2018年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

2011年02月01日号のレビュー/プレビュー

大正イマジュリィの世界──デザインとイラストレーションのモダーンズ

会期:2010/11/30~2011/01/23

渋谷区立松濤美術館[東京都]

「イマジュリィ」とは、フランス語で図像、画像のこと。大正期、印刷技術の進歩と普及によって、書籍や雑誌、広告などの複製メディアを舞台に多様な視覚イメージが社会に溢れ出る。アール・ヌーボーやアール・デコといった海外からの様式を取り入れつつ、同時代の文学、文化、社会運動などを反映し、それらがまたこの時代特有の表現の多様性へと結びつく。新しいメディアで活躍したのは、当初日本画や洋画の画家たちであったが、やがてそのような場を専門とする画家、挿画家が現われてくる。この時代の文化は「大正ロマン」「大正モダン」とも呼ばれるが、「大正イマジュリィ」はそのなかでも特に複製技術を前提とした視覚表現を括る概念のようだ。2004年に大正イマジュリィ学会が設立されており、本展は学会の研究活動の一環と位置づけてよいのだろう。図録に収録されている対談に依れば、イマジュリィという言葉は島本浣氏(京都精華大学教授・大正イマジュリィ学会会長)の発案によるものだそうだ。
「大正イマジュリィ」は、基本的には時代区分と発表の場=複製メディアによって規定される。それゆえ、包摂される画家も作品の様式も多種多様である。本展ではそれを「画家」と「意匠」の二つの切り口から紹介している。
 第一部「大正イマジュリィの13人」(地階会場)では、雑誌『白樺』の芸術感をキーに、13人の画家──藤島武二、杉浦非水、橋口五葉、坂本繁二郎、竹久夢二、富本憲吉、高畠華宵、広川松五郎、岸田劉生、橘小夢、古賀春江、小林かいち、蕗谷虹児──が取り上げられている。橘小夢(たちばな・さゆめ)は名前も作品も初見。《水魔》と題された、河童に取り憑かれ水底へと引き込まれてゆく女性像は幻想的かつ官能的。多くの人が足を止めていた。ぜひまとまって作品を見る機会が欲しい。
 第二部「さまざまな意匠(イマジュリィ)」(二階会場)は、描かれたモチーフをキーに多様な画家たちの作品を取り上げている。ここでも目を引いたのは、「怪奇美のイマジュリィ」のコーナー。谷崎潤一郎の小説に添えられた水島爾保布による人魚像が美しい。そういえば、第一部にも高畠華宵による人魚像が展示されていた。怪奇小説、探偵小説の流行がこのような挿画を必要としていたことがよくわかる。
 図録は一般書籍として刊行されており、書店でも購入可能(山田俊幸監修『大正イマジュリィの世界──デザインとイラストレーションのモダーンズ』、ピエ・ブックス、2010)。[新川徳彦]

2010/12/08(水)(SYNK)

chair+(チェアプラス)展

会期:2010/12/10~2010/12/19

アクシスギャラリー[東京都]

実験的な椅子のデザインを行なうというと、どうしても椅子の素材を、形態を、時にはその機能を変容させることを考えがちだが、この種のアプローチはもはや遣りつくされた感がある。2010年12月に開催された、デザイナー、建築家、編集者、ライター、プロデューサーのグループ「SIDE」による「chair+」展が興味深かったのは、デザイナーをそうしたジレンマから解放せしめるようなテーマ設定がなされていたことだ。そのテーマとは、「新作の椅子が存在する、あるいは存在に至ったシーンを明確に描く」ことであり、「chair+」のプラスは、デザインの契機やコンセプトを意味する。結果として、「SIDE」の各メンバーが個別のブースで提示したシーンとその椅子は、日常を思いも寄らぬかたちで切り取り、われわれと椅子との多様な関わりを炙り出す刺激的なものだった。
デザイナー・五十嵐久枝は、寝しなに子どもに読む本を積むためのベッド脇の台を、椅子に変換した。台よりも身体的なフォルムを有する椅子は、それ自身の息遣いのようなものを場に与え、背の裏にあるLEDがもたらす椅子の影もこの夢想的な生を主張する。建築家・寺田尚樹は驚くべきことに、名作スーパーレジェーラをプラモデル・キットに変容させた。宙に浮かぶ完成作とその影はもはや座るためではない、イコンとしての椅子の在り様を示すとともに、それを作者がこつこつと作り続ける壮絶な光景を想起させる。対照的に、デザイナー・藤森泰司が生み出したのは、光が差し込む白一色の朝の食卓である。シンプルな椅子のある空間は、「慌しい生活の中の“途中”」である朝のシーンを静止させ、その儚く美しい瞬間を虚構的に顕現させる。ともにデザイナーの村澤一晃と小泉誠は、日本と椅子との関係性を異なる視点から切り取ってみせた。床座用の脚付きクッションをさまざまに発展させた村澤の椅子は各々、部屋の用途を決めない日本家屋と同様、使う人や場所、用途を限定しない不思議な比率を有する。小泉は、過去の日本人が初めて経験した洋風椅子であろう学童椅子に「そり」を付け、現在の日本でもいまだ「洋風」なロッキングチェアに変容させた。デザイナー・若杉浩一に至っては、椅子はもはや人間のためではなく、「酒」のためのものだ。椅子の背は酒瓶を支えるためにあり、一杯やる人間は角材に尻を引っ掛けるのみなのだ。編集者・内田みえ、ライター・長町美和子、グラフィックデザイナー・粟辻美早の3人はメンバーの思考が詰まった展覧会ブックレットを制作し、ブースでは「本」を積み上げた。確かに「本」──グラフィック・デザインと言葉──は、デザインの発展と分かち難く結びつく媒体に違いないことを改めて認識させられる。デザインディレクター・萩原修は、ベンチ一台をブースに置いた。このベンチは、実際にデザインの対話ができる場ともなるが、同時に、本展がメンバー間の討議の所産であることの象徴ともなる。実際、「chair+」展を観て感じられたのは、椅子がいまや生活の基本アイテムであることを超え、現代の高度に発達した文化、思考の表象としてわれわれの内部に棲みつくものであり、その視座における新たなデザインの可能性がわれわれの前に広がっていることなのだ。次回展も期待したい。[橋本啓子]
写真=大森有起/photo: yukiomori

2010/12/12(日)(SYNK)

『トロン:レガシー(TRON LEGACY)』

会期:2010/12/17

全国TOHOシネマズほか

『トロン:レガシー』。1982年に公開された、世界初のフルCG映画『トロン』の続編が遂にそのヴェールを脱いだ。2010年が『アバター』の年だったとしたら、2011年は『トロン:レガシー』の年になれるだろうか。
20年前、エンコム社の設立者、ケヴィン・フリンが謎の失踪を遂げる。成長したケヴィンの息子サムがエンコム社の大株主になるが、彼の日課は利潤を追うばかりの経営者たちを困らせること。ある日、サムに謎のメッセージが届く。謎を解く手がかりを求めて、父の経営していたゲームセンターを訪れたサムは、そこでサイバースペースにのみ込まれてしまう。サムが行き着いたのは、父ケヴィンがつくり出した理想の世界。未知の敵と激戦を繰り広げながら、父と再会し、反乱を起こしたクルー(ケヴィンがつくったプログラム)から人類を救うというのが、この映画の大まかなストーリーだ。
あまりにも典型的なストーリーだ。生き別れた親を探し、暴君を追い出し、群れを救う。『ライオンキング』のサイバースペース版にすぎない。オビ=ワン・ケノービを連想させるケヴィンのファッションから光線剣、「父親ではない」という台詞に至るまで、『スター・ウォーズ』へのオマージュも満載すぎて、新鮮さがない。デジタル俳優の表現力からみても既存の映画を超えていない。『トロン』前編が公開された1982年には、『E.T.』、『ブレードランナー』といったSFの名作が次々と公開され、『トロン』は注目されることもなく、もちろん興行成績もそれほど芳しくなかった。28年ぶりに呪われた名作を蘇らせたディズニーの夢は、今回も悪夢に終わってしまうのか。またこの映画に見どころはあるのか。それは「デザイン」だ。空間デザインとサウンドスケープ(音が描く風景)によってうみ出された新世界こそが、ディズニーが夢見た世界であり、この映画の見どころである。既存の3D映画、たとえば『アバター』が奥行きをつくり出すことで立体感を強調しているのに対し、この映画は平面をつくり出すことで、ストーリー展開上必要なサイバースペースと機械美、そして3Dという三つの要素を余すところなく実現させている。音の生み出す空気の密度もまた、観客をサイバースペースの真中に誘う。建築学を学んだ、監督のジョセフ・コジンスキーは「制作にあたって、まず映画制作の経験がない自動車デザインや建築分野の人たちに声をかけた」という。ストーリー不在という空白を、映像(デザイン)が見事に埋めている、別の意味で見ごたえのある作品だ。[金相美]
図版クレジット=(C)DisneyEnterprises, Inc.AllRightsReserved.

2010/12/21(火)(SYNK)

ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人

会期:2010/11/13

シアター・イメージフォーラム[東京都]

90年代が「キュレイターの時代」だったとしたら、昨今は「コレクターの時代」らしい。日本に限ってみても、高橋龍太郎の「ネオテニー・ジャパン」(上野の森美術館ほか)や山本冬彦の「サラリーマンコレクター30年の軌跡」(佐藤美術館)、上田國昭・克子夫妻の「ゲンダイビジュツ『道(ドウ?)』」(練馬区立美術館)など、コレクションの傾向や作品の大小こそ異なるにせよ、これまで表舞台に上がることが少なかったコレクターにスポットライトが当てられるようになっている。これが、制作する美術作家を言説の面で牽引する美術批評や歴史的文脈に位置づけるキュレイションの弱体化と表裏一体の関係にあることは疑いないし、コレクターが前面化した背景にギャラリストが隠れていることもまちがいない。アート系の映画としては異例のロングランを続けている本作も、その意味では、現代アートの消費者の拡大と底上げを目論むギャラリストによる啓蒙映画として利用されている側面がないわけではないだろう。けれども、佐々木芽生監督が元郵便局員と図書館司書の夫妻のつつましくも豊かな暮らしに密着したこの映画は、そうした底の浅い「戦略」を打ち砕くほど、じつにまっとうなコレクターの真髄を浮き彫りにしている。それは、コレクションの前提には必ず「鑑賞」があるという厳然たる事実だ。ニューヨークの画廊界隈に頻繁に出没するハーブ&ドロシーの行動は、有望な作品を目ざとく買いあさってすぐさま転売して利益を得ようとする投機的なコレクターというより、むしろ銀座の画廊街に毎週出没する、一風変わった名物老人に近い。じっさい、この映画でもっとも印象的なのは、膨大なコレクションを文字どおり押し込んだ狭いアパートの一室より、この夫妻がオープニングに足しげく通いつめ、おしゃべりに興じながら批評的に鑑賞している姿だ。そう、鑑賞の先にコレクションや批評があるのであり、決してその逆ではないということを、ハーブ&ドロシーは身をもって体現しているのである。コマーシャルギャラリーの展覧会だけしか見ていないくせに現在のアートシーンを総括してしまうようなたちの悪い学芸員や美術評論家、売れそうな新人を一本釣りするために美大の卒展を徘徊する貪欲なギャラリスト、そのギャラリストの口説き文句を鵜呑みにして作品を買ってしまう低俗なコレクターが横行している昨今だからこそ、できるだけ多くの展覧会に足を運び、自分の眼で作品を批評的に鑑賞するという大原則を終始一貫させているハーブ&ドロシーの誠実な態度は際立っている。よきコレクターの映画というより、よき鑑賞者の映画である。

2011/01/01(土)(福住廉)

ノルウェイの森

会期:2010/12/11

TOHOシネマズスカラ座[東京都]

もし世界がこんなにのっぺら坊の一枚岩になってしまったとしたら、一刻も早くおさらばしたい。思わずそんな独り言を喉元で呑みこんだほど、映画『ノルウェイの森』は単調きわまりなく、じつに退屈な映画である。というのも、この映画の登場人物たちはみな一様にボソボソと呟くような話し方をしていたからだ。それが「世界的文学」を映像化した監督の世界観の現われなのか、あるいはそもそも村上春樹のファンは小説を読むときからすでにあのような小さくて暗い声を脳内で再生させているのか、正確なところはよくわからない。百歩譲って、根暗な主人公はよしとしよう。ただ、その陰湿な文学青年を効果的に引き立てるはずの脇役まで同じように暗く染め上げてしまったのは、どうにもこうにも理解に苦しむ。緑の心に落ちている陰は表面上の明るさと表裏一体だからこそ陰になりうるのであって、天真爛漫なキャラクターを失ってしまえば緑は緑でなくなり、直子とのちがいがわからなくなってしまう。ニヒルな魅力とユーモアにあふれていたレイコも、この映画では肉欲にかられた年上の女にすぎない。みんながみんな小さな声でブツブツとなにやら「文学的」な会話を繰り広げる、自己陶酔を極限化したエロ映画。ここには、しかしはっきりと美術の問題が含まれている。撮影のロケーションとして神奈川県立近代美術館鎌倉館や多くの貸し画廊が入居している銀座の奥野ビルが登場しているからではない。趣味趣向を共有する同族同士で連帯しながら他者を排除する一方、その親密性の高い範囲だけを世界として誤認する傾向は、オタク文化を背景にしたスーパーフラットであろうと、翻訳不可能な独自の絵画言語を死守する抽象絵画であろうと、社会的であることを金科玉条とするアートプロジェクトであろうと、いまやあらゆるアートに通底する「普遍的」な性格だからだ。無数の小宇宙が並立する相対主義に居直るこのであれば、何も問題はない。けれども、群島のあいだを交通する航路を切り開こうとするのであれば、このつぶやき型コミュニケーションとどうすれば関係性を結ぶことができるのかを考えなければならない。これを思うと、さらに気が滅入る。

2011/01/01(土)(福住廉)

2011年02月01日号の
artscapeレビュー

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