artscapeレビュー

2018年12月15日号のレビュー/プレビュー

KERA・MAP #008『修道女たち』

会期:2018/10/20~2018/11/15

本多劇場[東京都]

ほとんど事前に予備知識を入れることなく、これまでもケラリーノ・サンドラヴィッチの演劇が面白かったという理由だけで下北沢に足を運んだが、予想をはるかに超えた、おそるべき作品だった。異国の修道院を舞台とし、6名の修道女が登場する。そして宗教という枠組を援用しながら、悲喜劇、倫理、超常、奇蹟、奇譚、恐怖など、さまざまな要素をすべて詰め込みながら、破綻させることなく、3時間超の長尺を飽きさせずにもたせる圧倒的な物語力だった。やはり、希代のストーリー・テラーである。第1部はたわいもない会話から過去の悲劇や登場人物の秘密を示唆しながら、ゆっくりと進行していくが、夜の暗闇から始まる第二部からの緊張感が凄まじい。とくに修道女たちが覚悟を決めてからの終盤部の演出に唸る。あらかじめ散りばめられた伏線を回収しつつ、舞台美術の力を活用した演劇的なカタルシスになだれ込む。そう、筋の運びだけではない。小道具だった木製の汽車が、最後に室内に貫入する大道具に化け、修道女を天国に連れていく。圧倒的な非現実を現前化させる。これは小説ではなく、演劇だからこそ可能なシーンなのだ。

そもそも日本において宗教的な題材を扱うのは難しい。キリスト教の信者は人口の1%しかおらず、日本人にとってはクリスマスやバレンタイン、ウェディング・チャペルなど、恋愛資本主義のアイテムでしかない。漫画や映画などのサブカルチャーでも、しばしば宗教をネタにする物語を組み込むことはあるが、ほとんどは悪徳商法と結びつき、強い偏見にあふれている。また海外で人質になったジャーナリストに対して、国に迷惑をかけるなという自己責任論の連呼を見ていると、個人が果たすべき「ミッション」が全然理解されないのだと痛感する。そうした状況を踏まえても、個人的に「修道女たち」は腑に落ちる作品だった。すなわち、日本的ではないというか、普遍性をもった内容だと思われた。

2018/11/01(木)(五十嵐太郎)

ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代

会期:2018/11/03~2019/01/20

国立国際美術館[大阪府]

「80年代」にフォーカスを当てた企画が目につく今秋。金沢21世紀美術館を皮切りに巡回中の「起点としての80年代」展が作家数を絞ってテーマ別の構成を取ったのに対して、本展ではクロノロジカルに65名を見せるという総花的な構成となっている。「1980~81年」「1982~83年」というように2年ごとに区切り、制作年の順に作品を並べ、各セクションの頭には、例えばバブル景気、航空機事故、昭和天皇の崩御などメルクマールとなる出来事や社会現象を解説するパネルが掲げられる。だが、出品作は大半が絵画や具象的な彫刻であり、社会への直接的な言及や批評性は薄い。むしろ乖離や解説パネルの必然性への疑問を感じざるをえない。また、「制作年への準拠」に加え、基本的に「1作家1作品主義」であり、単調な見本帳のように均されていく印象を受けた。絵画画面の大型化、ペインタリーな筆触の強調、色彩性や触覚性、装飾性、レリーフ、キッチュ、引用や表象との戯れ(横尾忠則、中原浩大、森村泰昌、福田美蘭)といった共通項はうかがえるが、「80年代の時代の雰囲気」を伝えたいなら、商業的なイラストレーターや広告表現(「おいしい生活」)といった視覚文化を入れるべきだったのではないか。

ここで改めて展覧会タイトルに目を向けると、奇妙な欠落感に気づく。「ニュー・ウェイブ」から「関西」が消去されているのだ。だが、80年代の日本現代美術を歴史化するにあたり、いわゆる「関西ニュー・ウェイブ」の検証は避けては通れないだろう。作家ごとの解説パネルには、例えば「フジヤマゲイシャ」展という言葉だけが登場するのみであり、その中身や意義について踏み込んだ検証はなされない。メルクマール的な展覧会を「再現」し(現存しない作品は再制作もしくは資料で補い)、実作品と当時の言説の両面から検証するなど方法はあった。歴史化=羅列された年表化ではない。美術館の仕事は、微妙な「平等」主義や政治的「配慮」ではなく、議論の端緒を開くような斬新な視点と強固な枠組みの提示にあるのではないか。そこから、(賛同であれ批判であれ)見る者の思考が再起動するのだ。

関連レビュー

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?森村泰昌のもうひとつの1980年代|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/11/03(土)(高嶋慈)

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「立ち上がりの技術vol.3 とある窓」

会期:2018/11/02~2018/12/24

東北リサーチとアートセンター(TRAC)[宮城県]

仙台の大町西公園駅から近い東北リサーチとアートセンター(TRAC)で開催された「とある窓」展を訪れた。震災から7年以上が経過したが、岩手・宮城・福島の現状をリサーチし、窓から見える/見えた風景をNOOK(アーティストと研究者の組織)が聞き取り、写真家の森田具海が室内から外に向けて撮影した企画である。したがって、会場では各地の窓の写真と、それぞれに対してヒアリングした内容を記した小冊子が並ぶ。例えば、かつて畑が広がり、海水浴場に向かう人が見えた仙台市荒浜の窓、陸前高田の小学校の窓から見える風景、被災後の新しい住処で以前のようにつくられた庭、三度の津波を目撃した福島の江戸時代の建物などである。また奥の部屋では取材時の映像を流していた。なお、語り手が映っている写真はほとんどなく、姿が入っても後ろ姿であり、おおむね窓から見える風景だ。3.11から時間が経っていることもあり、基本的には壊れた窓もない。

一見、どこにでもありそうな何気ない日常的な窓が多い。が、それぞれの写真に付随するテキストを読むと、窓にまつわるさまざまな物語が紡がれ、そこから風景の記憶がたぐり寄せられる。多くの窓は震災・津波の前後、そして被災後の復興=劇的な風景の変化を目撃しており、窓の代りに、居住者や使用者がわれわれに方言で語りかける。小さなギャラリーの展示だが、窓学(窓研究所による窓を多角的に研究する活動)に長く関わってきたものとしては、窓という切り口はいろいろな可能性をもつことを改めて教えてくれる。実際、美術史をひもとくと、過去の絵画でもしばしば描かれてきたように、窓は人と風景をつなぐ建築的な装置だ。なお「東北リサーチとアートセンター」は、仙台のアートノード事業の一環として発足した活動拠点である。2、3年に1度開催するお祭り型の芸術祭ではなく、地域の歴史や課題の研究、ならびに表現活動を継続していくアートプロジェクトを担う場だ。

2018/11/10(土)(五十嵐太郎)

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?─森村泰昌のもうひとつの1980年代─

会期:2018/11/03~2019/01/27

モリムラ@ミュージアム[大阪府]

大阪の北加賀屋にオープンした、森村泰昌の美術館「モリムラ@ミュージアム」の開館記念展。北加賀屋はかつて造船業で栄えた地域だが、近年は元造船所の広い空間や敷地を活かした展示や舞台公演の開催、アーティストの活動拠点化など、アートによる活性化が進む。森村は、家具店のショールームだった築40年の建物をリノベーションし、フロア面積400㎡の美術館として生まれ変わらせた。

外観は平凡な事務所だが、2つのホワイトキューブの展示室に加え、本格的な座席を備えたミニシアター、開放感のあるライブラリー、グッズや書籍を揃えたミュージアムショップを有し、美術館としての機能をコンパクトに備えている。古い商店のガラス戸や森村の実家の茶屋で使用されていた茶箱が什器として使われるなど、新旧が同居する空間だ。

本展の1室では、森村が扮装のセルフポートレート作品を制作するようになってから初めての個展「菫色のモナムール、其の他」(1986年、大阪のギャラリー白)を再現した。ロダンの彫刻に扮した、身体性の強い作品が並ぶ。またもう一室では、出世作となった《肖像(ゴッホ)》(1985/89)に加え、マネの描いたベルト・モリゾ、伝説的ダンサーのニジンスキー、道路標識(!)に扮したセルフポートレート作品が展示された。巨大な《男の誕生》は、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》に倣い、画廊主や同世代の作家3名と共演した珍しい作品だ。これらのカラー写真作品とともに、80年代前半に手がけた作品(カトラリーや卓上のオブジェを構成主義風に写したモノクロ写真、抽象的なシルクスクリーン作品、デザイナーとして手掛けた美術館のポスターなど)が並び、「スタイル」を確立するまでの模索時期/確立初期の作品群が一堂に会している。

「80年代」が森村にとっては多様な方向性を試す模索時期であったとともに、ロダンの男性像やニジンスキーといった対象の選択には、「身体性」への関心もうかがえる。森村自身は、ミニシアターで上映された《モリムラガタリ・80’s》で、むしろ時代の雰囲気から齟齬やズレを感じていたこと、80年代に作った作品だがアンチ80年代であると語っている。だが、例えばニジンスキーに扮した彼が、金色に塗られた「コンバースのハイカットシューズ」を履くといった身振りのなかに、80年代における消費社会の到来や個人の嗜好のブランド化に対する批評性を見てとることができる。

関連レビュー

ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/11/11(日)(高嶋慈)

MuDA『立ち上がり続けること』

会期:2018/11/23~2018/11/25

京都芸術センター[京都府]

ダンサー、演出家のQUICKを中心に、2010年に京都で活動開始したパフォーマンスグループ、MuDA。これまでは野外やギャラリーの跡地など非劇場空間で、剥き出しの物質を配置したなかで肉体の衝突を繰り広げるパフォーマンス作品が特徴だったが、本作では、白い床だけのシンプルな舞台上で、「倒れる」という動作をミニマルにひたすら反復し、肉体と床面を衝突させ続ける過酷なパフォーマンスを行なった。

会場に入ると、プロレスのリングを思わせる白い正方形の床が観客と対峙する(「スタンディング」の鑑賞エリアも設けられている)。ほの暗い照明のなかで登場し、観客と相対したかと思うと、突如、前のめりに床に倒れ込むQUICK。激しい衝撃音。もがくように膝や足先を床に何度も打ち付け、のたうち回り、やっと立ち上がったかと思うと、再び激しく床に倒れ込む。その反復。舞台中央のQUICKを挟むように男女2人のパフォーマーも登場、同様の行為を反復し、衝突の衝撃が二重、三重に増幅されていく。彼らは立ち上がろうともがき苦しんでいるのか、それとも「立つ」ことに抗い続けているのか。外側から身体に加えられる暴力的な圧力なのか、あるいは体内で渦巻くエネルギーの内的状態が噴出しているのか。身体を制御しようとする苦しみなのか、それとも身体の制御への抵抗なのか。目の前でひたすら続く行為を見ているうちに、意味への求心ではなく、意味の決定を拒む両義的な隔たりが開けていく。山中透によるアンビエントなノイズサウンドが宗教的な儀式性を付加し、仏教徒が行なう「五体投地」のようにも見えてくる。



[撮影:井上嘉和]

「倒れ、腹ばいでもがき、立ち上がってはまた倒れる」動作の繰り返しは10分以上も続いただろうか。彼らの動作は少し変化し、「両足を大きく開いて立ち、ヘッドバンキングのように頭を振り回し、倒れる」動作を繰り返すようになった。衝突音に混じって、雄叫びのような唸り声も発される。この第2フェーズを10分ほど繰り返した後、「腕を大きく回してから倒れる」第3フェーズに至った。動きのペースは落ちないが、彼らの身体には疲労の色が次第に滲んでくる。音楽はいつしか止み、無音の静寂のなかに、ひたすら肉と物質のぶつかる音と荒い息づかいが響く。次第に照明は暗くなり、闇に包まれてもなお、衝突の音は響き渡り続けた。



[撮影:井上嘉和]

ここには一切のドラマが用意されていない。「身体的な負荷をかけ続けることで逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がろうとする生命の力強さ」といったストーリーがないのだ。スポーツ観戦に「感動する」回路や「災害から立ち上がる人間の強さ」といった物語に回収されることを拒んでいる。彼らが床に我が身を打ち続ける過酷なパフォーマンスは、「身体」がそうした(資本や国家の)物語へと回収され、搾取されることへの「抵抗」としてなされたのではなかったか。

2018/11/23(金)(高嶋慈)

2018年12月15日号の
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