返し言及されるヘーゲルやハイデガーの美学・芸術哲学に伍する内容を秘めた、熟読に値する一書である。

2018/05/28(月)(星野太)

大竹弘二『公開性の根源──秘密政治の系譜学』

発行所:太田出版

発行日:2018/04/18

本書の書籍化を心待ちにしていたのは、評者ばかりではないだろう。2012年より雑誌『atプラス』誌上で始まった同名の連載は、その数年前にカール・シュミットに関する博士論文(『正戦と内戦──カール・シュミットの国際秩序思想』以文社、2009)を上梓した著者の、次なる展開を克明にしるしづけるものだった。その濃密な連載が、大幅な加筆修正を経て500頁を超える大著として目の前に現われたことを、まずは喜びたい。

本書のテーマは、大きく言えば「法規範」とその「執行権力」との関係である。あるいはこれを、「主権」と「統治」の関係と言い換えてもよい。私たちは通常、あらかじめ存在する法規範にもとづき権力が執行される、あるいは最高規範としての主権にもとづき統治がなされる、といった仕方で両者の関係を考えがちだ。むろん、原則としてはその通りである。しかし「今日の政治は、執行が規範を踏み越える例外状態の常態化という観点から考察できるのではないか」(10頁)。これが本書を貫く基本的なスタンスである。

この「法や主権に執行権力が優越する」場面を描き出すべく、本書はまず16世紀という近代国家の生成期に遡る。そして、マキャヴェッリ、ホッブズ、ルソーといった古典はもちろんのこと、シュミット、カントロヴィッチ、アガンベンらのテクストを縦横無尽に参照しながら、先に述べたような主権と統治の関係が論じられていくのだ。そこで暴き出されるのは、近代的な政治的公開性の根源に存在する「前室」(シュミット)の権力、すなわち初期近代において「機密/アルカナ」と呼ばれた権力の姿にほかならない。しかも、そこで扱われる資料体が、いわゆる政治思想のそれにとどまらず、さまざまな文学的テクストにも及んでいることは特筆しておくべきだろう。メルヴィルの中篇小説『書記バートルビー』を、なんと語り手の弁護士の職業(衡平法裁判所の主事)に注目しながら読みなおす第10章「書記の生、文書の世界」、あるいは『城』や『訴訟』の小説家カフカの姿を、「保険会社に務めるサラリーマン」という側面から捉えかえす第11章「フランツ・カフカ、生権力の実務家」など、序論+全13章+補論からなる本書のどこを開いても、広範囲にわたる文献の博捜と読解に裏打ちされた堅実な研究の成果が、いたるところに顔をのぞかせる。

以上の紹介からも明らかであるように、本書の射程は、むろん現下の国内/国際政治の諸問題に限定されるものではない。しかし、執行権力が法規範を堂々と踏み越えるという「例外状態の常態化」がまさに目の前で展開されるいまこそ、本書は読まれるべき格好の時機を迎えているように思われる。

2018/05/28(月)(星野太)

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