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artscape onsite 1 飯沢耕太郎さんと観る「石内 都 肌理(きめ)と写真」展 レポート

飯沢耕太郎/artscape編集部

2018年03月01日号

2月13日(火)、写真評論家で当サイトのレビュアーの飯沢耕太郎さんを講師に迎えて開催した、artscape初の読者イベント「artscape onsite 1」。今回訪れたのは横浜美術館「石内 都 肌理(きめ)と写真」展。前号でお送りしたフォトレポートに続いて、今回は鑑賞会とそのあとの懇親会での飯沢さんと参加者の対話を詳しくお届けする。

個人の記憶と社会的背景の交錯点 ──「絶唱、横須賀ストーリー」

企画展「石内 都 肌理と写真」の会期に合わせて同館のコレクション室に展示されている石内都さんのデビュー作「絶唱、横須賀ストーリー」。この作品を起点として解説ツアーは始まった。最初はこの鑑賞会は企画展だけの予定だったのだが、飯沢さんの強い要望により特別に観せていただくことが決まった作品群だ(このイベントは美術館閉館後に展示室を貸し切るかたちで行なわれた)。

「絶唱、横須賀ストーリー」の被写体は、石内さんが少女期を過ごした横須賀の町そのものだ。1947年に群馬県の桐生で生まれた石内さんは、父親の仕事の関係で横須賀に移り、幼少期から大学に入るまでの十数年間を過ごした。「石内さんにとってこの町は、少女時代の記憶がすべて閉じ込められている場所だといえるでしょう。この作品を観た印象では、横須賀は決して明るい町ではないですよね。戦前は日本の海軍の基地があり、戦後はアメリカ軍が駐留していた。日本の戦後社会を考えるときに駐留軍というのはかなり大きな問題をはらんでいて、石内さんの記憶も、明るく楽しいことだけではなかったはず。写真を新しい自分の表現メディアとして選び取ったときに、少女時代の記憶をたどり直してみようとしたんですね」。

当時、写真家としてすでに精力的に活動していた荒木経惟氏の強い勧めで、ニコンサロン運営委員であった三木淳氏にこの一連の作品を見せたことが転機となった。作品のタイトルはその三木氏が付けたという。「1970年代当時、山口百恵という歌手がいた。彼女の声、顔、歌があの時代の空気と密接に結びついている。三木淳さんはこの写真を見て彼女の『横須賀ストーリー』という曲を思い出したんでしょうね。山口百恵という歌手も少女時代の記憶を背負いながら表現していた人です。三木さんは二人の表現者に共通する要素を嗅ぎ付けたんじゃないか」。飯沢さんの解説から、作品の見え方もどんどん多層的になっていく。

ニコンサロンでの「絶唱、横須賀ストーリー」の展示(1977)の翌年に出した写真集『Apartment』(1979/制作は1977-78)で、石内さんは木村伊兵衛写真賞を受賞する。そこに「連夜の街」(1978-80)を加えた3作品は「初期三部作」と呼ばれている。現在の石内さんの作品には見られない、黒々とした粒子に覆われた初期の作品群を初めて目にする参加者も多かったはずだ。

「どんな写真にも言えることですが、個人的な記憶や歴史というものと、その土地や時代といった社会的な広がりのある歴史。この二つが交錯するところに作品は存在していると思うんですね」。飯沢さんのこの言葉は、あらゆる写真を観る上で重要な指標になりそうだ。

「目で触る」感覚 ──「横浜」

コレクション展示室を後にし、今回のイベントのメインである企画展「石内 都 肌理と写真」の会場へ。240点近くの写真が展示されたこの大規模な展覧会は、「横浜」「絹」「無垢」「遺されたもの」という4つのパートから構成されている。

最初のパートは「横浜」。今回の企画展は、美術館のある横浜を撮影した写真を導入部に置いている。かつてアメリカ駐留軍の人々が暮らしていた地域を撮った「Bayside Courts」(1988-89)。赤線跡地を撮った「連夜の街」(1978-80)。廃墟のような古いアパートを撮った「yokohama 互楽荘」(1986-87)。そして、近年石内さんのアトリエから出てきた「金沢八景」。「いままで、『絶唱、横須賀ストーリー』がもっとも初期の作品とされていたんですが、それよりも前の、実験的にさまざまな撮影を試みている作品が初公開されています。石内さんらしからぬスナップショット的な写真が面白い」と飯沢さんは注目する。

ざらついたモノクロームの作品に囲まれながら、飯沢さんが鑑賞のヒントを出します。「僕は以前、石内さんの作品について『目で触る』というような言い方をしたことがあります。石内さんがものを見たり撮影したりするときは触覚的な要素がある。ものを触ったときの、ザラザラ、サラサラとした手触りや、硬さ、柔らかさ──そういった身体的な感覚を印画紙の白から黒までのグラデーションのなかに、つまり今回の展覧会タイトルにもなっている『GRAIN(=肌理)』に、忠実に生々しく置き換える。これが石内さんの基本的なスタイルです」。それが一番わかりやすいのが壁を撮影した作品だ。「横浜」のパート全体に貫かれた、建物の壁に対する作家の執着はひとつの見どころだと飯沢さんは続ける。

90年代に入ってからの「1906 to the skin」(1991-93)で、石内さんは新たなスタイルを切り開いていく。そこにあるのは、情感的なニュアンスの強かった初期作とは違い、細やかな粒子で皮膚の皺や襞を写し取る、静かな眼差しだ。被写体となっているのは、当時85歳前後だった舞踏家の大野一雄さん。「まだ現役のダンサーとして活動されていた彼をオールヌードで撮った。石内さんの撮る皮膚の写真というのは、被写体の尊厳をしっかり写し取っている。一般的な見方をすると、衰え老いた体というのは美しいものではないはずですが、こうして見るととても美しいですよね」。このシリーズは、90年代にかけて石内さんの仕事のベースとなる作品として成長していくことになる。

展示空間と写真家の関係性 ──「絹」「無垢」

そして二つ目のパート「絹」の展示室へ。高い天井に、銀色の壁。石内さんの生まれ故郷である群馬県桐生に残されていた絹織物「銘仙」を取材した「絹の夢」(2011)など、鮮やかに彩られた作品空間に、参加者も「カラフルで驚いた」と息を呑んでいた。

「石内さんの写真家としての在り方が、2000年代以降はかなり変わっていくんですね。それにはいくつか理由があります。ひとつは石内さんに限らず、美術館で写真が展示されることがとても多くなったこと。それまではギャラリーでの展示が多かったんですが、美術館の空間というのは通常のギャラリーに比べてかなり広いわけです。写真家も大きな空間を生かして展示する『インスタレーション』の方法について考えざるをえなくなった。それにもっともビビッドに反応して素晴らしい展示をし始めたのが、石内都さんだったと考えていいと思います」と飯沢さん。近年の石内さんは展示空間の壁の色にも非常にこだわっている。今回の展覧会も、パートによって壁の色を塗り分けることにより、劇的な視覚効果が生まれている。

続く展示室は、三つ目のパート「無垢」。水俣病をテーマにした小説『苦海浄土』で知られる作家・詩人の石牟礼道子氏の手と足を撮り下ろした「不知火の指」(2014-16)や、女性の身体に残っている傷を撮った「Innocence」(1995-2017)。ここでは再び人の身体を被写体にした写真が並ぶ。「傷というのは痛みの記憶ともいえる。体に残った痛みの痕跡を写すことによって、被写体一人ひとりの生の在り方を写真を通じて再び蘇らせていく、という試みですね。見方によってはグロテスクともいえますが、石内さんの丁寧なモノクロームプリントによって、昇華されたかたちでイメージが立ち現われていると思います」。

写真表現の幅広さ ──「遺されたもの」

「Mother's」(2000-2005)「ひろしま」(2007-)「Frida by Ishiuchi」「Frida Love and Pain」(2012)という3つの作品で締めくくられる最後のパート「遺されたもの」。このシリーズのはじまりは、亡くなった母親の遺品を撮った「Mother's」だ。

「石内都という名前は、実は本名ではなく、お母さんの結婚前の名前なんです。写真家としての道を歩み始めるときに母親の名前を使うというのは、彼女にとってその存在がものすごく大きいものだったということですね。ただ、二人の関係はやはり一筋縄ではいかないところもあったみたいです」。彼女の遺品のひとつであった口紅を撮るために、石内さんはカラーフィルムを使い始めた。そして、この作品以降、石内さんはすべての作品をカラーで撮っている。「Mother's」はヴェネチア・ビエンナーレ日本館でも展示され、これをきっかけに石内都の名は一気に国際的に広がっていった。この作品は写真家の大きな転機となった。

この展示を見たメキシコシティのフリーダ・カーロ美術館から依頼が来る。そして、コミッションワークとして制作したのが、画家フリーダ・カーロが生前身に付けていた服や装飾品を撮った「Frida by Ishiuchi」「Frida Love and Pain」である。「あくまでも個人的な眼差しを貫いて遺品を撮るというのは『Mother's』と一貫しています」。

一方、日本国内でも新たなシリーズが始まっていた。「Frida by Ishiuchi」「Frida Love and Pain」よりさらに前、広島の平和記念資料館に寄贈された遺品を写した「ひろしま」だ。ここで、異なる写真家による2冊の写真集を参加者で見る。報道写真の視線で広島の現実をえぐり出すように撮った、土門拳の『生きているヒロシマ』(1958)と、70年代に土田ヒロミが撮った『ヒロシマ 1945-1979』(1979)。後者には石内さんが撮ったものと同じ、広島平和記念資料館の遺品を撮ったパートがある。「土田さんは遺品をあたかも博物館の標本のように、モノクロームできっちりと、大判カメラを使って撮る。対して石内さんは、カラーで被写体が画面から切れてふわふわと漂っていたり、非常にゆらぎのある撮り方をしている。土田さんの眼差しと石内さんの眼差しの間にある明らかな違い──これは簡単に言うと、片仮名の『ヒロシマ』と平仮名の『ひろしま』の違いだと思うんですよ。この差にぜひ注目してほしいです」。こういった体系的な見方の提示は、生レビューの醍醐味だろう。

「一見、写真というのは被写体がそのまま再現されていると思われる方が多いかもしれません。しかし、絶対にそんなことはないということを、こういう機会に知ってほしい。同じ被写体を撮っても、写真家が100人いたら、100通りの表現が立ち上がってくる。それをぜひ味わってほしいですね」。1時間半にわたる展覧会ツアーは、石内都という作家個人のみならず、写真表現そのものの多様性や奥深さにも参加者の目を開くかたちで締めくくられた。


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