artscapeレビュー

2009年05月01日号のレビュー/プレビュー

「転校生」(演出:飴屋法水、脚本:平田オリザ)

会期:2009/03/26~2009/03/29

東京芸術劇場中ホール[東京都]

女子校の教室をそのまま切り取ってきたのかと錯覚するほどに自然な舞台。作為(演出)の産物であるのは承知しているものの、あまりの自然さに圧倒される。けれども、それだけでは本作を語るのに不十分だ。冒頭に胎児の映像が映る。スクリーンの前にいる役者たちの生命は、こんな胎児が生育してここにあるのだよななどと考えているうちに、役柄そのままの年代20人ほどがいま舞台上で実際に呼吸していて、その身体自体が、この舞台の中心的存在であることに気づかされる。役者が生けるオブジェとして舞台にある。演劇と生命。リアルと見紛う芝居とその場でリアルに呼吸している身体。両者の交差する空間に異物が置かれる。おばあさんと呼ぶにふさわしい身体の転校生。生や死の理解しがたさに、さらに他者の理解しがたさが織りこまれ、生の謎は増大する。転校生に戸惑いながらも高校生のおしゃべりはとまらない。からかったりなぐさめたり励ましたりを繰り返す何気ない教室の一場が人間というものの生活をかたどる。最後に、一列に並ぶと高校生たちは一斉にジャンプした。「せーの」と合図し床に着地すると激しい音がした。着地の度に一人一人の名前と生年月日がスクリーンに映された。着地音は、まるで彼女たちを生み落とした大地の地響きに聞こえた。
転校生:http://festival-tokyo.jp/program/transfer/

2009/03/26(木村覚)

日本画探検 古い絵と新しい絵

会期:2009/03/05~2009/03/29

板橋区立美術館[東京都]

板橋区立美術館が所蔵する古美術作品を現代美術のアーティストたちの作品とともに紹介する展覧会。河鍋暁斎、狩野養信、狩野栄信、狩野典信らと、フジイフランソワ、しりあがり寿、平山郁夫、山本太郎らが共演した。頭では理解しつつも、古典と現代をここまで直接的に並列させられると、技術的な問題はもちろん、対象を見る視線の強度の圧倒的なちがいに愕然とさせられる。古典には到底かなわない現代の絵描きたちは、何を描き、どこへ向かえばよいのかと考えあぐねざるを得ない。

2009/03/26(木)(福住廉)

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トム・フリードマン展“Not Something Else”

会期:2009/03/28~2009/05/02

小山登美夫ギャラリー京都[京都府]

500枚のドローイングを圧倒的なスピードで見せるアニメ作品《Ream》が鮮烈。見る者に考える暇を与えず、意味や解釈を加える以前の「体験」を味わわせてくれるからだ。自分の顔写真をくしゃくしゃに丸めたり皺をつけた《I am not myself》と、緑色の巨大なモンスター《Green Demon》は単純に笑えた。そして極めつけは、スタイロフォームの小さな球を無数に用いた《Island》。小さなピースは生物や社会を構成する単位を示しているようだが、関西出身の私には巨大なネギ焼きに見えてしょうがなかった。

写真:Tom Friedman, Island (2009)Styrofoam and Paint 97.5x95x95cm

2009/03/27(金)(小吹隆文)

タノタイガ個展 T+ANONYMOUS

会期:2009/03/07~2009/03/29

現代美術製作所[東京都]

アーティストのタノタイガによる個展。風俗嬢に扮したセルフポートレイトのシリーズや、本人のデスマスクを陳列したインスタレーション、木彫りでヴィトンのバッグをつくり、そのフェイクを肩に掛けながらパリのヴィトン本店に潜入する映像作品などを発表した。一見すると、リアルとフェイクの境界を行き来しながら、アイデンティティのありかを模索しているように見えるが、しかし、展覧会のタイトルに暗示されているように、おそらくタノタイガが実践しているのは、唯一無比の存在証明を達成するための「自分探し」などではなく、自分なんてどこの誰でもありうるというニヒリズムの徹底ではないだろうか。だからこそ、ヴィトンのフェイクにもなれるし、風俗嬢にだってなりうるのだし、そうしたある種の柔軟性が生きやすさのヒントであるような気がした。

2009/03/27(金)(福住廉)

転校生

会期:2009/03/26~2009/03/29

東京芸術劇場中ホール[東京都]

平田オリザの戯曲『転校生』を飴屋法水が演出した話題作。一般から募った女子高生に女子高生の役を演じさせ、しかも飴屋ならではの演出や脚色も加え、すばらしい舞台に仕上がっていた。階段状に組まれた舞台装置を教室に、観客席の通路を廊下にそれぞれ見立てた上で、そこを縦横無尽に行き交う女子高生たちの動きと、まさに同時多発的に生まれる会話の嵐。その動きは視点を確定することができないほど目まぐるしく、その声はどこかに焦点を合わせれば別の声が聞こえなくなるほど重層的で、多中心的だ。一人ひとりの役柄に細かくキャラが設定されていることはもちろん、こうした群集のダイナミズムが、女子高生のリアルな生態を確実にとらえ、舞台上で進行する物語によりいっそうの厚みをもたらしていた。初老の転校生がクラスに突然入ってくることで、それと入れ代わって(文字どおり押し出されるかたちで)唐突に命を絶つ生徒。そのことに気づかぬまま、「死」や「生」について論じ合い、そして放課後を迎えるクラスの日常。その劇中において、女子高生たちにとっては転校生が異人として取り扱われていたが、私たち観客の多くにとっては当の女子高生こそ異人の典型である。その異人の存在をとおして「死」と「生」の問題を考えさせるという意味でいえば、この演劇は前衛的な実験劇というより、むしろ古来から連綿と受け継がれている民話的な伝承物語に位置づけられるのかもしれない。

2009/03/27(金)(福住廉)

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