artscapeレビュー

2009年08月15日号のレビュー/プレビュー

高橋堅《弦巻の住宅》

[東京都]

竣工:2009年

旗竿地の奥の不定形な敷地に、十字を崩したような形態の二層のボリュームと、それを包絡する七角形の屋根。十字のあいだの部分は庇のかかったテラスとなっている。運良く高橋氏とお施主さんに内部を案内して頂く機会があった。以前からぜひ見たいと思っていた住宅であり、大変貴重な機会であった。
角度が直交座標から少しずつずれていることで、内部での経験は何とも簡単に言語化できない複雑なものであった。特に全体が見渡せる二階のLDKと子ども室を含んだ空間では、360度見えているにも関わらずプランの全体像が分からないという不思議な体験をした。
高橋はこの住宅に関して「円環するパースペクティブ」という論考を書いている。われわれは空間において焦点を同時に一つの場所にしかあわせることができないのに、その視点や焦点距離を動かし、また被写界深度を変えることで、空間全体を把握しているかのように認識している。それはパースペクティブ(透視図法)という制度に従っているからだという。しかし高橋はそこから「パースペクティブによる空間」に対して疑いをかける。おそらく彼は、パースペクティブという制度に抵抗する空間をつくろうとしているのであろう。弦巻の住宅は、複数のパースペクティブを順に円環させる仕掛けを内包させた住宅であり、彼の論考はそれについて触れたものだと言える。
角度や焦点の絶妙なずれが、複数のパースペクティブ間を運動させる原動力となっているようであるが、同時にそれによってつくられる空間体験の効果が、正確なプラン(ここでは平面図に加え、計画を組織する二次元的な図面全般の意味で用いている)を決して想起させないという点についても重要に思われた。プランとは決して現実に見ることのできない視点による図面表記であるのだから、われわれが感じる空間体験を本来プランとして理解することは難しいはずである。同様にプランによって本来的な空間体験を記述しつくり出すことも難しいはずである。平面や断面など二次元的な表現の組み合わせによって到達できないはずの、空間がもつ本来の可能性に彼は挑戦しようとしている。彼はロンシャンの礼拝堂における空間体験が、その後に見た写真イメージによってどんどん他のものに置き換えられていく経験について語っていたことがある。写真イメージは一見三次元的であるが、一つのパースペクティブによって「空間的」に見えるだけのものであり、むしろ二次元の側に近いだろう。だからロンシャンでの豊穣な空間体験をいつの間にか捨象して、二次元的なものに置き換えていったのだ。彼の考え方を敷衍すれば、本来の空間体験は複数のパースペクティブを移動し、またそこから逃れようとする運動によってはじめて得られるようなものである。そのような本来的な空間体験を目指したのが《弦巻の住宅》であり、「円環するパースペクティブ」という論考は理論的にその考え方を説明しようとしている。いわば弦巻の住宅は、計画化されない空間、もしくは写真に置き換えられない空間と言うこともできるだろう。

2009/07/03(金)(松田達)

描かれた不思議な世界──ミヒャエル・ゾーヴァ展

会期:2009.06.18~2009.07.12

美術館えきKYOTO[京都府]

映画『アメリ』で一躍有名になった挿絵画家ミヒャエル・ゾーヴァの個展。絵本『ちいさなちいさな王様』『エスターハージー王子の冒険』といった代表作から最新作まで130点の原画を展示。4年前に開催された個展で展示されていた作品も多かったのだが、インタビュー映像によると、納得がいかないと完成した原画の上から何度も塗り直してしまうことがあり、いまとなっては原型をとどめていない原画も多いらしい。作品やタイトルから作家のひととなりや生き様を連想するのも楽しいが、逆もまたしかり。その毒っ気と鋭いユーモアは何層にも塗られた色に比例していくつも隠されているような気もした。

2009/07/04(土)(酒井千穂)

松原健「果実の肖像」

会期:2009/06/20~2009/07/18

MA2 Gallery[東京都]

松原健は広告やファッション写真の仕事をしながら、緻密で端正な静物写真の作品を発表してきた。今回のMA2 Galleryでの個展では、これまでの彼のイメージを一新するような、意欲的なシリーズにチャレンジしている。
1Fに展示されているのは、ベトナムで撮影された10~18歳くらいの少年・少女の「脚」のシリーズ51点。脚は膝から下のあたりで断ち切られ、古く、崩れ落ちそうな石やコンクリートの壁を背景にして、あたかも天使が浮遊するように空中に浮かんで見える、そのか細いけれども、ゴツゴツとした勁さを備えた素足のたたずまいが、何ともなつかしい。かつて僕らの少年時代によく見た脚の形なのだが、いまの日本だとなかなかお目にかかれないだろう。
2Fには、ガラス瓶に貼り付けられたポートレートが並んでいる。モデルは1Fの「脚」のシリーズと同じ子どもたちである。目を閉じたその顔は仏像のようであり、見方によっては死者のようにも見えなくない。瓶の中にはホーチミン市のマーケットで手に入れたという古いスナップ写真(1960年代)が入れられている。写真は、やはりマーケットで束になって売っていた封筒や手紙とともに、壁にもピンナップされている。その皺になったり、色褪せたりした印画紙や封筒や便箋の眺めは、記憶を揺さぶり、想像力を押し広げる作用を及ぼす。当然ながらその連想の先には、あの苛烈なベトナム戦争の記憶があるのだろう。声高にその悲劇を告発しているわけではないが、今と過去とを繋ぎ、記憶の風化を押しとどめようとする意志を感じとることができる、いい展示だった。

2009/07/08(水)(飯沢耕太郎)

ヘルシンキ・スクール写真展──風景とその内側

会期:2009/06/27~2009/08/09

資生堂ギャラリー[東京都]

ヘルシンキ・スクールとはフィンランドのヘルシンキ芸術大学の教師、卒業生を中心とした写真家グループ。1982年から同大学で教えはじめたノルウェー出身のティモシー・パーソンズが、90年代から積極的に展覧会を開催し、作品の発表の場としてギャラリー・タイクを設立して、内外に広くその存在をアピールしてきた。ドイツのHATJE CANTZ社から、既に3冊の写真集も出版されている。
資生堂ギャラリーでの展覧会は、そのヘルシンキ・スクールの作家たちの日本での最初の本格的な展示といえるだろう。今回紹介されたのは、グリーンランドの氷河やそこに住むイヌイットたちを撮影するティーナ・イトコネン(1968年生まれ)、東洋画の影響を取り入れた風景写真のサンドラ・カンタネン(1974年生まれ)、女性と水という神話的なテーマを扱うスサンナ・マユリ(1978年生まれ)、少女時代の記憶を仮面劇のような設定に投影するアンニ・レッパラ(1981年生まれ)の4人、ヘルシンキ・スクールの第二世代から第四世代にあたる女性写真家たちである。彼女たちの作品に共通しているのは、フィンランドの豊かな自然環境に対する親和性と、ロマンティシズムと高度な技術力との見事な融合だろう。強烈な自己主張を感じさせる作品群ではないが、そのゆったりとした時間の流れを感じさせる、地に足がついた落着きがある表現はとても好ましいものがある。
アメリカ、ドイツ、フランスといった写真大国ではなく、このような「辺境」の国からもきちんとしたメッセージを発することができるというのは、極東の島国・日本の写真家たちをも勇気づけるのではないだろうか。

2009/07/09(木)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00005226.json s 1207394

エア・ヴァスコ「Defining Darkness」

会期:2009/06/27~2009/08/09

G/P GALLERY[東京都]

恵比寿のG/P GALLERYでも、ヘルシンキ・スクールの若手作家であるエア・ヴァスコ(1980年生まれ)の個展が開催されていた。2005年から一年間、武蔵野美術大学にも留学経験があるというヴァスコの作品は、他の写真家たちとは違って、フィンランドの自然環境とは切り離された、より内面的な抽象世界を形成しており、同じヘルシンキ・スクールといってもそのスタイルや題材にかなりの幅があることがわかる。
彼女が「暗闇」(darkness)にこだわるのは、少女時代の記憶にその源泉がある。「カーテンの影や床に散らばった服の生地で形づくられた幽霊やスパイ、モンスターのようなもの」が、暗闇を写真によって「定義」(define)し直すことで、ふたたび画面の中に召喚されるのだ。事物の表層的な色彩や質感にこだわるヴァスコ写真の感触は、日本の同世代の小山泰介や西澤諭志とも通じるものがあるように感じる。世の東西を問わず、似たような物の見方があらわれてきているのだろうか。

2009/07/09(木)(飯沢耕太郎)

2009年08月15日号の
artscapeレビュー