artscapeレビュー

2018年06月01日号のレビュー/プレビュー

Street Museum(ストリートミュージアム)

会期:2018/03/16~2018/05/27

東京ミッドタウン・プラザB1メトロアベニュー[東京都]

東京ミッドタウンが主催するアートとデザインのコンペのうち、2017年度のアートコンペ受賞作家6人による新作展。なんだか加藤泉によく似た絵があった。作者の大野光一は昨年のコンペでは、粗末な小屋をしつらえてそのなかに同じような顔の絵をびっしり展示したが、そこでは絵そのものより、小屋の小さな窓から絵をのぞくという見せ方におもしろさがあった。ところが今回はピラミッド型に並べているとはいえ、絵そのものが露出しているため「加藤泉の亜流」感が前面に出てしまっている。絵を見せたいのか、「見せ方」を見せたいのか。

それに対して、昨年はどことなくミケランジェロの《ピエタ》を思わせないでもない大きな木のかたまりを出した七搦(ななからげ)綾乃は、今回、白い台座(箱)の上に小さな茶色い物体(木彫)をボソボソッと置いた。遠くから見ると、色といい形といいサイズといい「ウンコ」を連想させ、ドキッとした。別にウンコを連想させるからよいのではなく、きれいに整備された都市空間、いかにも作品然とした作品が並ぶ会場に違和感をもたらしているからいいのだ。欲をいえば、中央と四隅の5カ所に整然と並べるのではなく、もっとランダムに配置すればより効果的だったのではないか。…と書いてしばらくして行ってみたら、なんと作品の数が増え、ランダム感が増していた。すばらしい。


[写真:2018年開催の様子]

2018/04/04(村田真)

あおいうに個展 公募落選展

会期:2018/04/02~2018/04/14

アートラボ・トーキョー[東京都]

心に病を抱えたいわゆる「メンヘラ」のアーティスト。作品は絵具の滴る人物画や抽象画で、ひょろひょろと線が伸びていたり余白が多かったり、わりとだれが見てもビョーキかなと思ってしまう絵だ。今回は公募展に落選した作品を出しているというので見に行った。「落選展」といえば、1863年のサロンに落選したマネやホイッスラーらが集まって開いた展覧会が有名だが、今回は複数の公募展に落選したたった1人の落選展。だいたい落選作は不名誉なことなので公開されない場合が多いが、彼女によれば、自分の作品は子供みたいなものだから暗い場所に置いておかず、日の当たる場所に出してあげたいというのが親心、というわけだ。公募展に応募したものだけに大作が多いが、小品の方がずっと魅力的に映るのは、それだけ自由に描いている証だろうか。

2018/04/05(村田真)

Re又造

会期:2018/04/11~2018/05/05

EBIS 303 イベントホール[東京都]

近ごろ大きな展覧会に行くと、目玉作品の絵を映像化して動かしたり、立体化したりする例が増えている。昨年の「ブリューゲル『バベルの塔』展」では、映像によって塔で働く人たちを動かしてみたり、塔を高さ3メートルを超える立体に再現してみたり、漫画家の大友克洋が塔の内部を想像で描いてみたり、一昔前にはありえないような試みをやっていた。なぜ一昔前にはありえなかったかというと、ひとつは技術的問題があるが、これは単純にCG映像の発達・普及によってクリアされる。もうひとつは著作権も含めた倫理的問題で、果たして世界的に価値ある芸術作品を現在の解釈で勝手に動かしちゃっていいのか、所有者は許可するのかといった問題がついてくるからだ。でも時代は確実に、そんなカタいこといわず、見て楽しければいいじゃんという方向に流れている。そんなわけで、展覧会の名画は少しずつ動き出している。

「Re又造」は、日本画家の加山又造を紹介する展覧会だが、フツーの展覧会を期待して行ってはいけない。作品は32点だが、原画は11点、つまり3分の1程度で、あとは版画、特殊印刷、陶板、そして映像なのだ。原画はまともに展示しているものもあるが、あえて照明を落としたり、妙な小細工でインスタレーションしているものもあって、まあ楽しめることは楽しめる。んが、絵画とはそれだけで成り立つように描かれているわけで、その上に演出を施すというのは余計なお世話というか、作者に対して失礼ではないかとも思う(もちろん親族の了承を得ているが)。六曲一双の大作《火の島》などは原寸大で映像化し、赤を基調とする山肌や雲をゆっくり動かしていた。たしかにすごい迫力だが、これを見た後で原画を見たらがっかりするかもしれない。山と波と月を描いた《春秋波涛》は、それぞれの図像ごとに3枚に分解し、距離を空けて重ね、立体的に見せている。これはもう原画とは違う作品として見たほうがいい。大きな部屋の天井には巨大な天井画《天龍寺雲龍図》の原寸大複製が張ってあるが、天井画は持ってくることができないのでこの複製は正しい使い方だ。最後は黒い薔薇模様のレースをまとった4人の女性ヌード像《黒い薔薇の裸婦》。なんと女性たちが艶かしく動くのだ。ちょっとやりすぎではないかと思ったが、よくも悪くもこれが展覧会の未来像なのだ。単なる「加山又造展」だったら見に行かなかっただろう。いろいろ考えさせられる、そして、はっきりいって楽しい展覧会だった。

2018/04/11(村田真)

写真都市展 ―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち―

会期:2018/02/23~2018/06/10

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

ウィリアム・クラインは「20世紀を代表する写真家」で、「写真、映画、デザイン、ファッションのジャンルを超えた表現と、ニューヨーク、ローマ、モスクワ、東京、パリなどの世界の都市を捉えた作品で、現代の視覚文化に決定的な影響を与え」たそうだが、どこがいいんだかピンと来ない。でも展覧会は評判がいいので行ってみたら、クライン以外の日本人の作品が展示構成も含めてとても刺激的だった。

たとえば安田佐智種の《Aerial》は、超高層ビルなどの高所から都市の俯瞰写真を何百枚も撮り、撮影者の足元が消失点(そこだけ白く抜けている)となるように組み合わせた放射状の風景写真。《みち(未知の地)》は、東北の被災地の家が建っていた跡を歩きながら真上から撮影し、つなぎ合わせたもので、どちらも作者の拠って立つ足元を意識させる。西野壮平も都市の断片を歩きながら何千枚も撮って組み合わせ、再構築しているが、こちらは多焦点的で時間軸も組み込んだ未来派的写真といえる。勝俣公仁彦も、同じ場所から異なる時間に長時間露光で撮影した写真を組み合わせたシリーズを発表。静止画像が積層されて時間を与えられ、都市が動いているように感じられる。

彼らは写真を、1点の固定した場所から切り取った一瞬のイメージという既成観念から解き放ち、それこそ都市生活のなかでいつも感じているような多焦点的、持続的な経験を濃密に味わせてくれた。展示方法もすばらしい。仮設壁ならぬ太い仮設柱に展示したり、台の上面に貼りつけたり、印画紙の四隅を天井から吊るして宙に浮かせたり、あえて引きのない狭い通路の両側に大作を展示したり、多彩な写真に見合った多彩な展示で見る者を飽きさせない。満足して帰ろうとしたら、窓から藤原聡志の超巨大な画像が、まるで布団でも干すように垂れ下がっているのが見えた。唐突感がすばらしい。

2018/04/11(村田真)

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生誕150年 横山大観展

会期:2018/04/13~2018/05/27

東京国立近代美術館[東京都]

横山大観といえば近代日本を代表する画家であり、国民画家といっていい。なんてったって明治元年の生まれだから、近代日本の申し子みたいなもの。明治、大正、昭和の前半まで日本の近代とともに歩み、日本画という形式を確立させた功績は大きい。展覧会の構成も「明治」「大正」「昭和」と単純明快な分け方だ。絵そのものもわかりやすい。たまに《屈原》のような、逆風に立たされた師匠・岡倉天心の苦しい心を暗示したような「読む絵」もあるが、あとは富士にしろ桜にしろ四季の風景にしろ、見たまんま、なんの裏もない。

驚いたのは、76年ぶりにハレー彗星が地球に近づいたときにしっかり《彗星》を描いていること。また外国に行けば、ナイアガラの滝や万里の長城を六曲一双の金屏風に仕立ててもいる。グローバルというより節操がないのかもしれない。これは芸術家にとって重要な気質だ。全長40メートルを超す《生々流転》などは、長大さで目を引こうというスタンドプレイだろう。その最たるものが、戦時中の1940年に描かれた通称「海山十題」の連作だ。皇紀2600年を記念して大観が得意とする海と富士山の絵を各10点ずつ制作し、それぞれ日本橋の三越と高島屋で展示即売。その売り上げ金50万円で4機の戦闘機を購入し、海軍と陸軍に2機ずつ献納したというのだ。当時は戦闘機など消耗品だから(乗組員はさらに消耗品だった)それで戦況が変わったということはないけれど、大観の行為は戦時下における芸術家の模範的役割を示すと同時に、国民に対する愛国精神のアピールにもなったはず。今回はそのうち7点が出ている。まあ残された作品より、近代日本の広告塔としての役割のほうが大きかった画家ではないかと思った。

2018/04/12(村田真)

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2018年06月01日号の
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