2018年12月01日号
次回12月17日更新予定

artscapeレビュー

2018年12月01日号のレビュー/プレビュー

地点『だれか、来る』

会期:2018/10/11~2018/10/14

アンダースロー[京都府]

半ば世を捨てるようにして海辺の古い家へと越してくる「彼」と「彼女」。そこに現われる家の売主だという「男」。描かれるのは家に着いてからその晩までの短い間。「男」の訪問と「彼女」の態度が「彼」の心をかき乱す。波のように寄せては返す言葉の繰り返しがミニマムな三角関係のドラマに劇的な効果を与え、緊張は徐々に高まっていく。

ノルウェーの作家ヨン・フォッセの戯曲はもともと詩的なリズムを持っているが、今回の地点の上演ではそこに新たなリズムが加えられている。二人一役を基本として、同じセリフがエコーのように二度(あるいはそれ以上)繰り返されるのだ。「だれか来る?」「だれか来る」。自問自答のように繰り返されそのたびに異なるニュアンスを響かせる言葉。彼らは引き裂かれている。「彼」は「彼女」を愛しているが信じきれない。「彼女」は「彼」を試すようでも裏切っているようでもある。親切めかした「男」の態度には欲望が透けて見え、しかし決定的な行為は描かれない。

空間もまた複数の領域の間で引き裂かれ宙吊りになる(美術:杉山至、照明:藤原康弘)。氷柱のようにいくつも連なるLEDライトの光は家の明かりのようにも瞬く星のようにも見え、ときに青く輝くそれは海面のようでもある。うちと外、空と海。二つの領域は容易に溶け合いあるいは反転する。生と死さえも例外ではない。

[撮影:松見拓也]

「彼」(安部聡子/小河原康二)と「彼女」(窪田史恵/田中祐気)が「二人きり」だと言うその瞬間、「男」(石田 大/小林洋平)はしばしばすでにそこにいる。だが「男」はその存在に気づかれない。観客と同じように。亡霊のような彼ら/私たち。白い布で覆われた椅子はそこが過去の場所であることを暗示していた。

執拗に繰り返される「だれか来る」という言葉には不安と期待が共存する。ドラマを起動するのは来訪者だ。戯曲に書き込まれた悲劇の予感は、「そこ」に来訪者があるたび、亡霊として繰り返されることになるだろう。


[撮影:松見拓也]

地点:http://chiten.org/

2018/10/13(山﨑健太)

ロラ・アリアス『MINEFIELD──記憶の地雷原』

会期:2018/10/26~2018/10/28

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2013で上演された『憂鬱とデモ』では、母親の手記を元に、ドキュメントや演劇的仕掛けを織り交ぜ、個人の自伝的な語りからアルゼンチンという国家の現代史を再検証したロラ・アリアス。今回、KYOTO EXPERIMENT 2018で上演された本作では、1982年、領土をめぐってイギリスとアルゼンチンの間で勃発したフォークランド紛争/マルビナス戦争に従軍した6人の元兵士が出演者として登場し、多声的な語りの集積がユーモアを交えながら「戦争」の記憶を解体/再構築していく。

トライアスロンの選手、弁護士、養護教諭、ビートルズのトリビュートバンド活動、退役軍人のカウンセラー、警備員。彼らは冒頭、それぞれの格好で登場し、「現在」の職業や従事する活動について自己紹介する。次いで、入隊した経緯や生い立ち、軍での訓練や任務、戦場での過酷な経験が、写真や映像などドキュメントを交えつつ、基本的にイギリス側/アルゼンチン側に分かれたまま、英語/スペイン語で交互に語られ、シーンが「再現」されていく。海兵隊への憧れや、軍人の家系に生まれ自然な進路だったと語るイギリス人たち。一方、アルゼンチンでは抽選制の徴兵制度がしかれ、強制力や不条理さが滲む。開戦前の楽観的なお祭り騒ぎのなか、女装ショーを披露する者。愛国心や戦争への士気を高めようと煽るメディア。アルゼンチンの勝利を讃える歌を合唱する3人。一転して、戦場では想像を超える過酷な体験が待ち構えていた。撃沈され、大勢が死亡した軍艦。地雷原に足を踏み入れ、吹き飛んだ仲間の死体。物資が尽きた状況下での過酷な行軍。捕虜の虐殺。「引き金を引くためには憎しみが必要だった。だがいまはもうない」とある者は語る。だがそのためには、三十余年の時間が必要だった。



ロラ・アリアス『MINEFIELD──記憶の地雷原』2018 京都芸術劇場 春秋座
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

「ドキュメンタリー演劇」の例にもれず、ここで顕在化するのは、「当事者として語る出演者たち」と「演出家」という「二重の声」、「語る主体の二重性」という構造である。当事者たち個々の経験や記憶を「演出家」としてメタレベルで統合するアリアスは、「並置」や「対比」の構造により、兵士として置かれた状況の類似性/対照性を示し、戦争には勝者も敗者もないことを浮き彫りにしていく。だが、基本的には各陣営に分かれ、見えない壁に区切られたままの両者が初めて「対面」する場面が訪れる。退役後、PTSDに苦しみ、心理学を学んで退役軍人のセラピストになった者が聞き役となり、患者役と語る。「戦火を交えたイギリス人とアルゼンチン人が、過去の戦争=トラウマについて対面して語る」という極めて象徴的な場面だ(ただし、対話は一見成立しているが、戦争の呼称と同様、英語/スペイン語、それぞれの言語に分裂したままではある)。



ロラ・アリアス『MINEFIELD──記憶の地雷原』2018 京都芸術劇場 春秋座
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

また終盤では、イギリス人もアルゼンチン人も共に同じバンドのメンバーとしてステージに上り、戦争の愚かしさへの糾弾をシャウトで繰り出し、熱いロックを歌い上げる。「燃える人間を見たことがあるか」「何のために戦うのか」といった激しいシャウトのリフレイン。客席も一体となって引き込むようなクライマックスの熱気だが、一人だけバンドに加わらず、舞台袖から冷静に眺めていた「元グルカ兵」がいたことに注意しよう。ネパールの山岳民族から構成されるグルカ兵は、イギリス陸軍のなかでも異質な立ち位置であり、彼は退役後も民間警備会社に勤め、世界各地の紛争地を転々とする人生を送ってきた。民族や国籍の差異に加え、(フォークランド紛争/マルビナス戦争の終結後も)戦争産業に従事する移民労働者である彼は、何重にも他者性を帯びた存在として舞台上に存在する。彼が一人、(おそらく)母語で歌うエキゾティックな旋律の歌は、それゆえ、(たとえそれが「戦争反対」であれ)ひとつの大きな集団の声には包摂されない、異質な個人の声としてその傍らで響くのであり、そこにアリアスの演出家としての倫理性や繊細な眼差しを見てとることができる。



ロラ・アリアス『MINEFIELD──記憶の地雷原』2018 京都芸術劇場 春秋座
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

2018/10/26(金)(高嶋慈)

手塚夏子/Floating Bottle『Dive into the point 点にダイブする』

会期:2018/10/26~2018/10/28

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

おそらく、KYOTO EXPERIMENT 2018最大の問題作。今年の同芸術祭は、特に(ヨーロッパの)ダンス作品が充実しており、それぞれ「音楽」と身体表現の拮抗関係も際立っていた(ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』における90年代デトロイトのテクノサウンド、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』におけるレゲエとダブ、マレーネ・モンテイロ・フレイタス『バッコスの信女―浄化へのプレリュード』におけるトランペット隊や「ボレロ」など)。では、欧米以外の地域のダンスの現在形は、何を見せてくれるのか。手塚夏子がヴェヌーリ・ペレラ(スリランカ)、ソ・ヨンラン(韓国)と結成したユニット「Floating Bottle」による本作は、エキゾティシズムの再商品化でも、現代的問題の表層的な提示でもなく、私たちの生を支配する「合理化された社会システム」そのものの「体験」を通して、「振付」の(拡張的な)概念を身体的に経験させるという意味では、現代社会/ダンス双方への批評性を多分に含んでいた。一方で、観客への強制力、「振付家・演出家」の権力性(とその隠蔽)といった点で、賛否両論が分かれるだろう。

上演開始とともに観客は、この作品が「観客も参加し、近代化のプロセスについて考える実験」であると手塚とペレラから告げられる。そして、「だるまさんが転んだ」の「ゲーム」への参加を促される。だが、「ゲームをより効率的に行なうため」と称して、度重なる「ルールの変更」がモニター越しに告げられ、ゲームは中断の度に変質していく。鬼役は「だるまさんが転んだ」と唱える代わりに、10までの数字をカウントすること。鬼の所まで前進し、捕まった人を解放する代わりに、「ゴールライン」への到達を目指すこと、といった変更だ。



手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点に ダイブする』2018 ロームシアター京都
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

次に鬼役は「ゲームリーダー」に任命され、壇上に上がり、手塚らから渡された「指示」からランダムに選んで読み上げ、観客はその指示に従うように告げられる(「右手を挙げる」「大声で笑う」「2回ジャンプする」「左を向く」の4種の指示)。さらに観客は3つの「チーム」に分けられ、たすきの色で分類され、それぞれの「チームリーダー」を多数決で選び、「合意書」への同意を要請される。「ゲームリーダー」は「指示」を壇上から出し、「チームリーダー」が監督役となって「素早く、大きく動けたメンバー」には加点として前進、「できていないメンバー」には減点として後退を命じる。メンバーが「ゴールライン」に到達すると、チームには得点が与えられ、優勝を賭けたチーム対抗戦の様相を呈していく。さらに、数字のついたゼッケンが配られ、前進/後退の指示は番号で呼ばれる。また、集団の模範役として「サブリーダー」2名が選出され、組織的管理体制がさらに強化されていく。こうして「子どもの遊戯」であったものは、権力の代行、集団の弁別、集団の利益のための個人の奉仕、対抗意識の醸成、報酬の提示、契約関係、組織化と管理体制の強化、記号化された個人の識別といったプロセスを経て変質し、企業や組織の効率的運営を至上目的として個人を徹底的に管理・統制していく「合理的な社会システム」のシミュレーションであることが分かってくる。



手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点に ダイブする』2018 ロームシアター京都
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

だが、「ゲーム」は終わる気配もなくずるずると続行し、点数の上限や制限時間も告げられない。「ゴール」と反対側の壁沿いには、楽器や雑誌、色鉛筆にスケッチブック、お面や衣装などが用意され、それらを手に取る「脱落者」も出始める。初めは観客に混じって「参加」していた手塚も、ゲームの進展は放置したまま、それらを手にウロウロ歩きまわっている。私が鑑賞した回では、「ゲームリーダー」役がとうとう「いつ終わるのか?」と口に出し、終了した。

ゲーム終了後は、車座になって意見や感想を言い合う「振り返りタイム」となった。もやもやとした不満、不快に感じたという意見、バイト先が同じ構造だという指摘、心理学の実験の参加を思い出したという感想などが出された。だが、一見民主主義的なこの時間さえも、一種の「不満の捌け口」として予め用意され、作品の一部に取り込まれていることは否めない。同様に、観客には「ゲームから降りる」選択の自由や暇つぶしの道具が与えられているが、あくまで手塚らの用意した枠組みのなかでの自由に過ぎない。



手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点に ダイブする』2018 ロームシアター京都
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]


本作で観客は、目に見える身体運動もしくはフォルムとしての「ダンス」を見る(消費する)のではなく、自身が「ゲームのルール」という「振付」によって動かされる。誰もが知る子どもの遊びという確信犯的に低いハードルから始めつつ、合理主義社会の構成員として遵守を要請される/内面化している「ルール」やシステムそのものを「振付(の拡張)」と捉え、抽象化し、私たち観客自身の「身体」に(再)体験させることで、明るみに引きずり出す。そこに、「ダンス作品の上演」としての本作の社会的意義がある。

一方、そこには批判すべき点や限界も指摘できる。全体の制度設計を行ないつつ、指示や統率といった権力の発動は第三者に委ね、自らは「モニター越し」の間接性に留まる態度は、「振付」「演出」の権力性を隠蔽しているとして批判されるべきだろう。また、ゲームの続行/終了の判断をあえて参加者に投げたことや反省的時間の設定は、(再)体験による自覚化を通して、「合理的だからこそ極めて不合理な競争と管理のシステム」にどう異議を唱え、どう終わらせるのかという議論に発展させることが、本作の真の企図であることを示していた。だが、数十分の短い時間では、本質的な議論が十分に汲み尽くされたとは言えなかった(多少「延長」されたものの、「次の演目をハシゴする観客」への配慮もあり打ち切られた)。だが、手塚らは、自身が/参加した観客が納得のいくまで議論を続けるべきだったのではないか。そのとき「ダンス」は安全な劇場で見せられる商品ではなく、変革のラディカルな力を持ったものへと変質を遂げるだろう。例えば、会場を出てカフェや路上で議論を続ける(穏当な手段)、あるいは「まだ作品の上演は終わっていない」として劇場を占拠して続ける(より過激な手段)の可能性はあった。結局、手塚らの試みは、「決められた適切な上演時間」「劇場の閉館時間」「フェスティバルの円滑な運営」という管理体制に回収されてしまい、近代以降に制度化された「劇場」「作品」のシステム自体には抗えなかった。そこに、本作の本質的な限界がある。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

関連レビュー

ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』|高嶋慈:artscapeレビュー

セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』|高嶋慈:artscapeレビュー

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2018/10/26(金)(高嶋慈)

市原佐都子/Q『妖精の問題』

会期:2018/10/25~2018/10/28

京都芸術センター[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2018の充実したプログラムのなかでも、そのエネルギッシュさと社会批評のメッセージ性の強さが際立っていた本作。3部構成からなり、1部「ブス」が落語、2部「ゴキブリ」がミュージカル風の歌唱、3部「マングルト」が健康法の啓発セミナーとそれぞれ異なる形式で上演され、俳優の竹中香子がほぼ一人芝居で演じ切る。各パートの主題となるモチーフは異なるものの、通底するのは「見えないことにされるもの」、つまり美醜、社会的有用性、清潔/不潔といった価値基準によって社会から差別・排除・嫌悪される対象だ。だが3つのパートが3本の矢のように撚り合わされることで、最終的には価値基準が相対化され、生の強い肯定へと転じていく。

冒頭、下半身はオムツという衝撃的な姿で登場した竹中は、客席にフランクに語りかける。普段はフランスに住んでいること、東京の満員電車に乗ると容姿や振る舞いが皆似ていると感じること、それは群れとして平均化されることに適応/淘汰された結果であること。この「マクラ」で既に、「集団の均質化と疎外」「人間を生物種として(疑似)科学的に分析する視線」が示される。竹中は高座に上り、(表面的には)2人の女子中学生の会話からなる「新作落語『ブス』」が始まる。「整形して銀座で働いて稼ぎたい」と言う楽天的な片方と、「ブスは疾患だから、人類全体のために子孫を残しちゃダメ」と言う悲観的なもう片方。対照的な2者の会話のなかに、(女性の)美醜が絶対的な価値基準として君臨する世界と、「ブスは絶滅危惧種」「突然変異」など人間を生物種として相対化するような脱人間中心的な視点が交錯する。



市原佐都子/Q『妖精の問題』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

2人の掛け合いに挿入されるのが、「不自然撲滅党」の女性政治家による政見放送と街頭演説だ。「自力で食事や排泄ができない老人は生物として不自然だから死ぬべき」「突出した天才よりも平均を保護せよ」と訴える政治家。それは、近未来のフィクションの姿を借りて、均質化の圧力、社会的有用性という価値基準、異物の排除が公然と主張される社会をあぶり出す(本作は2016年の相模原障害者施設殺傷事件を契機とし、2017年に初演されたが、LGBTをめぐる杉田水脈議員の論文問題も予見させる)。さらに、表面的には「女子中学生2人の会話」が、極端に表情を歪め、身体を硬直させ、吃音を交えて発声されることで、「排除の対象」として「障害者」も暗示されている。だが終盤、女子中学生の台詞は「女性器は普通の子と同じ」「自分の子を産みたい」「生まれたってことは生きてていいんだ」という肯定へと転じていく。「交尾したい」とのたうちながら全身で叫ぶ竹中の身体は、圧倒的なカタルシスとともに、「生存の剥奪」への徹底的な抵抗を示す。

続く2部「ゴキブリ」では一転して、竹中はスタンドマイクの前に立ち、ピアノの生伴奏をバックに、ジャズ風の曲にのせてある夫婦の物語を歌い上げる。豚骨ラーメン屋が近所にあり、部屋に出るゴキブリを駆除する毎日。夫との「交尾」の間に頭によぎる、ゴキブリの繁殖力の強さ。夫が焚いたバルサンの煙を妊娠中に吸ってしまったこと。産まれた子は「見えない存在」として、少女たちのバレエの発表会を「妖精」のように守ってくれていると彼女は語る。



市原佐都子/Q『妖精の問題』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

そして3部「マングルト」では、「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開される。女性器と菌という、「見えないもの」とされるタブーの対象が重ね合わせられ、撲滅ではなく「菌との共存」によって健康が保たれると説く。創始者の「淑子先生」が映像で登場し、性や自分の身体について語ることが「汚いもの」として憚られた少女時代、極端な「殺菌」思想、抗生物質により善玉菌を殺したことで体内バランスが崩れたこと、そこから「菌との共生」に思考を転換したという自伝が語られ、「マングルト」の「試食」も間に挟む(この「試食」は、(男性)観客の「生理的拒絶感」をより自覚させる仕掛けとしても機能する)。



市原佐都子/Q『妖精の問題』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

排除や差別、嫌悪の対象が、「基準」から外れた人間から誰もが忌み嫌う害虫へと移り、最終的には体内の菌との「共存」へ。本作はそうした段階的推移を提示する。菌すなわち異物を排除せず包摂するのが、女性器である点も極めて象徴的だ。また、俳優が観客に向かって一人語りを続ける「モノローグ」という作劇手法の虚構性を、「落語」「歌謡ショー」「啓発セミナー」という別の形式に置換することで、その「不自然さ」をクリアしてみせる手つきは、「演劇形式」に対する批評的態度としても鮮やかに機能している。

だからこそ、「3つのパート」の「終了」後(「これで今日のセミナー(=演劇の上演)を終わります」というメタ台詞が宣言される)、不自然さの印象を与える「空白の間」を挟んで登場する、年老いた女性が放つ「モノローグ」の特異さが際立つ。弱々しい力を振り絞るように、あるいは別の存在の声を巫女的に語るように、奇妙に引き伸ばされて抑揚を欠いた発声。その姿は劇中の映像で登場した「淑子先生」だが、既に故人であることが語られていたように、死者、あるいは超越的な存在の声だろう。その声は、死んだら身体は別の生物の栄養となって物質的に循環していくこと、地球全体をひとつの身体とすると人間はその表面に巣くう菌類に等しいことを告げる。人間をひとつの生物種として俯瞰する視線の下、竹中の渾身の演技の力も相まって、「善/悪、清潔/不潔、美/醜、有用/不要といった価値基準を超越した、ただ生命として存在すること、生きることの全肯定」というメッセージが強いインパクトを持って刻みつけられた作品だった。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

関連レビュー

Q『妖精の問題』|木村覚:artscapeレビュー

2018/10/28(日)(高嶋慈)

プレビュー:マーク・テ+YCAM共同企画展 呼吸する地図たち

会期:2018/12/15~2019/03/03

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

マレーシアを拠点とする演出家、リサーチャーのマーク・テを共同キュレーターに迎えた展覧会。マーク・テは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」のメンバーでもある。日本ではこれまで、TPAM──国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2016とKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで『Baling』を、シアターコモンズ ’18では『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』を上演。レクチャー・パフォーマンスの形式でドキュメント資料や出演者自身の個人史を織り交ぜながら、マレーシアの近現代史を複眼的に検証する気鋭のアーティストだ。

本展では、東南アジアと日本のアーティストやリサーチャーが、各国の歴史、文化、政治、経済、日常生活などを独自の視点でリサーチし、自らの言葉で語りかけるレクチャーやレクチャー・パフォーマンス作品が、12週にわたって主に毎週末に開催される。以下、その一部を紹介する。

シンガポールのアーティスト、ホー・ルイアンは、TPAM 2016や「サンシャワー : 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」展で発表した《Solar: A Meltdown》が記憶に新しい。このレクチャー・パフォーマンスでは、アジアやアフリカなどに赴いた植民地主義時代の欧米人が、熱帯の太陽がもたらす「汗」を徹底して隠蔽したこと、その背後には「団扇で涼を送る」現地労働者と家庭の清潔さを保つ女性たちの労働があったことが指摘される。本展での上演作品《アジア・ザ・アンミラキュラス》では、1997年のアジア通貨危機を出発点に、ポップカルチャーにおけるアジア経済の未来主義の出現、発信、流通をたどるという。また、シンガポールの歴史学者のファリッシュ・ヌールは、200 年前の地図に焦点を当て、英領ジャワにおける植民地時代の地図製作の役割や地図と権力の関係を紐解く。ジャカルタを拠点とするイルワン・アーメット&ティタ・サリナは、東南アジアの海上交通の要衝、マラッカ海峡における国境の支配に対し、密輸、転覆工作、宣誓といった行為からヒントを得て、シンガポールの国境を通過するための8つの方法を提案する。一方、演出家の高山明は、国籍という概念を超えて暮らす海上生活者から着想し、移動性、越境、侵入、ハッキングなどの視点から参加者とリサーチを行なうワークショップ「海賊スタディ」を実施する。また、キュレーターの小原真史は、1903年に大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会で「人間の展示」が行なわれた人類館と新たに発見された写真を中心に、近代日本の自己像と他者像について考察する。

シアターコモンズ ’18や来年開催されるシアターコモンズ ’19がレクチャー・パフォーマンスに焦点を当てているように、従来の舞台公演とは異なるこの形式も浸透しつつある。社会批評や表象分析、歴史研究といった硬派な主題のなかに、映像や身体性、アーティストならではの新鮮な視点や想像力の契機を持ち込むことで、見る観客の能動的な思考が促される。また、マーク・テ自身もそうだが、アーティスト、研究者、演出家、キュレーターといった職能的なカテゴリー区分を流動化させていく側面も持つだろう。

さらに本展では、これらに関連した映像インスタレーションやドキュメンテーションも上映される。カルロス・セルドランは、スペインとアメリカの統治、日本軍の占領、戦後政権の復興などさまざまな歴史的事象によって上書きされてきたマニラの史跡についてのパフォーマンス・ツアーの映像を上映する。ヴァンディ・ラッタナーは、カンボジアのクメール・ルージュ政権下で亡くなった姉に向けて語るヴィデオ・インスタレーション『独白』を上映する。やんツーは、自らがロードバイクで移動して集めた地形データからフォントを生成するソフトウェアを自作。VRを使った主観視点で、山口の地形からフォントが生成される過程を追体験できる作品を展示する。3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)は、市民、専門家、アーティスト、スタッフが協働し、復興のプロセスを独自に記録したアーカイブを活用した展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」より、小森はるか+瀬尾夏美、鈴尾啓太、藤井光の3つの映像作品を抜粋して展示する。

このように本展は極めて多様な切り口から構成されるが、植民地支配から現代に至るまで、金融、移民、翻訳などさまざまな交通と地政学的なポリティックスを再検証し、国境によって分断化・固定された静的な地図ではなく、多中心的で有機的、動的なネットワークとしての「地図」がどう構築されていくのか。毎週末、山口に通いたくなる充実したプログラムに期待がふくらむ。

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2018/10/30(火)(高嶋慈)

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2018年12月01日号の
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