artscapeレビュー

2019年02月01日号のレビュー/プレビュー

シアターコモンズ ’19 シャンカル・ヴェンカテーシュワラン「犯罪部族法」

港区立男女平等参画センター・リーブラ リーブラホール[東京都]

初めて訪れた田町のリーブラホールにて、シアターコモンズが企画したシャンカル・ヴェンカテーシュワラン演出の「犯罪部族法」を観劇した。日本ではほとんど見る機会がないインドの作品である。冒頭はカースト制を暗示するように、静かに男が掃除する場面が続く。ホウキでチリを円形にはいていくさまは儀式的でもある。そしてイギリス支配時の法が、カースト制につながっていたことを踏まえ、異なる文化的な背景をもつインドの南北の二人が、それぞれの差別の意識と経験を語る形式をとって、ときにはユーモラスに演劇は進行する。だが、よくできた物語をなぞるものではない。じっと観客を見つめる演者(これも観客と演者の役割の交代である)、舞台上の二人が互いの役を演じること、カースト制がもたらす本当の悲劇の表象不可能性、レクチャーのようなデータの提示、水の受け渡しなど、まさに問いかける演劇である。

演劇の後、同じ会場において、シアターコモンズ ’19のオープニング・シンポジウム「未来の祝祭、未来の劇場」が開催された。ディレクターであり、司会をつとめた相馬千秋は、オリンピックを控え、都市をサバイブするツールとしての演劇というテーマを説明し、高山明はドイツの体験をもとに脱演劇としてのブレヒトとルター(「演劇」ではなく、「演劇ちゃん」という言葉!)、シャンカルはインドのジャングルでの実践(都市から離れた場所ではあるが、意外に集落が密集し、人は多いらしい)、そして安藤礼二は折口信夫の可能性を語る。特に終盤の高山の意思表明が印象に残った。すなわち、いわゆる「演劇」の解体を受け入れること(あるいはそれへの期待?)、俳優ではない一般人が参加する場合にどこまで自分が彼らの生活に関与するのか、固定した演劇の観客層ではない人にどうやって接続するかなどである。演劇が終わり、そして始まるのかもしれない。

2019/01/20(日)(五十嵐太郎)

未来を担う美術家たち 21st DOMANI・明日展

会期:2019/01/23~2019/03/03

国立新美術館[東京都]

文化庁新進芸術家海外研修制度の成果を発表する展覧会。今回はここ3、4年内に派遣されたアーティストを中心に、計10人の作品を展示。成果発表といっても、派遣先でつくった作品だけを見せるわけではなく、また「派遣前」「派遣後」に分けて「こんなに効果が表れました」みたいなあからさまな展示でもなく、近作・新作を個展形式で自由に見せている。作家にとっては国費を使ったことに対する務めであり、また、国立美術館で作品を見せられる特権でもあるだろう。逆に鑑賞者にとっては、こういう奴らに税金が使われたのかと確認する場でなければならない。派遣作家を選ぶほうも大変だ。

展示で目を引いたのは蓮沼昌宏。展示室に長大なテーブルを置き、14台のキノーラと呼ばれる簡易式ぺらぺらアニメを並べた。当日は中学生が団体で訪れていたので、テーブルは満席。みんな席を移動しつつ作品に見入る様子は理科の実験室のようで、現代美術展では見慣れない風景だった。村山悟郎の絵画と呼ぶにはあまりに逸脱した「織物絵画」も目を引いた。麻紐を放射状または鳥の羽根のように織った上に絵具を施した作品は、本人によれば、雪の結晶やアリの巣などに見られる自己組織的なプロセスやパターンを絵画で表現したものだそうだが、ぼくから見ると、未開民族の呪術的装飾を思わせると同時に、はるか絵画の原点に思いを馳せさせもする。

展示の後半は映像系の作品が多くてスルーしたが(^^;)、最後の三瀬夏之介の部屋で立ち止まってしまった。いや、立ち止まらざるをえないでしょ、展示室いっぱいに《日本の絵》と題された超大作が立ちはだかっていたんだから。もちろんデカすぎて通れないという意味ではない。具象・抽象を問わず多彩なイメージを織り込んだ紙を切り貼りし、支持体に貼らずに上から吊るし、どこからどこまでがひとつの作品かわからないようなインスタレーション形式で見せるなど、日本画の範疇を超えたより大きな「日本の絵」を目指していたからだ。これまでの9人の作品が吹っ飛ぶほどのインパクト。よく見ると、三瀬は文化庁の海外研修制度の恩恵は受けておらず(五島記念文化財団の助成を受けたことはある)、今回はゲスト作家という扱い。文化庁の研修制度が色あせて見えないか心配だ。

2019/01/24(木)(村田真)

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イケムラレイコ 土と星 Our Planet

会期:2019/01/18~2019/04/01

国立新美術館[東京都]

見ごたえのある個展だった。久しぶりに絵画を堪能したって感じ。イケムラレイコの名前と作品は、80年代にドイツの新表現主義の画家として初めて知った。当時はドイツで活躍する日本人の女性画家というだけでけっこう珍しく、しかも流行の新表現主義絵画だったので記憶に焼きついた。その後、何年かにいちど作品を目にする機会があったが、幽霊のような少女像を描いてみたり、薄塗りの幻想的な風景画だったり、テラコッタによる人物彫刻をつくったり、断片的に見る限り一貫性がなく、よくわからない作家としてやりすごしてきた。

今回初めて全体を通して見て、新表現主義が初期の過度的なスタイルに過ぎず、もっと大きなものを相手にしていることがわかった。拙い言い方だけど、たとえば同世代の辰野登恵子のように「絵画」と格闘してきたというより、絵画を通してなにかと格闘してきた、あるいは格闘を絵画にしてきたという印象を持った。なにと格闘してきたのかはわからないけれど、女ひとりで(という言い方はよくないが、以下70-80年代の話なので)日本を離れ、スペイン、スイス、ドイツと移り住み、画家として自立してきた経歴を見れば、すべてが格闘だったといえるかもしれない。

展示は、プロローグから「原風景」「少女」「戦い」「アマゾン」「炎」「コスミック・ランドスケープ」、そしてエピローグまで16室に分かれ、油彩画、ドローイング、彫刻、写真など約210点におよぶ。初期の「原風景」に、《マロヤ湖のスキーヤー》と題された雪舟の山水画に基づく表現主義的な絵画があって驚いた。これは海外在住の日本人画家が陥りがちな東西の折衷主義かと思うが、幸いなことに長続きしなかったようだ。ところが最後の「コスミック・ランドスケープ」で屏風絵のような大画面の山水画が再び現れるのだが、これを折衷主義と見る者はいないだろう。ここでは完璧にイケムラレイコの世界観が立ち現れているからだ。これが格闘の成果というものかもしれない。

「有機と無機」では、1990年ごろから始まるテラコッタ彫刻がまとめて並べられている。興味を惹かれたのは、初期のころは家の形状をしているものが多いのに、やがて柱または塔状を経て、少女をはじめとする人物彫刻に移行していくこと。もうひとつは、これらは陶彫なので中身がどれも空洞であることだ。空っぽというより、中になにかを入れるための器というべきか。3.11後の《うさぎ観音》は内部に人が入れるほどの大きな空洞になっている。つまり人物(うさぎ観音)であると同時に「家」でもあるのだ。

同展でもっとも違和感を覚えたのは「戦い」のコーナー。1980年から近作まで戦争(とくに海戦)を描いた絵画を集めたもので、表現主義的なタッチの《トロイアの女神》や、近作の《パシフィック・オーシャン》《パシフィック・レッド》などは絵としての美しさが勝っているが、《カミカゼ》と「マリーン」シリーズはプロパガンダとしての戦争画そのものではないか。次のコーナーの戦う女を描いた「アマゾン」の版画シリーズともども、イケムラの「格闘」を象徴するものかもしれない。

2019/01/24(木)(村田真)

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KAC Performing Arts Program『シティⅠ・Ⅱ・Ⅲ』

会期:2019/01/25~2019/01/27

京都芸術センター[京都府]

「戯曲の上演」を、演劇の演出家ではなく、あえてダンサーやパフォーマンス集団に託した意欲的な企画。カゲヤマ気象台による「都市」をテーマとした三部作の戯曲『シティⅠ』『シティⅡ』『シティⅢ』をもとに、京都を拠点とする3組のアーティストがそれぞれパフォーマンス作品を発表した。3つの戯曲には直接的な繋がりはなく、抽象度の高い難解な印象だ。だが、例えば、「きれいで真っ白なまま、廃墟になった街」「私たちは地面の下に夢を押しこんだので、この国はときどきすごく大きく揺れる」「その後、この国は隣の国と小規模な武力衝突をした」(『シティⅠ』)、カタカナ英語の人物が「約10年前に恐ろしい出来事が起こり、以後は英語を話す。ジャパンと呼ばれた国については何も覚えていない」と語る(『シティⅡ』)など、3.11(及びその「健忘症」や想像される近未来)に対する応答として書かれたことを示唆する。

『シティⅠ』は、ゆざわさな(ダンサー)がプロデュース、渡辺美帆子(演劇作家)がドラマトゥルク、川瀬亜衣(ダンサー)が振付を手がけるという複合チームで制作。「姉」と「弟」の会話やモノローグが大部を占めるが、台詞を「無音の字幕」でスクリーンに投影し、相対した出演者たちが画面を見つめたり、「手紙」の形で読み上げる。また、『シティⅡ』においても、ベタなカタカナ英語で発声された台詞を、一言ずつ「日本語の通訳」で反復するなど、「書かれた台詞」を自らに引き付けようとするのではなく、戯曲の言葉からどう距離を取り、どう異化してみせるかがさまざまに試みられていた。『シティⅠ』では、家電や家具など生活用品が散乱し、荒廃感や終末感がどことなく漂う空間で、男女のダンサー2名と小学生女子、それぞれの身体性を活かしたしなやかなソロやユニゾンの時間が流れていく。ただ、「お…」「た…」「かえり」「だいま」の応答のラストシーンを、「食事をよそう母」と「帰宅した家族」が食卓を囲む「一家団欒の風景」のノスタルジーに帰着させてしまった「演出」は、やや安易ではないか。



『シティⅠ』 撮影:前谷開

一方、『シティⅡ』は、野外での「フィールドプレイ」を通して土地やモノを身体的に触知していくパフォーマンスを展開するhyslomが担当。戯曲の内容を身体をはって愚直なまでに実行していくのだが、縄梯子にぶら下がりブランコのように揺らして落下する、水を張った巨大な釜に顔面ダイブする、ふんどし姿になり、吊られた氷の塊を炎で炙って溶かすなど、ナンセンスの極みのようなパフォーマンスへと変換される。「遊び」の無邪気な装いのなかに、見る者の平衡感覚や皮膚感覚、痛覚を刺激するような不穏感がじわじわと醸成されていく。



『シティⅡ』 撮影:前谷開

捩子ぴじん(ダンサー)による『シティⅢ』は、第17回AAF戯曲賞受賞記念公演のリクリエイション。佐久間新と増田美佳の2名のダンサーによる、時に危険性さえはらむデュオが、強度のある時間を立ち上げる。とりわけ意表をつくのがラストシーン。「背景」として掛けられていた、ビル群を描いた「絵画」が取り外され、倒れかかるのを受け止める、横倒しの回転ドアのようにクルクル回し、その下をくぐり抜ける、裏面に組まれた支えの角材に手足をかけロッククライミングのようによじ登る、といった逸脱的な運動が繰り出される。「表と裏と言うと二次元のイメージだが、実はもっとたくさんの次元での表と裏があるのではないか」という台詞に対する、身体レベルでの呼応とも取れる。



『シティⅢ』 撮影:前谷開

「書かれた戯曲」と「実際の上演」のあいだには、逐語的な再現だけではなく、無限とも思える「伸びしろ」が広がっている。そこに、自らの身体でどう介入し、あるいはズラし、意味の層を上書きし、未知の風景を立ち上げていくか。3組の公演を通して、「戯曲の上演」ではなく、「戯曲と上演」の(従属的ではない)創造的な関係について再考を促す機会となった。

2019/01/26(土)(高嶋慈)

川口和之「PROSPECTS Vol.3」

会期:2019/01/13~2019/01/30

photographers’ gallery[東京都]

川口和之のphotographers’ galleryでの「PROSPECTS」シリーズの展示も、今回で3回目になる。以前は地元の兵庫、岡山などの写真が中心だったのだが、それ以後、撮影範囲が大きく広がり、青森県から福岡県に至るさまざまな場所の写真が展示されていた。

といっても、制作の姿勢やスタイルそのものにはほとんど変化がなく、やや寂れた商店街などの眺めを、できる限り克明に、細部の質感描写に気を配って撮影している。だが、そのリアリティがただ事ではなく、写真を見ているとあたかも自分が実際にその景色の前にいて、川口とともに、歯抜けになって滅びの気配を色濃く漂わせている街並みを眺めているように感じてしまう。撮影のポジション、プリントの色味、明度、彩度などの選択がじつに的確で、揺るぎがないからだろう。あと四半世紀ほど過ぎれば、この「PROSPECTS」のシリーズに記録された光景のほとんどは失われてしまうわけで、川口はそれを見越して作業のペースをあげているのではないだろうか。

photographers’ galleryに隣接するKULA PHOTO GALLERYでは、「PROSPECTS Early Works」展が同時開催されていた。そこに並ぶ、1976~79年に姫路、大阪などで撮影されたモノクロームの初期作品の、ハイコントラスト・フィルムを特殊現像して、街のディテールを注意深く定着した写真のたたずまいは、現在の川口の仕事にそのまま繋がっている。40年以上にわたって続けてきた、彼の街の観察と記録の作業が、ようやく厚みのある写真群として形をとりつつあるということだろう。

2019/01/26(土)(飯沢耕太郎)

2019年02月01日号の
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