artscapeレビュー

2009年04月15日号のレビュー/プレビュー

ラディカル・クロップス第1回“Floating Islands”

会期:2009/03/23~2009/04/04

exhibit Live & Moris[東京都]

前本彰子のベリーダンスに沖啓介の七弦ベース、大村益三のタイ料理に浜田涼の給仕……。出品作家がそれぞれ特技を生かした悪夢のようなオープニングナイト。は別にして、大村の神をも恐れぬ神棚およびのぞき見趣味的箱庭はもっと評価されていい。

2009/03/23(月)(村田真)

本橋成一『バオバブの記憶』

発行所:平凡社

発行日:2009年3月10日

バオバブという樹にはとても思い入れがある。ご他聞に漏れず、僕もこの樹の存在を初めて知ったのは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』だった。そこでは、惑星を破壊してしまう怖い樹として描かれているが、実際によく東アフリカに行くようになってバオバブを見ると、ずんぐりとした姿がどことなくユーモラスで愛嬌があって、すっかり好きになってしまった。雨季の終わり頃には、ぶらぶらと大きな実が風に揺れている、バオバブには「人が生まれた樹」という伝承もあるが、本当にその中に赤ん坊が入っていそうでもある。
本橋成一もバオバブにすっかり取り憑かれた一人で、35年前に仕事で滞在していたケニアで初めて出会って以来、マダガスカル、インド、オーストラリアなどでも撮影を続けてきた。今回はとうとう西アフリカのセネガルに長期滞在し、写真集だけでなく、同名の記録映画(渋谷・イメージフォーラム、ポレポレ東中野でロードショー上映)まで作ってしまった。どちらもモードゥという少年とその家族を中心に、バオバブの樹とともに生きる村の暮らしを丁寧に描いていて、味わい深い出来栄えである。僕のようなバオバブ好きにはたまらない作品だが、たとえ実際に見たことがない人でも共感できるのではないだろうか。われわれ日本人のなかにもある、「鎮守の森」を守り育てるようなアニミズム的な自然観に、バオバブの樹のどこか懐かしい佇まいはぴったりフィットするように感じるのだ。
なお、やはり「バオバブの記憶」と題された写真展も、東京・大崎のミツムラ・アート・プラザで開催(2009年3月9日~31日)された。写真集と同じ写真が並んでいるのだが、大伸ばしのクオリティがやや低いように感じた。デジタルプリントの精度が上がってきているので、逆にプリントの管理が甘いと目立ってしまう。

2009/03/24(火)(飯沢耕太郎)

太田順一「父の日記」

会期:2009/03/18~2009/03/31

銀座ニコンサロン[東京都]

これはすごい写真展である。会場にはノートのページを克明に複写したプリントがずらりと並んでいる。つまり手書きの文字だけが目に入ってきて、他には何もない。ノートに記されているのは「父の日記」である。写真家の太田順一の父、中野政次郎は1920年の生まれ。妻に先立たれた1987年頃から87歳で亡くなるまでの20年間、「毎日欠かさずきちょうめんに」日記をつけ続けた。昔気質の、あまり趣味もないまじめな人柄なので、記されているのは朝起きて、食事をおいしく食べたといった類の、身のまわりの出来事だけである。あまり波風も立たないその記述が、死の2年前、認知症の症状が出て老人施設に入所する頃から大きく変わってくる。「ボケてしまった」、「毎日がつらい」というような同じ言葉が何度も綴られ、字は錯乱し、殴り書きに近くなってくる。それはまさに「父の脳を襲った困惑の嵐のその痕跡」としかいいようのないものだ。
それらの写真を見て、書かれている文字を辿っていくうちに、凡庸なドキュメンタリー写真では決して味わうことができない異様な感動を覚え始める。太田が記しているように、誰もが「遠からず訪れる自分自身の生」に対する思いを巡らさないわけにはいかなくなるのだ。ぼく自身、つい先日父親を亡くしたばかりだったので、写真を見ながら深い感慨に捉えられてしまった。それにしても、太田順一という写真家はただ者ではない。ノートのページを複写して展示するという、単純だがこれしかないアイディアを衒いなく実行してしまうところに、ドキュメンタリストとしての底力を感じる。彼には『日記・藍(らん)』(長征社、1988)という、本作と対になる素晴らしい写真集もある。こちらは自分の幼い娘の生と死をぎりぎりまで凝視し続けた写真日記。この二つの作品を見比べると、より彼の仕事の凄みが増してくるだろう。

2009/03/26(木)(飯沢耕太郎)

『dA(Document on Architecture)』issue_006 流動性

発行所:田園城市文化事業有限公司(Garden City Publishers)

発行日:2006年

台湾の建築雑誌。創刊は2003年で、テキストは繁体字中国語。本号の特集タイトルは「流動性 Fluidity」で、伊東豊雄を中心として、妹島和世+西沢立衛、小嶋一浩+赤松佳珠子らの建築が取り上げられている。この号は、東海大学(台湾)の曽成徳氏(Chuntei David Tseng)、亜洲大学の謝宗哲氏(Hsieh Tusng-Che)らが全面的に編集に携わったという。
まず出版社について触れておきたい。名前からも伺えるように(日本語であれば、田園都市)、建築・都市関連を中心に、デザイン、ファッション、アート、写真関連の書籍を多く出版している。ル・コルビュジエの『ユルバニスム』が訳されているなど翻訳も多彩だ。日本の建築書の翻訳も多い。『dA』はこの田園城市出版が出す現在唯一の建築雑誌である。
この6号を、台中の東海大学にて謝宗哲さんから頂いた。編集への力の入れ方がすごい。表紙は台中オペラハウスの形態を模して開口部も空けたもの。特集の内容は、日本だと数冊分になりそうなくらい、いわば美味しいとこ取りの作品が詰め込まれている。写真の使い方にも、編集へのこだわりが感じられる。日本の建築学生は、「この本、翻訳されないんですか?」と訊いていたが、逆輸入したくなるくらいの内容だったともいえる。個人的には、妹島和世+西沢立衛に「白色的曖昧」、小嶋一浩+赤松佳珠子に「越境的理由」というサブタイトルが付けられていたのをみて、漢字文化圏の可能性を感じた。理解が出来る。そして日本語と中国語の中間的な不思議な響きを感じた。

2009/03/27(金)(松田達)

I.M.ペイ《東海大学路思義教堂》

[台中(台湾)]

竣工:1963年

中国系アメリカ人建築家、I.M.ペイの初期作であるこの建築は、台湾の東海大学内に建つチャペルである。ペイは1917年生まれで、1913年生まれの丹下とともに、アジアの二大巨匠ともいわれる。17歳で渡米し、ハーバード大学を修了し、同大学の助教授を経て、デベロッパーのウェブ&ナップ社で企業内建築家として働き始める。自身の事務所を開いたのは1955年、その後も同社で働き続け、完全に独立するのは1960年のことだから、建築家としてはスロースターターであるともいえる。おそらく、その直後にこのプロジェクトははじまった。
チャペルは、4枚のHPシェル(双曲放物面形シェル Hyperbolic Paraboloid Shell)が2枚一組で支え合っており、柱はない。平面は変形六角形。手のひらをあわせたような、民家的とも、幾何学的ともいえる形態で、内部に入ると、向かい合う屋根の間の天窓から光が内部にこぼれ落ちてくる。全体的に、丹下健三の《東京カテドラル》からの影響かと思った。しかし同じHPシェルを用いているが、I.M.ペイのチャペルの方が一年早く完成していた。丹下の《東京カテドラル》は、8枚のHPシェルが十字に交差しているから、採光の仕方も似ているといえるが、建築的解法としては、ペイは2組をずらしてサイドからの光を取り入れようとしており、同じではない。また丹下の場合、構造より意匠がやや優先し、純粋にHPシェル構造ではなかったという。
メキシコの構造家、フェリックス・キャンデラが、HPシェル構造の建築で脚光を浴びたのが1951年だから、10年程度でその影響がアジアに現われたということだろう。ただし、キャンデラはコンピュータなしに、手計算だけで構造計算を行なっていたというからすごい。丹下の東京カテドラルが、日本的な形態を感じさせないのに対して、ペイのチャペルには、何かアジア的な形態を感じた。丹下が日本に、ペイがアメリカにいたことが反作用的に働いたのだろうか。

2009/03/27(金)(松田達)

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