artscapeレビュー

2010年12月01日号のレビュー/プレビュー

國府理 展 Parabolic Garden

会期:2010/11/09~2010/12/04

アートコートギャラリー[大阪府]

生来のメカ好きとSF的世界観、エコロジカルな思想が合体した國府の世界。元々はオリジナルの乗り物をつくっていたが、近年は生態系への関心が制作の動機となっている。本展では、パラボラアンテナのお皿に自然と植物や苔が生えた体で、しかも火星探査機のような稼働タイプの庭と、巨大な温室ドーム内に定期的に霧が発生する循環系の環境をつくり上げ、外界から遮断された風景と対峙する実験装置的な作品などを出品。地球環境へと思いを馳せる巨視的な表現を見ることができる。作品のほとんどは既発表作の改良版だが、どれも関西では見られなかった作品なので、まとめて見る機会が得られてありがたかった。

2010/11/09(火)(小吹隆文)

田中真吾 展─踪跡─

会期:2010/11/01~2010/11/24

INAXギャラリー2[東京都]

大量のDMやプレスリリースを一枚一枚シュレッダーにかけるのが面倒なので、いっそ火をつけて一気に燃やしてしまいたいという欲望にかられることがよくある。逆にいえば、そういう欲望が抑圧されるほど、現状の都市生活では火の使用が禁じられているわけだ。田中真吾の作品を見ていると、燃焼のカタルシスとともに火を使いこなしてきた人類の知恵を思い出す。それは、幾重にも重ねた画用紙を平面ないしは正立方体やピラミッド状に整え、燃焼によってめくれ上がった焦げ目の造形を見せる作品だ。黒松の樹皮のような凹凸のあるマチエールと白い紙の対比がひときわ美しいが、硬質の印象とは裏腹に、じっさいは少し触れただけで崩れ落ちてしまうほど脆い。その微妙な均衡関係が、火が内側に抱える破壊的な性格と通底していることは明らかだ。火はすべてを焼き尽くすことができるが、その寸前で踏みとどまることで人類の歴史は築かれてきた。だとすれば、火から遠ざけられている現代人は、もしかしたらもはや「人間」ではないのかもしれない。

2010/11/11(木)(福住廉)

岩崎貴宏「Phenotypic Remodeling(フェノタイピック・リモデリング)」

会期:2010/10/22~2010/12/04

ARATANIURANO[東京都]

「六本木クロッシング2007」(森美術館)や「日常の喜び」(水戸芸術館)に参加した岩崎貴宏の個展。会場の床に紙袋や洋服などの日用品を配置したインスタレーションなどを発表した。一つひとつの日用品は部分的に解きほぐされ、その部分の繊維や素材をもとに鉄塔やクレーンなどの造形を細かく編み上げ、屹立させるところが見所だ。一見すると、工芸的な手わざを披露する類の作品に見られがちだが、それは現実的な文脈とはっきりと結ばれた、じつに社会的な作品である。日用品を再構成して形成したランドスケープは、現実の都市風景のミニチュアであると同時に、それがさまざまな商品記号の集積によって成り立っていることを示しているからだ。垂直方向に立ち上がる造形は、おそらく水平方向に無限に広がる記号経済の荒波の中から這い上がるための梯子なのかもしれない。

2010/11/11(木)(福住廉)

ポスター天国 サントリーコレクション展

会期:2010/11/13~2010/12/26

サントリーミュージアム[天保山][大阪府]

本展をもって16年間の活動に終止符を打つサントリーミュージアム[天保山]。閉館は関西の美術ファンにとっては痛恨の事態だが、今日までの関西の文化に対する貢献には、感謝というほかない。最後の展覧会は、コレクションの基軸であり、同館が最も得意とするポスター展となった。ギャラリーでは収まりきらず、エントランス部分にまではみ出したポスターは、約2万点のコレクションから選び抜かれた約500点。デザイン史上の傑作から、第2次大戦中のレア物まで、多彩なラインアップで観客を魅了している。入場料も500円とサービス価格になっているので、ミュージアム最後の雄姿をできるだけ多くの人に見てもらいたい。

2010/11/12(金)(小吹隆文)

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山口晃 展 いのち丸

会期:2010/10/27~2010/11/27

ミヅマアートギャラリー[東京都]

もうそろそろ山口晃にマンガを描かせてあげたらどうだろうか? 余計なお世話を承知で言えば、思わずそんな独り言をつぶやきたくなるような展観だ。本展では「いのち丸」というキャラクターにもとづいた絵画や映像などが発表されたが、そのように考えたのは、具象的な絵はもちろんのこと、その形式にもマンガへの強い執着心を感じざるをえなかったからだ。冒頭に展示された絵画作品は、その下の壁に墨を垂らしかけたことによって、引き裂いた顔面を描いた絵のなかの流血が絵をはみ出して滴り落ちるように見せていたが、これはいうまでもなくかつて井上雄彦が「最後のマンガ」展で試みた手法である。井上の場合はマンガに依拠しながらもマンガという小さな枠をなんとかして打ち破ろうとする貪欲な意思を感じさせていたが、山口の場合はむしろ美術という高尚な枠からなかなか抜け出せないもどかしさの現われのように見えた。それが証拠に、絵の中身を取り外して木枠だけを展示した作品や、真っ黒に塗りつぶしただけの絵は、「欠如」や「不在」、「痕跡」などのネガティヴな要素によって表現する現代美術特有の禁欲的な(お)作法をあえて踏襲してみせるアイロニカルな構えのようにしか見えなかった。かつて社会を風刺した山口のシニカルな視線は、いまや現代美術という狭い世界で生きる自らに向けられているかのようだ。であればいっそのこと、全力を尽くしてストーリーマンガを描いてもらいたい。へんにアートを意識するのではなく、絵画をコマとして構成し、テキストを遠慮なく盛り込むことに挑戦することが、山口晃にとっての今後の課題となるのではないか。それで大成功を収めるのか、大失敗に終わるのか、それを見極めるのが、ファンの務めだろう。

2010/11/12(金)(福住廉)

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