2018年06月15日号
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artscapeレビュー

2011年01月15日号のレビュー/プレビュー

物気色─物からモノへ─

会期:2010/11/21~2010/11/28

京都家庭女学院・虚白院[京都府]

東洋と西洋、美術と工芸、芸術と経済と科学など、既成の枠組みを乗り越えた新たなアート、文化の枠組みを模索するべく、2010年1月に京都大学総合博物館で開催された「物からモノへ」展。その第2弾として開催されたのが本展だ。タイトルの「物気色(モノケイロ)」の「物」には、物質の「物」、人格の「者」、モノノケやもののあはれの「モノ」など複数の意味が込められている。会場の虚白院は、朝鮮通信使とゆかりがあり、大正期には日本南画院の本部、戦後は女子教育の拠点となった場所だ。敷地内には母屋のほか、能舞台、南画院時代の展示室、茶室、竹林の庭などがあり、黒田アキ、岡田修二、近藤高弘、大舩真言ら16組の作家がサイトスペシフィックな展示を行なった。壮大な企画意図については未だに理解できていないが、画廊や美術館はもちろん、京都で時折行なわれる寺社での展示とも違う、個性的かつジャンルレスな展示が行なわれたのは間違いない。それにしても、会場の建築・作庭のユニークなこと。地元の人にさえ知られていない上質な空間が、京都にはまだまだ埋もれていることを実感した。

展覧会URL=http://www.monokeiro.jp/

2010/11/20(土)(小吹隆文)

救いのほとけ──観音と地蔵の美術──

会期:2010/10/09~2010/11/23

町田市立国際版画美術館[東京都]

かの瀬戸内国際芸術が「島巡礼」という言葉で表象されがちだったように、昨今の現代アートをめぐる状況は、宗教的なメタファーによって要約できることが多い。聖地を巡礼することによって贖罪なり祈願を神のもとに届けようとすること。そこに現実逃避の側面がないわけではないが、だからといって仏像への広い関心がすべて非現実的な狂騒にすぎないわけでもないだろう。私たちはいま、神や仏といった超越的な存在に救済の願いを仮託せざるをえないほど、生きることに疲弊している。ただし、そうした消耗する生き方というものは、必ずしも現代的な病理の症候ではなく、かつてもいまも、私たちはそのようにして神や仏に依存しながら生きてきたのだ。「ほとけ」をめぐる平面や彫像を展示した本展は、自立した近代的個人という幻想が打ち砕かれてしまったいま、そのような共依存の関係がそれほど悪いものではないということを、静かに語りかけていた。

2010/11/23(火)(福住廉)

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ファンタスマゴリア

会期:2010/11/19~2010/12/19

ギャルリー宮脇[京都府]

近年、アール・ブリュットを積極的に取り上げているギャルリー宮脇が、刺激的な企画展を開催した。光に満ちた神秘体験を描写するアンティエ・グメルス、異業の妖精たちが浮遊する絵画を描くルジェナ、女性の裸体画の周囲にキッチュな雑貨品を過剰に貼り付ける山際マリ、自然物や既製品、自作の造形物を組み合わせてシュールなオブジェを制作する濱口直巳、細胞増殖を思わせる生々しい作風の平面や立体で知られる玉本奈々をピックアップした本展だ。アール・ブリュットといっても、彼女たちは障害をもつわけではない。美大で学んだ者もいれば、独学者もいる。ステレオタイプなアール・ブリュット観を排し、特定の枠組みや流行とは無縁で、自己探求的な作風を持つ作家を集めたのだ。この選択は、アール・ブリュットを狭義に捉える原理主義者には邪道に見えるかもしれない。しかし、冷静に考えれば言葉本来の意味に忠実だし、アール・ブリュットの可能性をより広げることにもつながるだろう。実際、作品はどれも赤裸々な魅力に溢れ、文字通り“生の芸術”だった。広義のアール・ブリュットをラインアップに加えることで、ギャルリー宮脇の活動は更に速度を増すであろう。

2010/11/24(水)(小吹隆文)

大﨑のぶゆき「falls」

会期:2010/11/06~2010/11/26

YUKA contemporary[東京都]

水溶性のメディウムで描いたイメージをあえて水で流し溶かし、その形象をゆっくり崩していく様子を映像として見せる作品。色鮮やかな山水画が崩落するアニメーションだが、水流にあわせて落下する人型のアイコンが崩壊のカタルシスを強調していて、おもしろい。確固としていたはずの基盤や土台が脆くも崩れつつある、現在の不安定な社会制度を重ねて見ることもできるだろう。ただし、この作品の醍醐味は「崩落」や「落下」にあるというより、むしろ「変形」にあるのではないか。少女のイメージを扱った別の作品では、垂直方向から撮影しているからなのか、有形物が重力に従って無形物となって崩れ落ちていく経緯ではなく、ゆったりとした速度で別の形象へと変化していく過程を見せているからだ。崩壊の快楽はもちろんある。けれども、それだけではない。大﨑が視覚化しているメタモルフォーズの観察は、変化の先に待ち受けている未知の可能性を暗示しているのであり、それは必ずしもネガティブなものではないのである。

2010/11/24(水)(福住廉)

泉太郎 展 こねる

会期:2010/11/02~2010/11/27

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

泉太郎がまたやった。というのも、一昨年の「日常/場違い」(神奈川県民ホールギャラリー)に続き、「クジラのはらわた袋に隠れろ、ネズミ」(アサヒアートスクエア)、「捜査とあいびき」(ヒロミヨシイ)、「入り口はこちら──何が見える?」(東京都現代美術館)と国内で立て続けに発表した勢いも冷めやらぬうちに、また大規模な個展を成功させたからだ。映像を発表する現場で撮影した映像をその場で見せるという芸風はそのままに、この会場の巨大な、しかしあくの強い空間に気圧されることなく、存分に使い切った展示がすばらしい。例えば「ECHOES」(ZAIM)や「日常/場違い」のように、かねてから泉の本領は隙間やデッドスペースを映像インスタレーションによって鮮やかに生き返らせる術にあると思っていたが、近年の泉は与えられた広大な空間を使い倒す才覚も身につけたようだ。神奈川県民ホールギャラリーの、あの無駄に長大な空間を小屋を回転させる道のりとして活用するところなどは、思わず息を呑むほどだ。このセンスは泉独自の視点や空間構成力にもよるのだろうが、その一方で彼がつねに泉太郎という身体によって映像と現場を直結させていることにも由来している。人の身体が生きる空間でないかぎり、その空間が生き生きとするはずもない。この当たり前の事実を忘れているのが、フォトジェニックなだけの彫刻作品で広大な空間を埋めようとして無残に敗北しがちな昨今の現代アーティストである。泉の強さは、美術館の権威的で非人間的な空間であっても、まるでオセロの白と黒を反転させるかのように、いとも簡単にその空間を甦らせるところにある。死んだ美術館を蘇生させるには、泉太郎を呼んで遊ばせるのがいちばんよい。

2010/11/26(金)(福住廉)

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