artscapeレビュー

2009年04月15日号のレビュー/プレビュー

ZAIMフェスタ2009

会期:2009/02/27~2009/03/08

ZAIM別館[神奈川県]

ZAIM別館を使うおそらく最後のフェスティバル。3階では入居者の作品展が行なわれている。曽谷朝絵が真っ白に塗った壁と床に虹色のライブペインティング、フランシス真悟が壁に細長い紙を張って公開制作したのは、これが最後の機会だからだろう。ところで会期中、曽谷さんのペインティングにイタズラ描きをした不届き者がいるらしい。でも観客参加型ペインティングと勘違いしたとすれば怒るに怒れない。それだけ彼女の絵が描く喜びにあふれ、見る者を誘発する力を備えていたともいえるからだ。
ZAIM FESTA 2009:http://za-im.jp/zaimfesta2009/

2009/03/01(日)(村田真)

YOKOHAMA創造界隈コンペ2008受賞作品展

会期:2009/02/27~2009/03/08

ZAIM別館[神奈川県]

「開港150周年祝祭部門」コンペの受賞作品展。受賞したのは、コケの生えた王蟲(オウム)がくるくる回転したりするエコっぽいインスタレーションの足立喜一朗と、部屋をスタジオ代わりにして会期中いろんな人と制作する梅津庸一のふたり。プランも完成作もすっきりまとめあげた足立に対して、梅津はプランの段階からグチャグチャで、実際にガラクタを散乱させたようなインスタレーション(でもじつは巧みに配置されている)を見せ、好対照をなしていた。あ、ぼくも審査員のひとりです。

2009/03/01(日)(村田真)

アーティスト・ファイル2009──現代の作家たち

会期:2009/03/04~2009/05/06

国立新美術館[東京都]

出品は石川直樹、宮永愛子、斎藤芽生、津上みゆきら9人。とくにテーマを設けずに、学芸スタッフが選んだ注目すべきアーティストたちだそうだ。そのせいか、絵画あり写真ありインスタレーションあり、問題意識もばらばらでまとまりがない。年代もなぜか30代と50代に分かれ、40代は金田実生ひとり。たまたま日本のアートシーンをすくってみたらこうなりましたって感じ。好みでいえば、闇夜のなかで妄想をふくらませつつシコシコ細密に描いてる斎藤と、昼の光の下で思いっきりストロークを振るう津上が圧倒的。

2009/03/03(火)(村田真)

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やなぎみわ「マイ・グランドマザーズ」

会期:2009/03/07~2009/05/10

東京都写真美術館 2F展示室[東京都]

やなぎみわの「エレベーターガール」のシリーズが出てきたときには、新鮮なショックを受けたし、近作の物語性の強い「フェアリー・テール」もかなり好きだ。でも「マイ・グランドマザーズ」は僕にはとても相性が悪い。以前もまったく馴染めないと感じたし、その印象は新作を含めて全26点が一堂に会した今回の展覧会でも変わらなかった。
女性たち(男性も3名含む)に50年後の未来を想像してもらい、メーキャップや舞台設定に意匠を凝らしてそのシーンを作り上げるというコンセプトそのものはよく理解できる。モデルとの共同作業は大変だろうが、楽しみもあるだろうし、最終的な仕上げのイメージも細部までしっかりと練り上げられている。にもかかわらず、見ていて居心地が悪いし、何だかしらけてしまうのだ。全員とはいわないが、ほとんどのモデルたちは50年後の未来の自分をポジティブに(何とも能天気に)想像している。むろんそうならない場合が大部分だろう。別に悲惨な未来を押しつけるつもりはないが、彼らのナルシシズムたっぷりの「お遊戯」に付き合わされるのはちょっと勘弁してほしいと思ってしまうのだ。
もしかすると「50年後の自分」というコンセプトに問題があるのだろうか。これが「50年後の他者」だったらどうだろう。目の前にいる人物の50年後を想像してみたら、こんなシュガーコーティングされたようなイメージばかり並ぶだろうか。誰しも自分に甘くなるので、いつもの批評性が薄まってしまっているのではないか。やなぎみわの作品は、完璧に囲い込まれた物語世界を構築した方が精彩を放つように思える。この「マイ・グランドマザーズ」のシリーズはモデルたちの記号化が不徹底で、その人格が中途半端にリアルに透けて見えるのが、居心地の悪さを引き起こしてしまうのかもしれない。

2009/03/06(金)(飯沢耕太郎)

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鬼海弘雄『Hiroh Kikai: Asakusa Portraits』

発行所:ICP/Steidl

発行日:2008年

鬼海弘雄が1970年代から続けている「浅草のポートレート」の集大成。草思社から2003年に刊行された『PERSONA』を定本に、ニューヨークのICP(国際写真センター)とドイツのSteidl社の共同出版で刊行された。
6×6判のカメラを使い、雷門の無地の壁をバックにたまたま通りかかった人たちに声をかけて真正面から撮影する。何とも味わい深い、一言でいえばとても「濃い」人間たちのコレクションである。こういう写真群を見ていると、八つ当たりで申しわけないのだが、やなぎみわの「マイ・グランドマザーズ」のシリーズがどうしても上滑りで単調なものに思えてしまう。鬼海の仕事はノンフィクションであり、やなぎの作品はフィクション的な虚構の世界の再構築だから、比較しようがないという見方もあるだろうが、本当にそうだろうか。鬼海の「浅草のポートレート」のモデルの大部分は、かなり自覚的な演技者なのではないかと思う。彼らのやや特異な風貌や身振りは、長年にわたって鍛え上げられた“藝”であり、鬼海は雷門に小舞台を設定してその演技を記録しているのだ。それ以前に、写真を撮る─撮られるというシチュエーションが、必然的にモデルを演技者に変身させてしまうということもありそうだ。
「浅草のポートレート」と「マイ・グランドマザーズ」がどちらも演劇的設定によってできあがった作品だとすれば、問われるのはその演技の質ということになるだろう。いうまでもなく前者は人間(というより人類)の生の厚みを感じさせる凄みのある存在感を発しており、後者はどう見ても底の浅いお嬢様芸でしかない。やはりこの分野はやなぎには分が悪そうだ。何度も書くように物語化、記号化を徹底させていくべきではないだろうか。

2009/03/07(土)(飯沢耕太郎)

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