artscapeレビュー

2010年10月15日号のレビュー/プレビュー

竹岡雄二「見せること」

会期:2010/09/03~2010/10/02

ワコウ・ワークス・オブ・アート[東京都]

ミニマルアートのようにシンプルきわまりない彫刻の展示。だが、じつは彫刻ではなく、彫刻を置く台座であったりガラスケースだったりするらしい。彫刻に台座がなくなったのは、抽象彫刻が登場して現実空間とのクッションを必要としなくなったからだが、竹岡の場合は逆に台座から彫刻を取っ払ったものだといえる。まあそれを「彫刻」として見せてるわけだが。やっぱりアーティストは変だ。

2010/09/29(水)(村田真)

アントワープ王立美術館コレクション展

会期:2010/07/28~2010/10/03

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

アントワープ王立美術館といえばなんてったって15~17世紀のフランドル絵画、なかんずくボッス、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイクあたりが有名だが、今回は19世紀末のアンソール、クノップフら象徴主義から、20世紀のマグリット、デルヴォーらシュルレアリスムあたりまでのベルギー近代絵画のみ。しかしかつての栄華は失われたとはいえ、また、パリをはじめとするモダニズム運動の中心地から離れているとはいえ、いやそれゆえにというべきか、油絵らしい油絵を堪能できた。

2010/09/29(水)(村田真)

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プロジェクトN 川見俊

会期:2010/07/28~2010/10/03

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

ありふれたスタイルの、しかしドギツイ色彩の住宅をフラットに描いている。ま、よくあるポップな絵(?)だが驚いたことに、これらの住宅は実在するのだそうだ。彼はこれを写真に撮り、住宅と同じように板に同じ色のペンキを塗っていくのだという。新作では、風景画の上に太い格子模様を重ねて描いている。具象と抽象のダブルイメージともいえるが、フェンス越しに見た風景というのが正解らしい。これはおもしろい。しかし、ギャラリーの窓に色とりどりのプラスチック容器を並べたインスタレーションはなんだろう。光を透過して美しいけど意味不明。

2010/09/29(水)(村田真)

秦雅則「虹色とエロの破壊衝動的な」

会期:2010/09/28~2010/10/03

企画ギャラリー・明るい部屋[東京都]

1.白い部屋の窓の外には緑がある。中心の女性は笑っていない。
2.何かの会場のような場所で、浴衣姿の女性が案山子のように立っている。少しだけ笑っている?
3.水着姿の不細工がふりかえる。
4.変わった顔をしている少女。日差しの強いなか、何か言いたいかのような思わせぶり。
5.少女が裸になる意味はない。少しだけ笑っている。
…………
21.誰かの部屋で、誰も知らない少女を写真に撮った。
秦雅則の個展「虹色とエロの破壊衝動的な」に展示されていた21点の作品の、解説ペーパーの一部を抜粋してみた。笑っている、あるいは笑っていない女の子(おそらくエロ雑誌から切りぬかれた写真)が、「アイコラ」の手法で殺風景な部屋や戸外の光景に嵌め込まれている。眼の部分だけを、別の写真から移し替えたものもある。写真はフレームの下の方におさめられ、その上には二枚の色紙(虹の色?)が平行におかれている。色紙が入っていないフレームもある。
秦雅則がこのシリーズで観客に何を伝えようとしているのか、作品を見ても、解説を読んでもまったくといっていいほど理解できない。だが、このいじましい、こせこせした、卑屈とさえいえそうな光景が、いまの日本の若者たちを取りまいている性的な現実だということだけはわかる。彼の、地面に剥き出しの下腹部を擦り続けるような痛々しい営みは、何とも奇妙な場所にわれわれを連れていこうとしている。目をそむけたくても、なかなかそうはさせてくれない。

2010/09/30(木)(飯沢耕太郎)

内田樹『下流志向』

発行所:講談社

発行日:2007年1月

著者と対談する機会があり、まとめて何冊か再読したり、新たに読んだ。正直、『下流志向』は、セールス的には売れる書名だろうが、三浦展『下流社会』にあやかったようなタイトルで避けていた。しかし、今回手にとって読んでみると、乾久美子さんが推薦していたとおり、確かにおもしろい。現代の日本では、自らの意思で知識や技術の習得を拒否し、階層降下していく子どもが(史上初めて?)出現したという。内田は、それは子どもが最初から消費主体として形成されるからだと考察する。本書は、内田の著作『こんな日本でよかったね』でも触れていたテーマをふくらませた教育論だが、筆者の経験に照らし合わせても、共感できる部分が多い。一番納得したのは、「学校で身につけるもののうちもっとも重要な『学ぶ能力』は、『能力を向上させる能力』というメタ能力」だという指摘だ。つまり、数値で計測できる知識や技術の習得ではない。本書は、グローバリズムやアメリカ的な成果主義を批判する一方、ある意味では前近代的なコミュニケーションの復活も唱えている。近年、宮台真司や東浩紀も父として発言することから、こうした立場に近づいているのを考えると、興味深い同時代の現象だ。内田が直接的に建築に触れることはないが、現代の住宅は家族だけで構成されており、他者がいないという主張は、プログラム論に接続するだろう。実際に内田氏と彼の自邸+道場を設計中の光嶋裕介氏を交え、トークを行ない、感心させられたのは、自らの本で述べていることを実践していること。カタログから建築家を選ぶのではなく、たまたまの出会いから若手建築家に設計をぽんと依頼したこと。そして(構造主義的に?)他者が考える内田の家を受け入れつつ、パブリックを内包し、まちに還元するみんなの家をめざしていること。このドキュメントも書籍化されるらしく、建築の完成と出版が楽しみである。

2010/09/30(木)(五十嵐太郎)

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