artscapeレビュー

2009年12月01日号のレビュー/プレビュー

さかぎしよしおう展

会期:2009/11/03~2009/11/21

ギャラリエ アンドウ[東京都]

美術家・さかぎしよしおうの新作展。陶土を溶いた水をスポイトから垂らして手のひらサイズの造形物を創り出すことで知られているが、今回その超絶技巧は今までにない展開を見せた。球体と球体を直線状に積み上げるのではなく、球体と球体のはざまに球体を落とし、ちょうどレンガ状に積み上げる構造に変化したのだ。だからだろうか、造形物の表面はよりいっそう密度が増し、強固で堅牢な印象を強く醸し出していた。同じ技を駆使しながらも、ちがう作品として提示してくるところに、つねに新しさを見せ続けるアーティストとしての揺るぎない矜持を見た。

2009/11/12(福住廉)

佐伯慎亮『挨拶』

会期:2009/10/17~2009/11/21

FUKUGAN GALLERY[大阪府]

最近は写真だけでなく映画の撮影も担当するなど、ますます評価と活動の幅を広げている佐伯慎亮。作品集の発売を記念した本展では、過去の作品からセレクトされた大量の作品が画廊壁面を取り囲むように展示された。いわばベスト・オブ・佐伯だ。喜び、悲しみ、怒り、笑い、生と死など、この世で遭遇するありとあらゆる感情・体験を丸ごと飲み込んで吐き出したかのような彼の作品は、一言でタイプをくくり切れない混沌が大きな特徴だ。そして、作品に身を浸すうちに、身体の内からポジティブなパワーがふつふつと湧いてくる。この汚濁と清浄が一体化したかのような感覚こそ佐伯作品の最大の魅力ではなかろうか。作品を見るうち、泥の中から開花する蓮の姿を連想した。

2009/11/13(小吹隆文)

大崎テツアーノ写真展 謝写酌軸

会期:2009/11/10~2009/11/15

ギャラリー・アビィ[大阪府]

大崎は街中の変てこな看板や人間のユーモラスな仕草を撮らせたら独特の才能を発揮する写真家だ。本展でもそうした笑いを誘う作品が多数出品された。同時にちょっとした人情味も彼の特徴で、冷笑ではなく温かみのある笑いが作品を救いあるものにしている。彼は作品の多くを携帯電話で撮影しているが、パソコンを持たないので、データ容量が満杯になったらSDカードを交換して画像を保存する。なので、家には大量のSDカードがあり、作品を探し出すのが大変なのだとか。デジタル機器をアナログ発想で使いこなすそのエピソードも彼らしくて微笑ましい。

2009/11/13(小吹隆文)

アジア現代美術展──「ただいま」

会期:2009/09/05~2009/11/23

ギャラリーアートリエ[福岡県]

第4回福岡トリエンナーレと同時期に同建物内で催された展覧会。九州大学文学部の後小路雅弘教授の研究室で学ぶ学生たちが企画した。彼らに選び出されたアーティストは、同トリエンナーレの選考からもれたアジアのアーティストたちから選び出された6人と、日本人のアーティスト2人を加えた、合計8人。狭い空間とはいえ、それぞれ力のある作品が展示された。おおかたの作品に通底しているのは、日々の凡庸な日常にたいする鋭い意識。凡庸な日常風景を切り取った断片を短い映像で淡々と見せる鈴木淳は、彼のライフワークともいえる《だけなんなん/so what?》を、角田奈々は実母の生き様を写真に収めた《狭間》を、それぞれ発表した。なかでもひときわ際立っていたのが、マレーシアから参加したクリス・チョン・チャン・フイ。その映像作品《B棟》はクアラルンプール郊外の団地を一日中ワンカットで延々と撮影し続けたもの。視覚的には共同の廊下や階段を行き交う人びとが小さく見えるだけだが、聴覚的には彼らが交わす言葉や音楽、あらゆる類の生活音などが建物の内外から聞こえてくるので、そこでじつに多様な人びとが暮らしていることがリアルに伝わってくる。日中は主婦たちの世間話や子どもたちの歓声が多いが、夜になると扉を華やかに彩る電飾や廊下から打ち上げられる花火に驚かされ、恋人たちが愛の言葉を囁きあい、やがて鈴虫の音色が夜の空気にこだまする。日常に否定的に介入するのでもなく、安易に肯定するのでもなく、ただ日常そのものを即物的に記録した映像でありながら、じつに豊かな人間の営みを浮き彫りにしてみせた傑作である。

2009/11/13(福住廉)

北九州国際ビエンナーレ2009 「移民」

会期:2009/10/10~2009/11/15

旧JR九州本社ビルほか[福岡県]

福岡県北九州市の門司港で開催された国際展。会場は1回目の2007年と同じ旧JR九州本社ビルで、参加アーティストも、シンガポールのチャールズ・リム以外、前回と同じ面々でそろえられた5組。ただ前回と大きく異なっているのは、出品作品が映像だけで占められており、しかもその形式もほとんど同じだったこと。都市の街並みやそこで労働する人びとを収めた静止画像をわずかに動かしながらゆっくりとクローズアップする映像を、いっさいの音声もなく、ただ延々とループ状に反復させた。映像の形式が統一されているせいか、それぞれのアーティストの個性が打ち消され、集団的な制作活動なのではないかと思えるほど、その内容も同じように見えたが、これが独創的なアーティストという神話を打ち砕く野心的な試みであることはまちがいない。けれども、こうした挑戦的な手法が「移民」という今回のテーマに対応しているのかどうかは甚だ疑問である。画一的に均質化された映像が「世界標準」の名の下に世界の凹凸を平らにならしていく現在のグローバリズムのメタファーとして考えられなくもないが、ではそこからあふれ出し、逃げ出し、移動し続ける「移民」はいったいどこにいるのだろうか。その謎を問いかけたという意味では成功なのかもしれない。けれども、映像を見る快楽をこれほどまで否定する禁欲的な映像が、どこまで問いを問いとして持続させることができるのか、きわめて疑わしい。

2009/11/14(福住廉)

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