artscapeレビュー

2010年10月01日号のレビュー/プレビュー

仏像修理100年

会期:2010/07/21~2010/09/26

奈良国立博物館[奈良県]

いま私たちがお寺で拝んでいる仏像は、明治30年(1897)に制定された古社寺保存法にもとづいて修理されたものが多い。本展は、篤い信仰心の現われというより、文化財として保存するために修理されてきた仏像の歴史を振り返る展覧会。仏像を展覧会で鑑賞することはあまり珍しくないが、その構造図や修理図、構造模型、修理前の仏像と修理後のそれを比較した写真などが立ち並んだ展観は、滅多にお目にかかれないものであり、非常に見応えがある。なかでも補修した箇所を赤色で示し、補足した箇所を青色で示した修理図の美しさは並外れている。補修によってはじめて仏像の手のひらに古銭が埋め込まれていたことや、像内に水晶の五輪塔や経巻が納入されていたことが判明するなど、驚愕のエピソードもおもしろい。思うに、昨今の現代アートに欠落しているのは、こうしたミラクルを仕込む遊び心ではないだろうか。

2010/08/25(水)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00010033.json s 1222124

デヴィッド・リンチ DARKENED ROOM

会期:2010/08/07~2010/10/09

コム・デ・ギャルソンsix[大阪府]

映画監督であり画家でもあるデヴィッド・リンチの個展。12本にも及ぶ映像と7点の絵画が発表された。すでに何度も指摘されているように、リンチの世界観はフランシス・ベーコンの絵画に大きく影響を受けており、実際今回展示されたいずれの絵画も、ベーコンのようにフラットな背景に人体や顔を厚塗りで描いたものだ。ベーコンになくてリンチにあるのは、黄土色のメディウムを塗り固めているせいか、絵画が伝える意味内容よりも、直接的に人糞を連想させることだ。人糞にまみれた自画像? 人糞というおぞましきものによって人間のおぞましさを表現してしまう直接性こそ、デヴィッド・リンチのかわいらしさなのかもしれない。

2010/08/25(水)(福住廉)

小鷹拓郎 ポテトと河童とラブレター

会期:2010/08/18~2010/08/29

Art Center Ongoing[東京都]

東京の野方でリサイクルショップ「こたか商店」を営むアーティスト、小鷹拓郎の個展。新作の映像作品《ポテトとアフリカ大陸を横断するプロジェクト》(2010)のほか、《河童の捕まえ方を教えてもらうプロジェクト》(2009)、首長族の娘を慕う《Dear NOZOMI》(2006)、じつの祖母の生態を観察した《BABAISM》(2005)など、過去の映像作品もあわせて発表された。映像のスタイルとしては、密着取材あり、旅行記風あり、私小説風ありと、じつにさまざまだが、それらに一貫しているのは、かつてのテレビ番組「進め!電波少年」のように、出来事のおもしろさを伝える手段として映像を最大限に使い倒す構えだ。こうした傾向は近年の映像作品全般に見受けられるひとつの潮流であることはたしかだが、問題なのは、小鷹が体験した出来事のおもしろさを追体験することだけではなく、その前提を踏まえたうえで、小鷹がどのように映像を使いながら、私たちをどこへ導こうとしているのかを見定めることだ。奇跡的な出来事の追体験だけなら、お笑いのDVDやYOUTUBEで十分事足りるし、そもそも展覧会というメディアをわざわざ使う必要もないからだ。そうすると、初期の作品、とりわけ《BABAISM》(2005)は、密着取材という方法論には共感できるにしても、そこには自分を守りながら他者を笑うという姿勢が一貫していることがわかる。にわかには信じがたい祖母の生態をネタとして笑うという構図だ。ところが、見る者にとって、そのようにして自己と他者を一方的に切り分けた映像は、撮影者である小鷹の悪意に加担することはできても、祖母の側に同一化することはできない。撮影者の視点をとおしてしか見ることのできない映像ほど退屈なものはない。映像の豊かさとは、映像に映されたモデルの視点から見た世界の光景を見る者に想像させることにあるからだ。そのような複眼的な構造が大きく開花するのは、《河童の捕まえ方を教えてもらうプロジェクト》である。河童の存在を自明の理として語る村人たちによる証言を集めたうえで、河童を釣る名人に教えを乞うドキュメンタリー風の映像は、嘘か真か決定できない宙吊り状態に観客を投げ込む。そうすることで村人たちの河童を見る視線にたくみに同一化させるため、見る者は河童が暮らす世界にうまい具合に入り込めるのである。

2010/08/26(木)(福住廉)

藤森照信展 諏訪の記憶とフジモリ建築

会期:2010/07/24~2010/08/29

茅野市美術館[長野県]

建築史家で建築家の藤森照信による個展。構想を具現化したジオラマのほか、表面の仕上げに用いる建材の数々、これまでの作品を自ら解説した写真パネル、デッサンやスケッチが会場内に展示され、そしてこの展覧会のために制作された、UFOのように空中に浮かんだ茶室《空飛ぶ泥舟》が同美術館の広場で公開された。《空飛ぶ泥舟》というタイトルがすでに暗示しているように、藤森のこれまでの建築作品を見て気づくのは、それが宮崎駿の世界観と明らかに通底していることだ。フォルムの相似性はもちろん、アニメーションと建築というちがいはあるにせよ、どちらもファンタジーを具体的な形に仕上げる力量に長けているところも似通っている。表面や仕上げだけではない。今回展示された藤森の卒業制作《橋》にも《東京プラン2101》にも認められるのは、いずれも都市の廃墟を自然によって再生させるという構想だ。宮崎アニメがじつは強烈な厭世観によって成り立っているように、ファンタジックな藤森建築の底には現在の都市文明を否定する身ぶりが隠されている。あるいは、都市の破壊と再生をひそかに望むことこそ、すべての建築家に通じる原初的な欲望なのかもしれないが、それをあらわにしたという点でも、今回の展示はやはりすぐれている。

2010/08/27(金)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00010301.json s 1222127

活動写真弁士 澤登翠の世界

会期:2010/08/28

佃島説教所[東京都]

活動写真弁士の澤登(さわと)翠による独演会。畳が敷き詰められたお寺の集会所で、『チャップリンの番頭』(1916)と『番場の忠太郎・瞼の母』(1931)の2本が上映された。前者はともかく、圧巻だったのは後者。片岡千恵蔵が扮する浪人が生き別れた母を訪ねて旅を続ける物語に、澤登による声色を使い分けた話芸が絶妙のタイミングで重ねられる。稲垣浩監督による映画自体も、場面に応じて工夫したカメラアングルや迫力のある殺陣、役者の細やかな演技など、いちいちすばらしい。実の息子であることをなかなか認めてもらえなかった母に、ようやく受け入れられた結末のシーンで、片岡千恵蔵が一瞬見せる、子どものように無邪気な歓喜の表情は、それが次の瞬間エンドロールによってたちまち断ち切られてしまうことによって、観客の脳裏に深く刻み込まれたにちがいない。

2010/08/28(土)(福住廉)

2010年10月01日号の
artscapeレビュー