2018年10月15日号
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artscapeレビュー

2011年03月01日号のレビュー/プレビュー

トランスフォーメーション

会期:2010/10/29~2011/01/30

東京都現代美術館[東京都]

明治以来の西洋コンプレックスはいったいいつまで続くのだろうか? 長谷川祐子がキュレーションを手がけた展覧会を見ると、つねにやるせない倦怠感を覚えてならない。西洋の芸術を翻訳しながら輸入することで前進してきた美術史がもはや隠しようがないほど行き詰まり、それに代わる新たな歴史観を模索することが、少なくとも80年代後半のポストモダニズム以後の共通認識だったはずだ。「日本」固有の歴史をでっちあげるにせよ、東アジアの連帯を目指すにせよ、日本社会の隅々で地域の再生に取り組むにせよ、あるいはもっと別のかたちを考えるにせよ、この数十年はその糸口を求めた試行錯誤の連続だったといってよい。けれども、いずれの立場にも通底していたのは、西洋の芸術を一方的に受容する歴史のモデルからの意識的な切断だった。にもかかわらず、何かといえばマシュー・バーニーを召還し、白い空間に審美的な作品を並べ立てる(だけの)展示は、もうこれまで何度も見てきたし、はっきり言って、そうとう古い。今回の展覧会では、その古さを覆い隠す装置として「人類学との出会い」が演出されたのだろうが、それにしてもいかにも取ってつけたような中途半端な扱いで、古さを塗り変えるほど新しいわけではない。いや、これまでの輸入史観を批判的に相対化する視座をもたらした90年代のポストコロニアリズム理論やポストモダン人類学の成果がまるで考慮されていなかったことを考えると、むしろ退行というべきである。こうした果てしない悪循環を許してしまう、私たち自身の精神構造に蔓延る奴隷根性こそ、もっとも厄介な問題なのだろう。

2011/01/21(金)(福住廉)

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渓谷 才木寛之 展

会期:2011/01/24~2011/01/29

番画廊[大阪府]

発泡スチロールなどを芯に用い、革を張って異形のオブジェを制作してきた才木寛之。本展では、初めて壁掛け式のレリーフ的な作品を発表。事前に見た画像では平面的な印象を受けたが、実物を見ると思っていたより凹凸が深くて、立体作品と同様の妖しい気配が感じられた。また、会場には普段彼が使用している道具類もディスプレイされており、効果的な演出となっていた。

2011/01/24(月)(小吹隆文)

任田進一 展 SILENT DRIFT

会期:2011/01/25~2011/02/13

neutron kyoto[京都府]

モノクロ写真の中央には、中空に静止する煙の塊のような物体が写っている。なんともシュールな情景だ。作家が在廊していたので制作法を質問すると、泥水をスポイトに詰めて水槽に放った瞬間に撮影したという。それだけでこれほど神秘的なイメージをつくれるものだろうか。きっと、照明やカメラのセッティング、泥水の配合など、独特のノウハウがたっぷり詰まっているに違いない。

2011/01/25(火)(小吹隆文)

息もできない

会期:~2011/01/28

ユナイテッドシネマ豊洲[東京都]

名作中の名作である。身体の内側をきつく絞られるような映画とは滅多に出会えないが、この映画はまちがいなくそのひとつと断言できる。見終わった後、ほんとうに息ができなくなるほどだ。何がすばらしいのか挙げていけばきりがないが、そのひとつは残酷で無慈悲な現実を徹底して描き切っているところ。父親に暴力をふるわれて育てられた主人公のチンピラは、仲間はおろか女にも平気で手を出すくらい暴力に染まっているが、ヤン・イクチュン監督はこの男の悲劇をこれでもかというほど鑑賞者に直視させる。手持ちのカメラとクローズアップを多用した画面が、えもいわれぬ緊迫感を醸し出しているのかもしれない。しかも、『ヘブンズ・ストーリー』のように最後の最後で空想的な「神話」を持ち出すのでもなく、『冷たい熱帯魚』のように物語に無理やり決着をつけるわけでもなく、暴力が果てしなく続く絶望的な現実を最後まで描き切る冷徹な粘り強さがすばらしい。かつての被害者がいまの加害者となる暴力の連鎖については、たとえば『風の丘を越えて』(イム・グォンテク監督、1993年)でも主要なモチーフとなっていたが、この旅芸人の一家の物語にはパンソリという音楽芸術がまだ救済として残されていた。しかし『息もできない』には救済や贖罪のための芸術がまったくない。希望もないし、未来もない。その意味で、これは芸術が終わった後の、まさしくいま現在の時代に生まれるべくして生まれた映画である。正直に言って、精神的にはかなりしんどい。けれども、それが何ら嘘偽りのない現実であるなら、この映画を出発点として歩いていかなければならないのだろう。記念碑的な映画である。

2011/01/26(水)(福住廉)

ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー

会期:2011/01/08~2011/03/21

金沢21世紀美術館[石川県]

なぜ写真家はアーティストになりたがるのだろうか。荒木経惟しかり、篠山紀信しかり。「カメラマン」はいつのまにか「フォトグラファー」となり、やがて「アーティスト」となって一丁上がりというわけだ。ホンマタカシもこの流れに乗っているように見えるのは、今回の展示で発表された写真が現代アートの文法を確実に押さえているように見えてならないからだ。もちろん、もともとホンマタカシは現代アートと親和性が高かったし、双眼鏡で写真を見せるインスタレーションなどは美術館の展覧会という条件を踏まえた現われなのだろう。けれども雪原に広がる血痕をとらえた写真は、視覚的な美しさを強調する反面、背景となる物語の説明を一切省き、結果的に何かの「痕跡」を直接的に提示することになっている。そう、これは日本の現代アートをいまも牛耳る因襲的なルールである。言葉による明快な説明より見た目の曖昧な美しさを、加算的で過剰な表現より減算的で禁欲的な表現を。痕跡や不在、欠落があるからこそ、その穴を充填しようとして鑑賞者の視線が作品に導かれるというわけだ。けれども、痕跡がつねに同時代の表現を読み解くキーワードであるとはかぎらないし、痕跡そのものが様式のひとつと化しているといえなくもない。現代アートはもっと多様であるし、現実社会はそれ以上に乱雑としている。その混沌をとらえてこそ、「ドキュメンタリー」ではなかったか。今回の展覧会は、もっと貪欲に挑戦することができたはずなのに、どうにも「置き」にいった印象が否めないのだ。

2011/01/28(金)(福住廉)

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